川瀬巴水が描いた千葉の海

版画家の川瀬巴水(かわせはすい*1)に「房州布良」という作品がある。描かれた場所は、太平洋に面した千葉県館山市布良。巴水が訪れたころは富崎村大字布良といった。

描いた風景がそのまま残っているかどうか知りたくなった。昭和24年(1949)の作というから、もう70年以上も前である。海岸は防波堤などができて、もうないかもしれない。布良については、洋画家で知られる青木繁(*2)が「海の幸」を描いた場所ということもあり、出かけてみた。

筆者は自宅が横浜なので、布良には横浜駅から高速バスで館山駅まで。路線バスに乗り換え布良まで約3時間。巴水の時代はすでに鉄道が通っていたが、明治時代、青木繁が友人たちと写生に向かったころはどうだったか。

霊岸島(中央区新川)から船に乗り、ひと晩かけて館山の港まで。最短の船でも5時間かかったという。夜に出て翌朝館山へ着き、布良へはさらに徒歩で半日程度はかかった。房総半島の先端は、はるか彼方だった。

阿波の国からやってきた神々

バスを降りて最初に安房神社へ向かう。正面に大きな鳥居が立っていた。参道は広くて長い。ずーっと奥のほうにもうひとつの鳥居がみえる。由緒ある神社だということがわかる。

安房神社の拝殿。主祭神は天太玉命。日本のすべての産業創始の神といわれる。
安房神社の拝殿。主祭神は天太玉命。日本のすべての産業創始の神といわれる。

安房神社の御由緒をみると、房総を開拓したといわれる天富命(あめのとみのみこと)が紀元前660年、今の徳島県から阿波忌部(いんべ)氏を率いて上陸した地が布良であるという。二千数百年も前のことである。

この地は要するに、大昔、忌部一族が阿波の国から船でやってきて、布良の浜に上陸し、房総半島を開拓し始めた最初の土地ということだ。

布良に上陸した天富命が安房を去ったあとに建てられた布良崎神社。
布良に上陸した天富命が安房を去ったあとに建てられた布良崎神社。

沖縄では神はニライカナイからやってくる。つまり遠い海の彼方からくる。それと似ていなくもない。

ここで布良という地名について少し。伊豆半島には妻良、紀伊半島には目良があり、すべて「めら」と読む。

「メラ」はまたギリシア語で「黒」という意味があり、黒潮の黒だろうという説。つまり黒潮に乗ってきた人々が3カ所のメラに上陸したが、土地が似ているので同じ読みになったという。

結局、「メ」は食用の海藻(布)のことで、それが繁茂する浦という意味の「布浦(めうら)」が転訛(てんか)したという一般的な説が本当のところだろうか。

しかし布良のよさは海藻だけではない。その海に開かれた地形のよさに思える。それは陰陽道の考えで、メが「女」に通じ、切り込み、くいいった場所になり、天然の良港の意味となる説もあるのだ。実際、伊豆の妻良や和歌山の目良も海に開けた良港。忌部氏もさぞや上陸しやすかっただろう。

絵に近い風景が残っていた浜辺

安房神社から海岸のほうへ向かった。相浜港に寄ってから布良港へ。何軒かの家の屋根にブルーシートが張ってある。2019年の台風15号の痕跡がいまだに残っている。

「風の通り道のところは、家が壊れたり。更地にして出て行った人も多いよ」

途中で出会ったおばあさんの話だ。

「昔は魚がいっぱい揚がったけど、いまじゃ寂れた港になりましたよ。漁師になる人もいないしね」

でもいいところですよね、と言うと、

「住めば都で、悪くないけどね。ここは台風でなくても、強い風が吹くときがあるんですよ。それがなければ……」

ふと思う。遠い昔、阿波からの開拓者はひょっとしたら強い風で布良に引き寄せられたのかもしれないな、と。

阿由戸(あゆど)の浜のほうへと向かった。途中、男神山(おがみやま)の麓に漁師たちの信仰が篤い駒ヶ崎神社が海に向かって立っている。ここから海を眺めると、遠くに島がみえた。伊豆大島だ。

駒ヶ崎神社近くから海を眺めると、遠くに伊豆大島が見える。明治時代、マグロを追って伊豆諸島あたりまでは行ったという。
駒ヶ崎神社近くから海を眺めると、遠くに伊豆大島が見える。明治時代、マグロを追って伊豆諸島あたりまでは行ったという。

阿由戸の浜はすぐ先にあった。神が上陸したという浜辺、巴水が描いた浜辺である。さすがに防波堤などは築かれていなかったので、ほっとした。

浜辺の上の国道に上がってみると、絵の風景に近い浜がみえた。おそらくこの辺から巴水はスケッチをしたのだろう。絵には小舟と海藻を並べている人が描かれているが、その代わりに、70年の月日が流れた阿由戸の浜では、カップルや、そばのキャンプ場から来たと思われる家族連れの人たちが汀(みぎわ)で遊んでいた。

阿由戸の浜から引き返し、布良崎神社へ寄ってみた。そこは安房神社の前殿といわれる神社で、天候がよければ鳥居の先から富士山がみえるが、この日は雲がみえるだけだった。

阿由戸の浜。阿由戸浜とも。ここに天富命が忌部一族を率いて上陸したといわれている。右の山は地元では鯨山。川瀬巴水の「房州布良」とほとんど同じような景観。
阿由戸の浜。阿由戸浜とも。ここに天富命が忌部一族を率いて上陸したといわれている。右の山は地元では鯨山。川瀬巴水の「房州布良」とほとんど同じような景観。

青木繁の絶筆は、布良の朝日だ

布良崎神社のすぐ近くに小谷家がある。この家が画家の青木繁他3名を明治37年(1904)の夏に40日ほど泊めて世話をした家だ。明治20年代に建てられたという現在の小谷家は、修復していまは『青木繁「海の幸」記念館』として週末だけ開館している。

中には青木繁にまつわる資料と、江戸時代から漁業を営んできた小谷家の資料が展示されていた。館長の小谷福哲さんにいろんな話を伺った。

「この二間に4人はいたんです。部屋でデッサンをしたり、浜辺に出てスケッチをしたり海で泳いだり。有名な『海の幸』は何度も描き直ししているんですが、最初のイメージは布良崎神社のお祭りの神輿ではないかと言われています。その頃は8月1日が祭礼の日だったので、青木もきっと神輿を担いだのではないかと思います」

定年後に『青木繁「海の幸」記念館』の館長を務める小谷福哲氏(72歳)。
定年後に『青木繁「海の幸」記念館』の館長を務める小谷福哲氏(72歳)。
青木繁たちが寝泊まりした小谷家の部屋。
青木繁たちが寝泊まりした小谷家の部屋。

青木たち一行は、恋人の福田たね、同郷の坂本繁二郎、友人の森田恒友の4人。全員が絵の仲間だった。28歳で死んだ青木繁にとって、布良での短い逗留は人生で最高の日々だったことが、友人に出した手紙によっても明らかになっている。ちなみに1年後、懐妊した福田たねと青木は房総を再び訪ね、布良の西方、伊戸の圓光寺に滞在する。よほどこの地が気にいったのだろう。記念館を去るとき、小谷さんが青木繁の最期の絵をみせてくれた。

「これがその絵です。『朝日』という絵ですが、佐賀県の唐津では夕日がみえても朝日はみえないんです。どうしてタイトルを朝日にしたんでしょうか」

その絵はかたわらにあった「海の幸」に比べると、力なく弱々しい朝日が描かれている。終焉の地、九州の唐津で描いたものだ。

結核にかかっていた青木繁は、人生の幕を閉じるとき、おそらく布良を思い出していたのだろう。たねと仲間たちと過ごした一瞬の夏。絵はまちがいなく唐津の海ではなく、布良の海だった。

 

*1 川瀬巴水
明治16年(1883)、東京生まれ。新しい浮世絵版画である新版画を確立した絵師として知られる。14歳で日本画を学びはじめ、いったん洋画家を志すが、なじめずに27歳の時に再び日本画家を目指すことになった。その後、「塩原三部作」で木版画の世界に。大正9年(1920)、「旅みやげ第一集」により版画家として認められていった。昭和32年(1957)没。享年74。

*2 青木繁
明治15年(1882)、福岡県生まれ。洋画家。東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学後、黒田清輝から指導を受ける。美大卒業後に布良にスケッチ旅行へ。布良で描いた「海の幸」は西洋画としては日本で最初の重要文化財となった。最期は九州各地を放浪したのち、結核が悪化して同44年(1911)没。享年28。

布良(めら)の海岸[千葉県館山市]

【行き方】
JR内房線館山駅からJRバス関東「安房白浜」行き約20分の「安房神社前」下車。

【雑記帳】
安房神社の裏手に館山野鳥の森があり、布良の街並みや平砂浦の展望が得られる。軽い山歩きができるコースとなっている。

文・写真=清野 明
『散歩の達人』2022年1月号より