月に3回も縁日が!季節を問わずお祭り気分が味わえる
江東区の西側に位置する門前仲町は、深川エリア一の商業地で繁華街。
メインストリートである永代橋通りと交差する清澄通りを中心に、店が連なり人出が多い。その永代通りに沿って仲よく鎮座するのは、お神輿の深川祭で知られる富岡八幡宮と“深川のお不動様”で親しまれる成田山新勝寺の東京別院、深川不動堂。両者とも参拝者が絶えない名所だ。
毎月1・15・28日と月に3回も縁日があって、そのたびに界隈には露店が立ち並ぶ。季節を問わずお祭り気分を味わえることもしばしばだ。しかし地元っ子にとっての祭りといえばやっぱり、“水かけ祭”こと8月の深川八幡祭。祭りの期間は街中が熱狂に包まれる。
昔からの商売の街だけれど、派手さや慌ただしさや騒々しさがない、気取りのない下町。
だから街の人も心なしか心がオープン。老舗の一見強面のご店主だって、話しかければ親切に、意外に饒舌に答えてくれたりする。通りすがりのご婦人たちに声をかけても怪しまれることなく気軽に話が弾んでしまうことだってある。こざっぱりしたやさしさが、粋で温かいなあと思える。
江戸時代にできた埋め立て地は猟(漁)師町としてにぎわった
ところで、深川エリアと言うけれど、“深川”って一体どこを指すのだろう。
深川1丁目・2丁目という町名はあるが、より広い範囲を意味する場合、目安は江東区の前身である旧深川区全域。それは江東区の西側で、駅で言うなら地下鉄新宿線の住吉、菊川、森下、半蔵門線の清澄白河、東西線の門前仲町、木場、東陽町、京葉線の越中島あたりまで。そう聞くと深川ってなかなかの大きさだ。
実はこの一帯、徳川家康が江戸入府した頃はまだ土地らしい土地もなく、葦の茂る湿地帯。江戸の都市開発が始まり、摂津国からやって来た深川八郎右衛門が中心に開拓をした埋め立て地だった。その名字の“深川”が村名となり、やがてこの一帯を呼ぶ名になったという。
門前仲町はその名の通り、門前町として発展。
ただ、この“門”が指すのは、深川不動堂ではなくて富岡八幡宮の別当として寛永4年(1627)に創建された永代寺のこと。縁起によれば、寺社地は2万坪以上とそれは立派な寺だったという。ちなみに、深川不動堂の開創は元禄16年(1703)。江戸時代中期に成田山の不動信仰が庶民の間で流行り、ご本尊を永代寺にて特別拝観したのがきっかけだったとか。
江戸~明治元年には、深川永代寺門前仲町、深川永代寺門前山本町、深川永代寺門前町、永代寺門前東仲町と、“門前”の付く町名はいくつもあったが、変遷を経て、現在は門前仲町1丁目・2丁目のみに残る。
また、漁師町があったことも街の歴史としては外せない。隅田川岸~大島川西支川の門前仲町1丁目、佐賀、永代、福住、清澄あたりには、寛永6年(1629)、“深川猟(漁)師町”が形成。近代には海苔の養殖も行われ、深川産は高級海苔の代名詞であったとか。魚介の中でも特に評判だった貝は、漁師たちの船上の賄い飯でも重宝され、これが深川名物“深川めし”へつながるのである。
昭和30年代には漁業権が放棄されたが、大島川西支川沿いには昭和60年頃まで船で東京湾へ出る漁業者の姿もあったという。
思ったほど海は遠くない街なのだ。
川がある分、空もある。縦横に延びる川沿いを歩こう
古くからの埋め立て地で、標高が満潮時の水面より低い”海抜ゼロメートル地帯”ではあるけれど、 歩き回ればそこここで川と出合える水の街。“大物”の隅田川はもちろんのこと、大横川に平久川、大島川西支川、古石場川親水公園などと、縦に横に川が張り巡らされている。そして、川がある分、空もある。雨の日でも暑くても寒くても、川と空が織り成すエアポケットにはホッとさせられる。都心であるのにのびのびした気分になれるのも、この街の魅力だろう。
そんな川に架かる無数の橋にもぜひご注目を。門前仲町のランドマークである永代橋は言うまでもないが、小さな橋たちにも橋名にちなんだテーマデザインがそれぞれあり、とにかく表現が豊か。繊細な美人系、愛らし系、こざっぱりしたシンプル系、「なぜ?」と突っ込みたくなるユニーク系などと、勝手にカテゴライズするのも楽しい。トラス橋やアーチ橋、欄干、レリーフ、親柱、照明灯などに散りばめられたこだわりを見逃さず、細部まで観賞してみよう。ビビッとくる“推し”との出合いもきっとあるはず。
渋沢栄一ゆかりの地も!歴史的な建築やモニュメントに注目
門前仲町は“お江戸”とか“下町”といったイメージも強いけれど、明治期以降の近代史跡も見逃せない。
新一万円札で今をときめく渋沢栄一は明治9年(1876)より深川福住町(今の永代2丁目)の屋敷を購入して暮らし、倉庫業の必要性を感じて倉庫会社も立ち上げた。現在その地には江東区登録史跡「渋沢栄一宅跡」の解説板が立っている。
6つ並んだ丸窓がかわいらしいモルタル壁の建物は「旧東京市深川食堂」。昭和7年(1932)築の震災復興代建築で、低所得者へ安くて栄養ある食事を提供する市設の食堂施設だった。閉鎖される平成の時代までさまざまな施設として利用され続け、2009年から観光と文化拠点の『深川東京モダン館』として活用されている。
残念ながら解体された建築物は多いが、佐賀1丁目の食糧ビルディングや村林ビルのように跡地にモニュメントが置かれ、今もひっそりとその歴史を伝えてくれる。近代の残り香も感じてみよう。
行列も名物。老舗から新店まで酒場が林立する飲ん兵衛の街
そして忘れちゃいけないのが、飲ん兵衛の街という魅力。
まだ明るい夕方前から行列ができて観光名所的存在の魚三酒場をはじめ、永代通りとその裏路地には酒場が林立。ジャンルも、大衆居酒屋、バー、角打ち、クラフトビール専門店、ワイナリーと豊富で飽きさせない。
「赤札堂」のそばにはディープな雰囲気の飲み屋街・辰巳新道が。長らく“一見さん”が入りにくい横丁の代名詞的存在だったが、コロナ禍以降新陳代謝が進み、ギリシャの白壁をイメージした『ギャラリー・ダイジロ』、イタリアンワインが楽しめる『noka』なども登場、景観が変わってきている。
「出店するなら、自分が知ってる土地の中で一番お酒好きの方が集まる街にしたいなと思いまして」と、最近できた和歌山の梅酒専門店『梅酒堂』の 店主も言っていたっけ。ちなみに、梅酒=甘い、弱い人向けと思われがちだが侮れません。ベースの酒は多彩だし、中には30度あるものも。「梅酒か」なんて思いはきっと覆される。
昔ながらの老舗あり、自分の世界が広がる刺激的な新店あり 。
さあ、今宵の締めはどこへ行こう。
ちょっと尻込みしてしまう店だって、大丈夫。ここは普段着が似合う、気取らない下町・門前仲町だもの。えいやと飛び込めば、 こざっぱりと、温かく、迎えてくれるはずだから。
門前仲町で出会うのはこんな人
表通りは繁華街。目立つのは参拝客やビジネスパーソン、そして夕方以降は酒場目当ての飲ん兵衛たち。この街の素顔は、むしろ隅田川をはじめとする川で垣間見えるかもしれない。
川沿いにはいつでも人がいる。ウォーキング、ランニング、犬の散歩、自転車で走る人、通勤通学の時間帯になればスーツ姿や学生服姿も増える。川沿いに降りて一緒に歩いてみれば、ああ、なるほど。車が通らず、信号待ちもなし。自分のペースで目的地までショートカットできる便利なワープルートだった。
そうかと思えば、あまり動かない人もいる。たいていはベンチに腰掛けひと休みの人だが、井戸端会議する人もいてほほえましい。読書や電話、ノートPCを広げる人も多い。川に向かって立つ人はたいてい釣り人。何が釣れるのかと聞けば、「クロダイだよ」と言われて驚く。
この街の川はもうほとんど海。そして、人々に欠かせないサードプレイスなのだ。
取材・文・撮影=下里康子
文責=さんたつ/散歩の達人編集部
イラスト=さとうみゆき