音楽の記事一覧

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青山通りはアビーロードに似ているだろうか~かぐや姫『アビーロードの街』『マキシーのために』、尾崎豊『十七歳の地図』の舞台を歩く【街の歌が聴こえる/青山通り編】
ハンガリーから贈られた「街の音楽」という像が青山通りにある。道化師のような紳士が気持ちよさそうにバイオリンを弾いている像だ。今回の舞台は青山通り。かぐや姫と尾崎豊の名曲の時代を想像しながら歩くことにしよう。
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8月6日が来るたびに思い出す。 浜田省吾と名盤『J.BOY』。 ハマショーはなぜ怒っていたのか。
1986年――。それは日本のミュージシャンのアルバム当たり年だった。3月、BOØWYの『JUST A HERO』。4月、山下達郎の『POCKET MUSIC』。6月、松田聖子自身最大のセールスを記録する『SUPREME』。7月、渡辺美里が大ブレイクする2枚組『Lovin’ you』と、KUWATA BAND唯一のオリジナルアルバム『NIPPON NO ROCK BAND』。10月、バービーボーイズの『3rd BREAK』。11月、大江千里の『AVEC』と、BOØWYの『BEAT EMOTION』。12月、オフコースに在籍しながら小田和正のファーストソロアルバム『K.ODA』と、佐野元春の『Café Bohemia』。何これ。書き連ねていくうち怖くなってきた。大半がオリコン1位。全部持ってた。1986年は世代も性別も音楽性も異なるミュージシャンがキャリア最高傑作と呼ぶにふさわしいアルバムが発表された。そしてその中でも9月に発売された、浜田省吾の『J.BOY』は圧巻だった。オリジナルアルバム2枚組。当時33歳の浜省が半生を振り返り、余すところなくすべてを詰め込んだ集大成が『J.BOY』だった。メッセージ性の強い歌詞で綴られる、珠玉の物語集。これは読んでもらわないとわからないので「AMERICA」、「八月の歌」、「J.BOY」の歌詞を見てください。
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YouTubeで成功した後輩たちに会って感じた、青春の光と影
私が通っていた早稲田大学には当時数十もの音楽サークルがあったが、私がいたサークルは“オリジナル曲中心”を標榜していた点で他とは少し違った。ヒップホップ、ブラック・ミュージック、レゲエなどジャンルによって区別されているサークルが大半の中、実力はさておき、とにかく自分の音楽を作り、ひいてはその音楽で世に打って出たいという野心を持つ者が数多く属していたように思う。とはいえ、ごく一部の例外を除きその活動が世間に評価されることはない。サークル員たちはバンドを組み下北沢や新宿のライブハウスに毎月出演していたが、全く芽の出る気配のない数年を経た後も音楽を諦めきれず、またはサークル内の退廃的な空気に流され1年か2年留年した後、結局は普通に就職してそのうちバンドをやめてしまうパターンが大半だ。就活に力を入れて来たわけではないため有名な大企業に入社できるような者はほとんどおらず、大体は適当な中小企業に就職する。私も音楽で世に出るという野望を隠し持ってサークルに入ったクチではあるが、やはり1年留年して卒業する時期になっても音楽で食っていく道は全く開けていなかった。才能はなくともバンドを諦めて実家に帰るのはどうしても受け入れがたく、東京に残る口実として仕方なく小さなIT企業に就職したものの、全く適性がなく1年半で離職。その後、バイトを転々としながらのらりくらりとバンド活動を続け、今に至る。あの頃はバンドをやめて就職することが人生の敗北を意味するようにさえ感じていたものだが、30代も半ばになるとそんな熱っぽい考えも消えた。音楽家として生きていくことと、会社に就職して生きていくことの間にそこまで大きな隔たりがあるようにも今は思えない。もっとも、それは私が人一倍長い時間バンドにしがみつき、こうして媒体で時々自分の思うところを書かせてもらったりしているおかげで、表現欲や承認欲求といったものが多少は満たされているせいかもしれない。だが収入面でいえば、あの頃サークルにいた面々の中で現在の私は最下層になるのだろう。私の知る限り最も経済的に成功しているのは、「SUSURU TV.」というYouTubeチャンネルの運営会社の代表をつとめる矢崎という男だ。
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葉山の海岸に毎夏現れる『海の家OASIS』。こつこつ造って40ウン年、この夏も待ってる!
葉山の森戸海岸に毎夏現れる『海の家OASIS』。竹でできたゆる~い空間から漏れてくるレゲエサウンド、ジャークチキンの匂いに誘われ、地元から、遠方からOASIS好きが集いだす。代表の朝山さんが、OASIS誕生の物語や葉山愛を語ってくれた。
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都電荒川線・王子~大塚さんぽコース! 五感を磨いて探せ曲者物件たち
あれも無くなった、これも消えた……いくら再開発の手が入ろうと、屈指の底力を持つ王子と大塚に挟まれた都電沿線は、歴史も文化も風景も多様なごった煮ルート。持てる感覚を総動員し、アンテナ張って歩こう。
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老舗飲み屋に行って「おすすめ」を聞くと大変なことになった。
以前、友人と2人でとある温泉地へ旅行したときのこと。夕食後、せっかくなので地方のスナックに行ってみたいねという話になった。地元の同級生がいつもスナックで飲んでいるという話を聞き、私も大人の嗜みとしてスナックを経験しておきたいと思ったのだ。店前に着いた。が、重厚な木製の扉で中の様子は全く見えない。勇気を出して開くと、カウンターに二人組が座っている以外に客はいなかった。よかった、空いていたと胸を撫でおろし、店員に「今から2人いけますか?」と尋ねたところ、彼女はなぜか気まずそうな顔で「……ちょっと確認しますね」と言い、店の奥の女性と小声でやりとりした末、「すいません、今日予約でいっぱいなんです」と私に告げたのである。店員間の不自然なやりとりの様子から、嘘の理由をつけて断られたのだとわかった。本当に予約がいっぱいならば、尋ねる前から把握していたはずだ。なぜ入店を断られたのかわからず不満だったが、ともかく入れないのなら仕方ない。気を取り直して2軒、3軒とスナックをまわったが、どの店でも似たような態度で断られ、結局その日スナックに行くのは諦めた。帰り道、一体何が原因だったのかと話し合った。もしかしたら私たちが旅館の浴衣を着ていたのがいけなかったのかもしれない。店にいた客はみんな普段どおりの服装をしており、観光客ではない現地の人のように見えた。スナックにもそれなりのドレスコードがあるのか。それとも浮かれた観光客は鬱陶しいので入店させないようにしているのだろうか。はっきりした理由はわからずとも、私たちが知らぬ間に暗黙の了解を侵していたのは確かなようだった。そういった暗黙の了解は、スナック以外にも、ちょっと敷居の高い飲食店に行けばしばしば遭遇する。食べ終わったラーメンの器をカウンターの上段に上げるべきか否か。食べながらスマホをいじっていると怒られやしないか。注意書きでも書いておいてくれればいいが何の説明もない場合もある。やがて店員があからさまに愛想が悪くなったのを見て、何かやってしまったようだと察する。あとで店のしきたりをネットで調べ、確かに自分が知らず知らずのうちに無粋な行動をとっていたのだと反省することもあるが、何度思い返しても納得のいかないこともある。数年前のある日。左右というバンドをやっている友人の花池君、デイリーポータルZでライターをしている大北さんと千葉で取材した帰り、せっかくだから下町の老舗居酒屋に寄って帰ろうということになった。電車の中で大北さんが検索して見つけたその居酒屋は、決して高級店ではなく、値段は安いが味は確かで、いつも常連客で賑わっていると評判の、いかにも私たちが好きそうな店だった。暖簾をくぐると店内は老舗感にあふれていた。私は床が油でベトベトだとか天井が炭で真っ黒だとか、そういった古い店の汚さは気にならない質だ。ただ、奥の座敷へ通された時、観光みやげのペナントや将棋の駒の置物などが壁際に雑然と並んでおり、その「他人の家っぽさ」を少し苦手に感じた。
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赤羽にあふれる音楽。あたらしい「音」を探しに行こう。
赤羽駅のホームに降り立つと、何やら聞き覚えのある発車メロディが。駅前には老舗のCDショップ、街角には年季の入ったストリートピアノ……。今や音楽は配信で、イヤホンを使って聴くことが増えたけれど、この街には生き生きした「音」があふれている。さあ、ちょっぴり懐かしくって、新しい「音」を探す散歩に出かけてみよう。
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すでに堤防は決壊しそうだったが、私は一気に液体を飲み干した
子供の頃は大食いがかっこいいことだと本気で思っていたがあれは何だったのだろう。テレビの大食い番組を食い入るように観ては自分もいつか絶対あの舞台に立ちたいと思っていた。回転寿司へ連れて行ってもらえば自己記録を一皿でも伸ばそうと、食べたくもない寿司を食べた。クラスにも、誰よりも多く給食をおかわりしようとするライバルが必ず数人はいた。大食いがかっこいいという感覚がどこで植え付けられたのかは分からないが、少なくとも大食いに憧れていたのは私だけではなかったようだ。小3の頃、あきひろおっちゃんと呼ばれる友達の叔父がバイキングへ連れて行ってくれる機会があった。将来フードファイターを志す者としては腕を試される場所だ。友達に圧倒的な大食いの実力差を見せつけ、あわよくば初対面のあきひろおっちゃんにも「こんなに食う子がいるのか」と驚いてもらいたい。ただ、あきひろおっちゃんは怖い人だと常々聞かされていたので少し不安だった。何の前触れもなくブチ切れ、友達のいとこはよく泣かされているらしい。何が逆鱗に触れるのか分からず怖かったが、とりあえず「いただきます」と「ごちそうさま」を忘れないように言おうと決意した。おっちゃんは車の中でほとんど喋らず、友達もいつになく無口だった。車内の静けさが不安を搔き立てたが、店に着いてしまえばそんなことを気にしてはいられない。制限時間は90分。友達と競い合うように肉を取り、我先にと網へ乗せていく。あきひろおっちゃんは私たちを気にするでもなく、ただ自分のペースで肉を焼いていた。昼飯を抜いて可能な限り腹をすかせて臨んだのに一時間も経たないうちに満腹になった。時間はまだまだ余っている。ここからが勝負だ。鶏肉など比較的あっさりめの肉に切り替え、強引に咀嚼し飲み込んでいく。腹がいっぱいでも感覚を無視して口に入れていけばなんとか食べられるものだ。そう感じた瞬間もあったが、しばらく経つともう満腹感どうこうの問題ではない、今までに経験したことのないレベルの限界を感じた。これ以上は何一つ食べたくない。いや食べられない。
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中高生の頃、死ぬほど聴いていたアルバムを聴き直してみました
最近(注:2018年)はヒップホップばかり聴いている。そして反動なのか、10代の頃に聴いていたアルバムを引っ張り出している。懐かしかったり、あまりの音の古さに驚愕したり、よくこんな文学的とはほど遠い、幼稚な歌詞の歌を聴いていたなとしみじみしたり。中島みゆきや泉谷しげるも入れようかと思ったのですが、このふたりに限って30年間ご無沙汰ということはありえませんでした。というわけで、我ながら恥ずかしい企画だなと思いますが、いってみますか。
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朝ドラ『カムカム』ロスのあなたに捧ぐ! 歴史的傑作の舞台、岡山・大阪・京都を3人のヒロインと歩こう【朝ドラ妄想散歩】
朝ドラ『カムカムエヴリバディ』がついに完結。朝ドラは半年間も放送するから毎回「ついに完結」という思いがあるが、今回は親子3代、100年の物語という、まさにNHKの“ファミリーヒストリー”を具現化する作品で、「ついに」という感慨は普段より大きい。大正から令和まで続く家族の物語を最後まで見終わり、達成感を感じた人も多いだろう。安子(上白石萌音)、るい(深津絵里)、ひなた(川栄李奈)と朝ドラ初の親子3代の物語に胸を熱くさせられた。ヒロインたちは戦前、戦後、そして平成を懸命に生きる女性として描かれ三者三様に美しく、まぶしかった。
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池袋PARCOの屋上でフェス開催!4月16日・17日は「ChillCity2022 Spring in Ikebukuro PARCO」
音楽、映像、アート、ファッション、フード……さまざまなカルチャーが入り混じり、「チル」をぎゅっと詰め込んだ空間を提供するフェス『ChillCity』。池袋PARCOの屋上を舞台に圧巻の映像投影で魅せるイベントが、2022年4月16日・17日に開催される。
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神社の息子パワーは、小泉進次郎似の若者の前に全く無力であった
実家が神社をやっている影響で、子供の頃の私は近所の人たちから割と丁寧に扱ってもらっていた。道を歩いて老人とすれ違うと「あんた神社のとこの子やんな。はよお父さんやおじいちゃんみたいに立派な神主にならんといかんで」と声をかけてもらうことが多々あった。親の命令により毎日学校に行く前に神社の階段を掃除させられていたことも近所で知られており、「あんたは偉いなあ」とよく知らない人から褒められたりもした。半面、私は古典的なマンガに出てくる悪ガキ的ないたずらをして、近所の雷親父から「コラー!!」と追いかけまわされるようなキャラクターにちょっと憧れていた。しかし、もしいたずらをした相手が私を神社の息子だと認識していたら、過去に「立派な息子さんやなあ」と神主の父にお世辞を言ったことなどを思い出し、𠮟りつけるのを躊躇して気まずい空気になるのではないか。そんな心配のせいであまり大胆にピンポンダッシュもできず、サザエさんのカツオのような天真爛漫なやんちゃ坊主とはかけ離れた自分のキャラ設定を歯がゆく思った。年に一度、神社が主催する恒例のバスツアーがあった。30人程度でバスを貸し切り、ほかの地方の有名な神社を回る。神主である父親はそのバスツアーの先導役であった。私はあまり神社を巡りたくはなかったが、毎年3日ほどは小学校を休み、バスツアーに参加させられた。神社の跡継ぎとして期待され、高齢者ばかりの旅に参加する唯一の子供であった私は、みんなに可愛いがられた。人見知りで無口な子供だったため小学生としてはあまり可愛げがなかったように思うが、他に比較対象がいないおかげでツアーのマスコットキャラクター的な注目を一身に集め、ことあるごとに「これ食べな」とおやつを貰ったり、「学校は楽しいか」と話しかけられた。私はイメージを壊さないようできるだけ努力して振る舞いながらも、学校でのキャラクターとは違う丁寧な扱われ方を息苦しく思った。大学2年の時、上京していた私のもとに父親から電話がかかってきた。昔私が参加していたバスツアーで、新橋のちょっといいホテルに来ているらしい。「美味いもん食わせてやるから仲がええ友達何人でも連れてこい」と父親は言った。今や典型的ダメ大学生と化した自分が、信心深い氏子さんたちの集まる場に顔を出すのは多少抵抗もあったが、その頃金欠であまりいいものを食べていなかったせいもあり、「美味いもん食わせてやる」という父親の誘いは魅力的だった。サークルのたまり場で友人たちに話してみるとみんな「面白そうじゃん、行ってみようぜ」と乗り気な様子だったので、そのまま友人たち3人を引き連れ新橋へ向かったのである。
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【高円寺って、どんな街?】“中央線カルチャー”の代表格。サイケでカオスで芳ばしくて暑苦しいけど、夢追い人に寛容な街。高円寺芸人も沸騰中!
高円寺は、キャラの濃い中央線沿線のなかでもひときわサイケで芳(こう)ばしい街だ。杉並区の北東に位置し、JR高円寺駅から、北は早稲田通り、南は青梅街道までがメインのエリア。中野と阿佐ケ谷に挟まれた東京屈指のサブカルタウンであり、“中央線カルチャー”の代表格とされることも多い。この街を語るときに欠かせないキーワードといえば、ロック、酒、古着、インド……挙げ始めればきりがない。しかし、色とりどりのカオスな中にも、暑苦しい寛容さというか、年季の入った青臭さのようなものが共通している。
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海辺の町だからこそ味わえる房総半島のグルメ&カフェ12選。海と海の恵みを堪能しよう!
どこへ行ってもおさかな天国の房総。モノもよければ値段もリーズナブル! そして、開放感がたまらない海が見えるカフェも外せない。わざわざ食べに行きたくなる房総半島の地元めし11選をピックアップしました。お昼と夜とで、ハシゴするのもアリかも!
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俺たちは「東京の人」になった。ただそれだけでうれしかった。
3月にしては暖かい日だった。第一志望の早稲田大学文学部に合格した私は、姉に付き添ってもらい不動産屋を回っていた。高田馬場駅近くには不動産屋がいくつもあり、おすすめの物件情報がペタペタ貼られた看板がずらりと並んでいる。とりあえず名前を聞いたことのある綺麗な不動産屋に入ったが、話を聞いている合間に姉から「やす、もうここ出るで」と促された。店を出て「何がいかんかったん?」とたずねると、こちらが指定した値段よりちょっと高い物件ばかり出してくる不動産屋はダメだ、とのこと。「不動産屋って基本こっちの言うことごまかして、できるだけ高い部屋借りさそうとしてくるもんやから、気つけんといかんで」と姉は言った。いい人そうな店員だったが、確かに私の希望より数千円高い物件ばかり紹介してきた。でもちゃんとした不動産屋がそんなずるい事をするものだろうか。次は「早稲田の学生向け物件多数」と看板に掲げていた店に入ってみた。さっきは「高田馬場周辺で3万円代」という条件を伝えると非常識なことを言っているような反応をされたが、そこの若い男性従業員は「風呂無しでかなり古いアパートになりますよ?」と牽制しながらも、条件を満たす物件を最初から出してきた。なるほど。姉の言う通り、いい不動産屋と悪い不動産屋があるのかもしれない。その不動産屋の従業員の多くは早稲田の卒業生らしい。私が当たった男も法学部だったという。物件の紙を見せながら、「ここ友達が住んでたんですけど居心地よかったですよ」などと現場感のある情報をくれる。この不動産屋いいじゃん、と思った。いくつか紹介された中から2つに絞り、流れのまま内覧をすることに。歩いて向かっている途中、「何で文学部にしたんですか?」とたずねられた。自分なりに細かい理由はあったが、話せば長くなる。「まあ本とか好きなので……」と曖昧に答えると、「へえ、どんな作家読むんですか?」と掘り下げてきた。好きな本はたくさんあったが、好きな作家は誰かと聞かれたらなかなか難しい。国語の教科書に紹介されているような有名な文学作品はそれなりに読んだものの、掘り下げて何冊も読んでいる作家はほとんどいなかった。悩んだ末に、思いついたのが重松清だ。直木賞を受賞したタイミングで名前を知り、図書館で借りて読んでみたら面白かったので5冊くらい読んだ。どれも面白かった。確か、あの人も早稲田出身だったしその辺でも話が広がるかもしれない。そんなことを思いながら「重松清とか読みますね」と答えた私に対し、不動産屋は苦笑しながら「ああ……、あんま本読まないんですね」と言った。イラッとした。どうして売れてる作家だと読んだことにならないんだよ。咄嗟に「え、じゃあ誰の本読むんですか?」と聞き返すと、彼は表情に余裕を浮かべ「三島とか谷崎とかですかね」と言った。卑怯な男だ。歴史が才能を証明した、否定しようのない作家ばかり挙げてきて。三島由紀夫が天才だったとしても、それを読んでるお前がすごいことにはならない。ていうか俺も『痴人の愛』ぐらい読んだことあるし。地元では好きな本の話をできる友達が少なく不満だったが、東京ではふらっと入った不動産屋の店員が好きな作家で人を見定めてくる。いや、早稲田にそういう奴が多いだけかもしれない。そういえばこの店員は文学部より若干偏差値が高い法学部の卒業生であることを、聞いてもいないのに節々でアピールしてきた。大学で音楽サークルに入るつもりだった私は、サークルを回って好きなミュージシャンをたずねられた際は、人から絶対にマウントを取られない名前を挙げようと、そのとき深く心に刻み込んだ。
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ハンズにZepp、大江戸温泉物語……2021年下期に姿を消した平成の風景
日々、街の表情が大きく変化する東京。2006年、私はふと思い立って、消えていく風景を写真に納めることにしました。「消えたものはもう戻らない。みんながこれを見て懐かしく感じてくれたらうれしいな」とそれぐらいの気持ちで始めた趣味でした。そんな、東京から消えていった風景を集めた「東京さよならアルバム」。今回は第17弾として、2021年8~12月に消えていった風景を紹介します。 写真・文=齋藤 薫
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純烈リーダー・酒井一圭に聞く、思い出のスーパー銭湯~館内着で育んだ“純子”と”烈男”とのメモリアル~
ある時は、大江戸温泉物語の幕間舞台で。またある時は健康センターの大広間で。お風呂屋さんからブレイクしたスーパー銭湯アイドル「純烈」。館内着で育んだ“純子”と”烈男”とのメモリアル。
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かぐや姫『神田川』に歌われた「小さな下宿」や「横町の風呂屋」は今もあるのか?【街の歌が聴こえる/早稲田・高田馬場編】
今回の舞台は「早稲田、高田馬場」界隈。NHKの朝ドラにも登場した『紺碧の空』と四畳半フォークの金字塔『神田川』がテーマである。あの歌に出てくる「三畳一間の小さな下宿」は、今もどこかにあるのだろうか?
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赤坂の繁華街で上司は言った。「マックでいいんじゃね?」
五反田の本社から品川に派遣され、できもしないシステムエンジニアの真似事をやっていた時期、とにかく仕事に行くのが嫌で仕方なかった。職場のビルに火災が発生したり、爆破予告が行われたりして休みになればいいのに、と不謹慎なことを毎晩夢想していた。“公園やパチンコ屋でサボっている営業職の話”を仕事中にこっそりネットで読み、心から羨ましく思った。派遣先に常駐させられている私にできる精一杯のサボりは、そうしたネットのくだらない記事を小さなウインドウで盗み見したり、喫煙所に行く回数を増やすことくらいだった。しかし稀に、公然と社外に出て上司からの監視を逃れられるイベントがある。その一つが健康診断だ。溜池山王にある健診センターに出向き、小一時間ほどの健診を受ける。年に一度の大イベントだ。数日前から待ち望んでいた健康診断。午後からの健診ならそのまま直帰できる可能性も高かったが、午前の健診に振り分けられた私は、終了後再び品川に戻ることを命じられ落胆した。それでも、数時間職場から離れられるのはありがたかった。昼メシや帰り道にできるだけ時間をかけて帰社時間を遅らせれば、ほとんど働かずに家に帰れるかもしれない。小学校の遠足より楽しみにしていた健康診断当日。出社していくつかメールを返したりプログラムのコードを眺めたりしているうちに溜池山王へ向かう時間が来た。仲が良かった同期も同じ午前の健診だった。席まで迎えに来てくれた同期と一緒に、浮き足立ったテンションで会社を出て駅へ向かう。しかし健康診断は、流れ作業のように、あっという間に終わった。始まってまだ30分しか経っていない。効率化が徹底されている。もっと無駄に並ばせたり、ダラダラやってくれてもよかったのに……。さて、ここからが私の技術の見せどころ。できるだけゆっくりとランチをし、できるだけチンタラ歩いて品川へ戻ることにしよう。
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ハウンドドッグを笑う奴は誰だ
あれは高1のときだった。頭の悪い学校に通い、担任の小井戸がいる社会科の教員室に呼ばれた。小井戸は朝日新聞を読んでいた。番組表の横にハウンドドッグのライブの広告がデカデカと載っていた。そこにはこんなキャッチコピーがあった。“ハウンドドッグ日本武道館10DAYS”その下には長いセリフキャッチ。“武道館10daysオレはかりたてられる武道館10daysあきらめない大友康平“小井戸の前ではおくびにも出さなかったが、軽く面食らった。だってロックミュージシャンの夢である武道館を10日間もやるっていうんですよ? しかもこの後1日追加され、その日はファンに無料で開放したと知ってグッときた。小井戸が何を話したかまるっきり覚えていないけど、ハウンドドッグのその広告は脳裏にはっきりと焼き付いている。ハウンドドッグはこの前年、日清カップヌードルのCMに「ff(フォルティシモ)」が起用されてブレイクした。“愛がすべてさ 今こそ誓うよ 愛を込めて 強く強く”わかりやすい歌詞ですね。ちなみにこの頃カップヌードルのCMに使われた主題歌はすべて大ヒットしていた。大沢誉志幸の「そして僕は途方に暮れる」、中村あゆみの「翼の折れたエンジェル」、鈴木雅之の「ガラス越しに消えた夏」(作曲とプロデュースが大沢誉志幸)。みんなブレイクした。ハウンドドッグはこれより前に一応売れていたのだけれど、全国区になって「夜のヒットスタジオ」など歌番組に頻繁に出るようになったのはここから。ハウンドドッグは売れた。売れた。まあ売れた。ハウンドドッグを仕掛けた事務所はMOTHER。MOTHERは所謂「ギョーカイ」に興味がなかった素人の僕でさえ「あそこは他と一線を画す」という認識を持たせた。なんせハウンドドッグの他に尾崎豊、ストリート・スライダーズ、レッド・ウォリアーズ、LOOK(!)、泉谷しげるなど。みんな男臭い。みんな大好物。栄華を極めていた。ハウンドドッグの戦略はカリスマ性を持つボーカリストの大友康平はもちろん、先述した煽りの広告と「●days」で、次々とライブの動員数を増やしていくもの。「応援したい」とファンを駆り立てるものだった。はい、僕もその動員にまんまと貢献しましたよ。あー小っ恥ずかしい。僕の初ハウンドドッグライブは、記憶が正しければ1988年8月26日。「西武球場5days」の中日だった。超満員。入場曲は「炎のランナー」。花火の代わりに巨大スポットライトで空を照らす大掛かりな演出。「ff」の最中ずっと腕を振り上げなければならないので右肩が疲れたことぐらいしか覚えていない。あ、もう一個思い出した。同じ日にチェッカーズが東京ドームでライブだったの。それで当日夜、とんねるずがフジテレビの番組(「プロ野球ニュース」の特別版?)で、見慣れないキャスター仕事を務めていた石橋と木梨が「西武球場まで野球を観に行ったらハウンドドッグがライブをしていました」「僕は東京ドームに行ったらチェッカーズがやってました」とニヤニヤしながらコメントしていた。なんでこんなくだらないことを覚えているのだろう。悲しくなってきた。翌年、ハウンドドッグは「首都圏30days」なるツアーを企画する。友達の椿くんに誘われて横須賀まで足を延ばした。あと1日は確か千葉。両方とも小さいハコで、大友康平が舞台袖までやってきたので見ていた2階から階段を駆け下りた。この頃だろうか、この連載に何度となく出てくるTBSラジオ「サーフ&スノー」に、女性リスナーから送られてきたハウンドドッグのライブ感想のハガキが読まれた。平たく言うと「みんなで一糸乱れず拳を振り上げる様子が、我にかえると怖い感じがした」。今よりずっとアホだった僕は「なんじゃそりゃ」と反感を抱いた。もちろん今はわかる。その後U2が敢行したワールドツアーで、ライブがいかにヒトラーの演説と同じ構造を持つか、観客を熱狂に駆り立て、ファシズムや全体主義を生み出すかをシニカルに実証した。それにしてもあのハガキを選び、読みあげたDJの松宮一彦はなんと賢者だったことか。
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