生涯を合戦に捧げた武将・稲葉一鉄
一鉄の居城・曽根城(岐阜県大垣市曽根町)の数キロ北に位置する揖斐(いび)城を、一鉄は二度攻めている。一度目は斎藤家を離れ、信長についた直後。二度目は本能寺の変の翌年、一時的に混乱状態に陥っていた美濃で、敵対する堀池家の籠る揖斐城を攻め、落城させている。ちなみにこの時、一鉄、68歳。「生涯を戦いに捧げた男」といっていいだろう。
一鉄はこの城のどこを弱点と見て、どこから攻め込んだのか。今回は、そんな視点で、揖斐城を攻めてみたい。
揖斐城攻めの起点は、徒歩なら麓の三輪神社から。車なら中腹にある一心寺まで登れるので、比高は半分くらい稼げる。それでもまだ、100m近くの高低差がある。
ただ、幅の広い登山道が整備されていて、極めて歩きやすい。グリーンシャワーを浴びながらの快適な山歩きを10分弱。やや勾配のきつい、尾根の突端のような部分を越えると、見えてきた。
まるで刃物でスパッと切り取ったみたいに削られた、平坦な曲輪群。それがズラッと並んでいる。縄張を見るとよくわかるが、揖斐城は縦に長い尾根筋に、一直線に並んだ縄張が特徴的だ。
現在立っているのが、南の丸の手前(縄張図でいうと下側)、三つの曲輪が並んでいるあたり。このまま直進すると、いきなり本丸だ。そんなに攻めやすくて大丈夫なのか。
と思ったらやはり、しっかり“巨壁”が待ち構えていた。
思わず苦笑してしまうぐらい、見事な切岸。信貴山城には及ばないが、なかなかの角度と高低差だ。本丸に駆け上がってみる。
かなり遠くまで見晴らせるのがよくわかる。切岸は「頭上からの攻撃のため」と「急勾配で登攀(とうはん)を困難にするため」のもの。と、語られることが多いが、高低差による眺望を得られるのも大きい。この場に立つと一目瞭然だ。
ここまで歩いてきたルートで、攻め手は尾根の一本道を登ってくるしかないとする。ここまで守備側から丸見えだと、相当の犠牲は覚悟しないと……。
それにしても、随分と広い曲輪だ。尾根上に曲輪が並ぶタイプの山城というと、例えば岐阜城のように、あまり兵が駐屯できない印象があるが、揖斐城には相当数が籠もれそうだ。
本丸内を奥へと進んでゆくと、北端の虎口にたどりついた。南端は切岸、北端は虎口、そしてその外に大堀切と土橋が控えている。
ここでも先ほどと同じように、振り返ってみると──。
大堀切があるせいで、本丸側は高土塁のように盛り上がって見える。なんだか不安を煽るような形状の土橋を駆け抜け、枡形虎口を突破しないと本丸には突入不可。なかなかキビシイが、さっきの切岸を突破するよりはマシな気もする。高低差も半分以下だ。
改めて縄張図を見てみよう。「現在地」マークのところが、ちょうどこの大堀切だ。
この先も二の丸、三の丸と、合間に小さな段曲輪を挟みながら、尾根沿いにタテにやたら長い曲輪が連なっている。いずれも、本丸と同じぐらいの広さはありそうだ。尾根を歩ききった先に、小高い山が見えてきた。出丸だ。
ここでも出丸に登って、振り返ってみる。
本丸と同じように、気持ちいいぐらい見晴らしは抜群だ。そして、両側が崖状になっているのがよくわかる。本丸と出丸が、城内の2つのピークで見晴らしもいい。二大重要拠点とみていいだろう。城下への眺望がいいのも共通している。
本丸からと、出丸からの城下の眺望写真を見比べると、景色が異なるのがよくわかる。自然地形の制約がある山城では、360度全方向を見晴らせるピークはなかなかない。そのため、複数の「見張台」を設けて、補いあうことはよくある。戦国時代にドローンはない。だから知恵を絞って築城の妙技で補うしかないのだ。
ただ、この出丸が本丸と大きく違う点がある。曲輪内が非常に狭いのだ。その割に、斜面もゆるやかだし、切岸感はほとんどなく、簡単に奪取できそう。とにかく出丸を奪ってしまえば、三の丸は丸ハダカ。さらに二の丸までも一気に進めそうだ。そこまでいけば、残すは本丸北の土橋と枡形虎口のみ。士気は最高潮、勢いにまかせて突破してしまえそう。
勇猛果敢、頑固一徹の豪の者。稲葉一鉄であれば、そんな一気呵成の力攻めでこの城を落としたのではないか。出丸から三の丸側を眺めながら、そんな攻城戦を頭の中で思い描いてみる。攻め手や守り手のキャラがわかっていると、想像する楽しさは一気に倍増する。
脇道で見つけた“土の城”の真骨頂(しんこっちょう)
ここまでで、揖斐城の主要部をほぼ踏破したので、続いて脇を攻めることにする。三の丸まで引き返し、西ノ丸曲輪方面へ。
縄張図にしっかり描かれている大手門は、残念ながらそれらしき痕跡はほとんどなし。その先の道も、大手道にしてはかなり心もとない。本当にこちらが大手だったのだろうか? 尾根道の方が歩きやすいし、だからこそ本丸の南側に、あれだけの切岸を構えていたのでは?
そんな疑問を抱きながらたどりついた西ノ丸曲輪。ごくごく一般的な帯曲輪だ。ふと下を見下ろすと、緑の隙間にどうも気になる地形がある。
城の隅々まで見たい気持ちはあるものの、山城では「どこまで攻めて、どこで引き返すか」も大事。特にそれが下り坂の先なら尚更だ。攻めすぎる(=下りすぎる)と引き返す(=登って戻ってくる)のに一苦労するのは、周山城でも経験済だ。気になって足を伸ばしても、そこにはただ、普通の帯曲輪があるだけ、ということも多い。
アングルや距離、障害物によってチラチラしているのが、一番悩ましい。行くべきか、行かざるべきか。結局、「何か匂うな」と下ってみることにする。縄張図上の「大手曲輪」にあたる場所まで降りてみると──。
感動の一瞬である。「ここにあったか!」と、思わず心のなかでつぶやく。
ここまで城の主要部では、切岸以外はイマイチ、土の城らしい遺構には出合えなかった。大堀切も深さと幅はそこそこだが、かなり短いものだった。
それに比べて、これはどうだ。多少埋もれてしまっていても圧巻の規模である。落差も長さも申し分ない。美しい。これぞ土の城の真骨頂。
空堀内に立ち、尾根にある城の中枢部を見上げる。この光景にも、心震える。
頭上からガンガン攻められている気分。土塁をなんとか越え、空堀にハマったところに容赦なく。本丸の南端と並んで、「ここが絶対防衛ライン」という印象を強く感じる。いや、むしろこちらのほうが堅い。やはり大手はこちらだったのかもしれない。
豪快すぎる水の手にも出合う
三の丸まで引き返し、逆側の斜面へと小道を降りてゆく。足元は悪く、こちら側の断崖っぷりもスゴい。ほぼ全面的に、こんな感じだ。
そして小道を降りきったところで、ド肝を抜く光景が待っていた。
おおお。
縄張図の「井戸」の文字を目当てにくだってきたが、まさかこれほどの規模とは。その周囲だけ見事な岩盤になっていて、今も絶え間なく、清水が染み出していた。
はるか十数メートル頭上に、二の丸が見える。角度もかなり急なので、木立もうまく活用し、滑車と縄と釣瓶(つるべ)を組み合わせた仕掛けを設ければ、直接汲み上げることもできたのでは。
それにしても、見事な井戸だ。山城で出会う水の手にはいつも、「こんなところに」と感心させられる。一乗谷城のような小ぶりのものも、揖斐城のように豪快でインパクト大のものもいい。
尾根上の主役だけでは「腹八分目」。揖斐城の真髄(しんずい)は脇役にあり。考えてみれば、稲葉一鉄ほか、西美濃三人衆も皆、大活躍はしないが要(かなめ)の役どころの、実力派の脇役揃い。武将も城も、いぶし銀にはいぶし銀の魅力があるのだ。
『揖斐城』詳細
取材・文・撮影=今泉慎一(風来堂)