平蜘蛛の茶釜とともに爆死。松永久秀といえば、戦国好きなら誰もが知るこの伝説エピソード。壮絶な最期なのに、なぜか笑えてしまう。下克上上等、将軍暗殺、大仏殿放火とやりたい放題の久秀が、「死んでもコレだけは信長にやるもんか!」と必死の抵抗。子どもの喧嘩か。
久秀は信長に臣従した際、「九十九茄子(つくもなす)」という別の名茶器(茶入)はあげている。その後、ジャイアン信長に「平蜘蛛もくれよ」と何度も言われたが断固拒否。叛旗を翻したのは別の理由だろうけれど、よっぽどあげたくなかったんだな。
籠城、そして伝説へ……
その爆死現場が信貴山城。1568(永禄11)年、一旦は信長に臣従した久秀だったが、結局、5年も経たずに1572(元亀3)年に裏切り。この時は降伏して赦されるが、1577(天正5)年に再び裏切り、信貴山城に籠城。そして伝説へ……となる。
信貴山城は、大和(現奈良県)・河内(大阪南部)の国境、生駒山地に築かれた山城で、標高443m、比高340m。なかなか峻険だ。登城路は南側の朝護孫子寺と、東側の大谷池からの2コースある。いずれも中腹なので比高は残り100~150m程度。距離も短く比高もより小さい大谷池から登ることにする。
※平蜘蛛の茶釜/戦国時代でも指折りの名茶器。
※朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)/聖徳太子創建と伝わる古刹。信貴山城の戦いで焼失するも、豊臣秀頼が再建。江戸時代築の山門や塔、お堂が残る。
軽トラなら登れそうな、幅もありゆるやかな道を5分ほど進むと、すぐに信貴山城跡の案内板が見えてきた。早くも城内。
山城を攻める醍醐味のひとつが、縄張図を見ながらルートを吟味することだ。いつも頭のなかでストーリー展開も考えてしまう。どの曲輪から攻めるか? その城一番の見どころは先か後か? ただしあまり行ったり来たりを繰り返すのも骨が折れる。山城は高低差があちこちにあるから、なるべく登ったり降りたりを繰り返したくもない。
頭上にそびえる松永屋敷跡も気になるけれど、先に天守閣跡まで一気に攻め上がることにする。ここから勾配が厳しくなる。左手は谷間で右手は斜面。縄張図上では段曲輪が連なっている。少しづつズレて横矢が掛かっているように見えるのは気のせい?
段曲輪地帯の急坂、矢の嵐をくぐり抜け突破すると(想像)、今度はヘアピンカーブの連続。ちょうど天守閣跡の直下。信貴山城の戦い、攻め手の総大将は信長の嫡男・織田信忠。落城直前には、このあたりまで攻め込んでいたのか? 「茶釜を渡せ!」「いや渡さん!」と、怒鳴りあっていたら面白いのにな、と勝手に妄想。茶釜を渡すフリして、巨石を投げてみたり。久秀ならやりかねない。
急勾配は守備側の最後の抵抗。それを体感しつつ登り切ると信貴山山頂。雄嶽(おだけ)は東西100m近くある平坦地。地形的に見て、人工的に造成されたのは間違いないだろう。本丸ではなく「天守閣跡」とされるのは、実は信貴山城に「天守閣」が立っており、信長の安土城天主はそれをモデルにした、との説があるから。茶釜の代わりに、天守を手に入れた、ということか。
天守閣跡には現在、朝護孫子寺のお堂のひとつ、空鉢護法堂が立っている。無数の祠と鳥居が四方をとり囲み、結界が張られているかのような厳かなる雰囲気。生駒山地、そして河内方面への抜群の眺望が広がり、天空に浮いているようでもある。「竜王」が祀られているのも納得の地だ。
ここまで大谷池から登ってきたが、もう一本の朝護孫子寺からの道を下った先に、出丸がひとつある。雄嶽よりやや低いこちらは雌嶽(めだけ)。無数の鳥居をくぐりながら100mばかり下ると見えてきた、見事な切通し。尾根が凹んだ場所に道が通り、その両側を雄嶽と雌嶽が見下ろす格好で、相当に深い。登ってきた敵を迎撃する防御ポイントだ。
雌嶽へと登る急斜面もかなりの勾配。ズルズル滑りながら登る。山上は天守閣跡ほどではないものの数十mほどの平坦地が伸びている。
ここまで城を巡ってきて、ふと気になることがあった。土塁や堀切、虎口など、山城らしい土木遺構がほとんど見当たらないのだ。この雌嶽も、なんだかのっぺりした曲輪だな……と思っていたら、先端にしっかりした土塁と空堀が残っていた。
いざ、松永屋敷へ
雌嶽から約500m下れば朝護孫子寺。古刹も気になるが、松永屋敷周辺が未踏だ。雄嶽を経て松永屋敷方面へ向かう。
縄張図をあらためて見直してみると、松永屋敷と平行する尾根にも、曲輪が連なっている。「松永」と名のつく場所を最後の楽しみに。と思ってその尾根に足を運ぶと、「堀切天国」が待っていた。
ひとつひとつの曲輪間を、丁寧に堀切で区切ってある。しつこいぐらいに。
縄張図で「切り通し」と記してある場所は、最も鋭く落差が凄い。上から見下ろすとこの迫力だ。
底がかなり埋まっているのが残念だが、片面は明らかに切岸加工したのがわかる。切岸はやはり、下から見るに限る。縄張図ではその先に「石垣」とあるのだが、そこに至る道が見つけられず、引き返して松永屋敷の尾根へ。
こちらは「切岸天国」だった。下から見るとほぼ壁。
一帯は城内でも最大級の平坦地が段曲輪状に連なっている。その曲輪間を切岸が阻む。尾根両端は自然地形か人工的な切岸か判然としないが、いずれにせよ落差を活かした構造は圧巻。名前は「屋敷」だが、おそらくこのエリアも戦いの際は重要拠点のひとつだったに違いない。
信貴山城、「茶釜でちゅどーん!」の伝説ばかり語られがちで、前半は「技巧的にはあまり見るところはないのかな」と思いながら歩を進めていたが、いやいや。「戦国一のワル」だけあって、随所に工夫が凝らされた、侮ると火傷する危険な城なのだった。
『信貴山城』詳細
取材・文・撮影=今泉慎一(風来堂)