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散歩の達人 2026年9月号
散歩の達人 2026年9月号
『散歩の達人』初の「足立区」まるごと大特集! 人口が年々増加する人気の区を歩いてみないわけにはいきません。合言葉は“ディスカバリー”。驚きと発見に満ちた散歩に出かけましょう。

土浦駅から"自転車のまち"を体感して

茨城県の県南地域には、筑波山と霞ケ浦湖岸を周遊できる総延長約180kmのサイクリングコース「つくば霞ヶ浦りんりんロード」が設定されており、土浦周辺にはその拠点となる施設が点在している。

土浦駅に着くと、早速サイクリストを歓迎する掲示やサインがあちこちに見られる。駅直結の商業施設「プレイアトレ土浦」は館内まで自転車の持ち込みが可能で、サイクリング拠点施設の「りんりんスクエア土浦」、自転車を楽しむホテル「BEB5土浦 by 星野リゾート」など、サイクリングや観光を気軽に楽しむための環境が揃っている。

土浦駅構内。
土浦駅構内。
サイクリストを歓迎してくれている。
サイクリストを歓迎してくれている。
自転車組み立てスペース。
自転車組み立てスペース。
旅客駅東側に並行しているJR貨物のコンテナホーム。
旅客駅東側に並行しているJR貨物のコンテナホーム。

土浦駅の東口から、レンタサイクルを予約しているりんりんポート土浦へ向かう。駅前の大通りを北に進むと、両脇に欄干が設置され橋のようになっている区間がある。橋を模したデザインなのかと思ったが、欄干の柱に「港橋」と書かれていて、その脇には「港橋」の由来を伝える碑が立っている。

港橋。
港橋。

碑によると、ここは川口川(かわぐちがわ)の河口で、江戸時代から土浦の船舶交通に重要な役割を果たした場所だという。港橋は木造の太鼓橋として昭和7年(1932)に完成。老朽化により1968年に鉄筋コンクリート製の橋に架け変えられ、その後公有水面の埋め立てにより橋としての機能を無くしたことから1997年に現在の姿に整備されたそうだ。

ここが川口川の河口だったことを知らなくても、橋の形が保たれているために、この下を川が流れていたのかもしれないと想像できるようになっている。

港橋左手の駐車場の奥に公園があり、何やらモニュメントのようなものが見える。気になって近づいてみると、モニュメントの脇に「市指定文化財 歴史資料 旧川口川関門鉄扉および排水ポンプ」と書かれた解説板が設置されていた。解説によると、大雨などの際に霞ケ浦から川口川に水が逆流しないように明治36年(1906)に閘門が設置され、昭和16年(1941)には水害で溜まった水を霞ケ浦に排出するための排水ポンプがつくられた。その後川口川の埋め立てが進み、1986年、高架道路建設に伴い現在の場所に移設されたという。

旧川口川閘門鉄扉および排水ポンプ。
旧川口川閘門鉄扉および排水ポンプ。
説明板。
説明板。
閘門鉄扉と排水ポンプが設置されていたのは常磐線の線路をくぐった先のあたり。
閘門鉄扉と排水ポンプが設置されていたのは常磐線の線路をくぐった先のあたり。

霞ケ浦を見る前に湖だけでなく多くの河川や水路が流れていた土浦の歴史の一端を知ることができた。とはいえやはり今日のメインは霞ケ浦なので、港橋まで引き返して再びりんりんポート土浦に向かって歩くことにする。

港橋から見る土浦港。海みたい。
港橋から見る土浦港。海みたい。
温泉もある。
温泉もある。
湖畔には水天宮が。
湖畔には水天宮が。

川口運動公園の脇を道なりに進むと、「りんりんポート土浦」の建物が見えてくる。今日はここで事前に予約していた自転車を借り、湖畔を走りながら目的地に向かうというプランだ。土浦駅から徒歩10分ほど、施設内には自販機やシャワーなどもあり、ここを拠点として走り始めるサイクリストも多いようだ。

普段いわゆる「ママチャリ」にしか乗らないため、予約していたクロスバイクにうまく乗れるか不安だったのだが、無料で借りられるヘルメットを着用してゆっくり漕ぎ始めると、車体はママチャリよりもはるかに軽く、スムーズにスタートできた。

りんりんポート土浦。
りんりんポート土浦。
サイクリングに出発する筆者。ウキウキを隠しきれていない表情だ。
サイクリングに出発する筆者。ウキウキを隠しきれていない表情だ。

先ほど歩いてきた大通りを今度は南に向い、水郷橋を渡ったところで桜川に沿って進む。河口近くの霞ボート水門を過ぎると、いよいよ霞ケ浦が見えてくる。自転車のギアチェンジがまだおぼつかないが、湖畔の風を受けながら走るのはなかなか気持ちがいい。走り始めたばかりなのに、もう霞ケ浦に来てよかったと思っている。

霞ボート水門。右手は霞ケ浦に流れ込む直前の桜川(周囲の安全を確認し、一旦止まって撮影)。
霞ボート水門。右手は霞ケ浦に流れ込む直前の桜川(周囲の安全を確認し、一旦止まって撮影)。
霞ケ浦!
霞ケ浦!

湖面は風を受けて波立っていて、サイクリングロード脇の湖岸にも波が打ち寄せてくる。視界に広がる湖面は海と見まごう広さなのに、潮の匂いもなければ風もベタつかないので、やっぱり湖なのだなと不思議な気持ちになる。

実は霞ケ浦が淡水の湖となったのはそれほど昔のことではない。縄文時代、海水面の上昇によって海水が内陸に入り込んで入江を形成、霞ケ浦はその入江の一部だった。その後1600年代の終わり頃に利根川東遷が進められたことで河川からの土砂が流れこみ、徐々に今の湖の形がつくられた。海に近いことから塩害に悩まされることも多く、1963年に常陸川水門が設置されたことで海と遮断され、淡水化が決定的になる。

左手に湖を見ながら進む。
左手に湖を見ながら進む。

湖沿いを走り、予科練平和記念館へ

湖に沿って30分ほど走り、花室川に至ったところで県道34号竜ヶ崎阿見線に出る。霞ケ浦沿いの道と違い車の通りが多く、何度かヒヤッとしながらも、目的地の予科練平和記念館へ到着した。ここもつくば霞ヶ浦りんりんロードのサイクルサポートステーションとして指定されているため自転車を停めるラックがあり、安心して施設を見て回ることができる。

予科練平和記念館。
予科練平和記念館。

阿見村(現阿見町)は1921年に霞ヶ浦飛行場、翌22年に霞ヶ浦海軍航空隊が開設され、海軍の町として全国的に知られるようになる。昭和14年(1939)には海軍飛行予科練習部(予科練)が横須賀から移転し、全国の予科練教育・訓練の中心的役割を担った。

予科練平和記念館は、予科練の歴史や阿見の戦史の記録を保存する施設として2010年に開館した。館内は、入隊から戦地・特攻へと至る予科練生の進路を追うように、7つのテーマ展示を軸に構成されている。7という数字は、予科練志望者の憧れだった予科練の制服「七つボタン」にちなんでいるそうだ。

エントランス。
エントランス。

エントランスを入ると、写真家・土門拳が土浦海軍航空隊で撮影した予科練生たちの写真が大きく引きのばされて正面に配されている。土門拳は昭和19年(1944)6月、土浦海軍航空隊で甲種第13期予科練習生と寝食を共にしながら撮影を行った。戦後それらの写真や書類は焼却されたが、甲種第13期予科練生の私物として奇跡的に焼却を免れたものが館内の展示に使用されている。

テーマ展示1 入隊。
テーマ展示1 入隊。

入隊の部屋では予科練入隊までの様子を資料や写真、映像を交えて展示している。予科練の試験は狭き門だったらしく、第1期は5807名の応募があり、選抜されたのはわずか79名という、約73倍の高倍率だったという。

経済的に進学できない少年たちが、学費もかからず給料がもらえる予科練に道を見出しすということもあったようだ。身体検査の合格基準は、18歳以上が身長157cm体重51kg以上、16歳未満では153cm以上43kg以上とされていた。現代の感覚からはかなり小柄に感じてしまう。

昭和5年(1930)に予科練が設置されてからの15年で約24万人の少年が予科練に入り、卒業して戦争に参加したのは約2万4千人、そのうち1万9千人が戦争で亡くなっている。

また大戦末期には、当時日本統治下にあった台湾と朝鮮からも予科練生を採用し、計100名が「特別丙種第1期予科練習生」として鹿児島海軍航空隊に入隊した。彼らはその後土浦海軍航空隊に移り、そこで終戦を迎えたが、母国への航路が再開した朝鮮半島出身の練習生が復員する一方、帰国船のない台湾出身の練習生たちはそのまま隊に残り、残務整理を続けた。彼らが台湾に帰国したのは1946年1月になってからだったという。

テーマ展示2 訓練。
テーマ展示2 訓練。
訓練の展示スペース。兵舎と教室を部分的に再現している。
訓練の展示スペース。兵舎と教室を部分的に再現している。

その他「展示室5 交流」では、酒保や面会、隊内の上映会といった訓練生活の楽しみや、練習生と阿見の人たちとの交流についても紹介されている。阿見や土浦の大きな農家では、外出した予科練生を受け入れる「倶楽部」となっているところが多く、練習生たちは日曜になるとそうした倶楽部にくつろぎに行き、倶楽部の家族もご飯を振る舞うなどしてもてなしたという。

また、阿見や土浦には「指定食堂」と呼ばれる予科練生たちが出入りできる食堂があった。土浦市内の指定食堂だった『保立食堂』『吾妻庵』といったお店は現在でも営業している。

酒保(雑貨や菓子、うどんや汁粉などを販売する売店)の食事。
酒保(雑貨や菓子、うどんや汁粉などを販売する売店)の食事。
多色刷りだった『文藝春秋』が1色刷りに。
多色刷りだった『文藝春秋』が1色刷りに。

「展示室6 窮迫」では映像の上映が行われており、予科練生だけでなく周辺の住民も多く犠牲となった阿見の空襲や、実際に空襲を経験した人たちの証言が紹介されている。

九三式中間練習機「赤トンボ」の模型。
九三式中間練習機「赤トンボ」の模型。

全ての展示を見終わり館外に出ると、屋外の敷地内にも戦闘機や魚雷の模型が展示されていた。一つは「零式艦上戦闘機(零戦)二一型」の実物大模型、もう一つは太平洋戦争末期に日本海軍が開発した人間魚雷「回天 一型」の実物大模型だ。

最初の神風特別攻撃隊は土浦海軍航空隊で学んだ予科練出身者を中心に編成され、以後も多くの予科練出身者が人間爆弾「桜花」や人間魚雷「回天」などの特別攻撃兵器で出撃していったという。特別攻撃で戦死した予科練出身者は約2800名に上る。

零式艦上戦闘機(零戦)二一型実物大模型。
零式艦上戦闘機(零戦)二一型実物大模型。
回天一型実物大模型。
回天一型実物大模型。

予科練平和記念館に隣接する陸上自衛隊土浦駐屯地内(旧陸上自衛隊武器学校敷地)には雄翔園、雄翔館(予科練記念館)がある。予科練戦没者の慰霊、顕彰などを目的とする公益財団法人海原会によって運営されている施設で、雄翔館では予科練出身者や遺族から寄贈された遺品、遺書などが展示されている。訪れたのは平日の昼間だったが、私たち以外にも展示を見入る人たちの姿があった。

雄翔館。
雄翔館。
雄翔園内に立つ「若鷲の歌」(作詞西条八十、作曲古関裕而)の歌碑。
雄翔園内に立つ「若鷲の歌」(作詞西条八十、作曲古関裕而)の歌碑。
柵の向こうに見える車両屋外展示場。
柵の向こうに見える車両屋外展示場。

再び湖畔サイクリング。風車や蓮に出合う

雄翔館を後にして、来た道を戻りながら再び土浦市へ向かう。県道34号を北に進み、花室川を渡ってそのまま川沿いに霞ケ浦へ出て、湖畔のサイクリングコースを北に走る。しばらく進むと右手に霞ヶ浦総合公園の風車が見えてくる。来る時には写真を撮れていなかったので、一休みしつつ公園に立ち寄ることにした。

湖面に立つ波。
湖面に立つ波。
オランダ型風車。土浦市制50周年を記念して建てられた。
オランダ型風車。土浦市制50周年を記念して建てられた。

霞ヶ浦総合公園内はスポーツ施設や自然観察施設、日帰り入浴施設、レストハウスなどが整備されていて、霞ケ浦を眺めながらさまざまなレクリエーションが楽しめる。この日も平日の午後にもかかわらず、散策などに訪れる人でそれなりににぎわっていた。

園内には200種類以上のハナハスを栽培する花蓮園があり、取材時にも早咲きの品種がいくつか咲いている様子を見ることができた。こんなに間近にハスの花が咲く様子を見たのは初めてかもしれない。

花蓮園と風車。
花蓮園と風車。
蓮の花。
蓮の花。

霞ヶ浦総合公園を後にして、土浦市内へ向かう。来る時は予科練平和記念館の取材時間があってやや急いで通り過ぎた道も、帰りは湖畔の風景を楽しみながら走る余裕がある。途中、湖畔に立つ小屋からカラオケを歌う声が聞こえてきた。湖を見ながら歌うのも気持ち良さそうだ。

湖岸サイクリングにはしゃぐ筆者(安全を確認しつつ同行の担当編集者さんに一旦自転車を停めてもらって撮影)。
湖岸サイクリングにはしゃぐ筆者(安全を確認しつつ同行の担当編集者さんに一旦自転車を停めてもらって撮影)。
水郷橋。
水郷橋。

桜川に架かる水郷橋を渡ると、土浦駅までもうすぐだ。先ほど訪れた旧川口川閘門鉄扉及び排水ポンプまで向い、その先で常磐線の下をくぐって駅西口を目指す。

西口ロータリーの手前まで来ると、土浦市立図書館や土浦市民ミュージアムが入っている複合文化施設「アルカス土浦」が見えてくる。実は昨年、土浦市民ミュージアムで開催されていた漫画家の山本美希さんの作品展を見に訪れたことがあった。その日は土浦市内を見て回る時間がなかったのが心残りで、今回改めて土浦・阿見を取材したいと思ったきっかけの一つでもある。

アルカス土浦。土浦市民ミュージアム、土浦市立図書館が入る。
アルカス土浦。土浦市民ミュージアム、土浦市立図書館が入る。

「プレイアトレ土浦」1階にあるりんりんスクエア土浦で自転車を返却する。借りる場所と返す場所は同じというのが基本だが、追加料金を払うと別の場所で返却することができるので、コースの選定によってはこのようにするのも便利だ。

りんりんスクエア土浦で自転車を返却。
りんりんスクエア土浦で自転車を返却。

モール505から旧水戸街道へ。水運の街、宿場町、空都の記憶

自転車を返し、今度は徒歩で土浦市中心部を回る。閘門と排水パイプを見た時に知った川口川埋め立ての歴史が気になり、暗渠化した川口川跡地に立つ「モール505」へ向かうことにした。

「モール505」は、1985年にオープンした全長505m3階建ての商業施設だ。並行して「土浦ニューウェイ」と呼ばれる高架道路が走る。川口川の埋め立ては昭和10年(1935)と1967年の2回行われ、現在のモール505の部分は2回目の埋め立てにより造成された。造成後は市営駐車場として利用されていたが、1985年のつくば万博開催に合わせて土浦ニューウェイの整備とモール505の建設が行われた。

川口ショッピングセンター モール505。
川口ショッピングセンター モール505。

モールを歩いているとちょっとしたスペースに碑が設置されていて、窪田空穂、内田野帆、長塚節、佐久良東雄による歌を刻んだ石碑と、それぞれの脇に解説板が添えられている。どういう意図なのだろうと思い解説を読むと、川口川跡に市民の憩いの場を作りたいという当時の箱根宏市長の意向を受けて「旧川口川を詠める史的歌詠」として選ばれた4つの歌を記したもののようだ。

長塚節の歌碑と解説。
長塚節の歌碑と解説。

「川口ショッピングモール竣工に際して」と題する当時の箱根宏市長の言葉が彫られたレリーフには「この計画にあたっては『水の都』としての土浦の独自性を現代に生かしつつ土浦商業の新しい魅力となるよう水と緑のあしらいなどに最大限の意を用いたものであり、本市の中心市街地全体の活性化に直接間接の大きな波及効果をもたらすことが期待できる」と書かれている。現在はモール内で営業する店舗も少なく、少し寂しさを感じる風景ではあるが、85年当時はこのように期待されていたのだろう。

取材後、8月1日、2日には「土浦キララ祭り2026」というイベントが開催され、にぎわったようだ。

上を走るのは土浦ニューウェイの高架。
上を走るのは土浦ニューウェイの高架。

川口川跡は学校の通学路にもなっているらしく、下校の時間帯だったためか、学校から帰る中学生、小学生たちとよくすれ違った。1階には自衛隊茨城地方協力本部土浦地域事務所やカードショップ、カフェ、レストランなどが入っていて、ベトナム料理店の店内からは、ベトナム語のカラオケを歌う声が聞こえてきた。

土浦ニューウェイ。多くはないが車の往来もある。
土浦ニューウェイ。多くはないが車の往来もある。

モール505を抜けてそのまま土浦ニューウェイの下を進むと、亀城通りの向こうにアーケードの入り口が見える。土浦名店街という全蓋式アーケードの商店街だ。シャッターを閉めたお店が多いものの、喫茶店、青果店などが営業している。

いつ頃からある商店街なのだろうと思い、試しに国立国会図書館デジタルコレクションで「土浦名店街」と検索したところ、茨城新聞社が発行した『写真記録茨城20世紀:Unforgettable scenes in Ibaraki since 1900』(1992)という本に1956年の土浦名店街を写した写真( https://dl.ndl.go.jp/pid/13317718/1/390 ※資料閲覧には国立国会図書館の利用者登録が必要)が載っていた。少なくともこの頃には営業していたようだ。「良い品を安く賣る 土浦名店街」と書かれたのぼりと、店の上に花飾りが並ぶ、にぎわう商店街の様子が写っている。

土浦名店街。
土浦名店街。
おしゃれな看板。
おしゃれな看板。

土浦名店街を抜け再び亀城通りに戻り北へ進むと、左手に古い木造の建物が見えてくる。予科練生の「指定食堂」でもあった保立食堂だ。せっかくなのでここで昼食を取りたいと思っていたのだけど、残念ながら今日の営業は終了していた。

建物の角にはかつて川口川に架かっていた桜橋の親柱と土浦町道路元標があり、ここが水陸の交通の要所だったことが想像できる。

『保立食堂』。写真は亀城公園に立ち寄ったあと、交差点の向かいから撮ったもの。
『保立食堂』。写真は亀城公園に立ち寄ったあと、交差点の向かいから撮ったもの。
桜橋の遺構と道路元標。
桜橋の遺構と道路元標。
桜橋跡の「うんちく板」。
桜橋跡の「うんちく板」。

旧水戸街道の宿場町として栄えた中城通り沿いには、今も江戸時代末期〜明治初期に建てられた建物が点在する。「まちかど蔵 大徳」は江戸時代末期に造られた呉服店で、見世蔵、袖蔵、元蔵、向蔵の4棟を改修して観光案内所や展示資料館として開放している。土浦市レンタサイクルの貸し出し、返却も行なっているので、サイクリングの拠点としても利用できる。

まちかど蔵 大徳。
まちかど蔵 大徳。
袖蔵の観光展示館。土浦の花火に関する資料が展示されている。
袖蔵の観光展示館。土浦の花火に関する資料が展示されている。
見世蔵2階の和室。
見世蔵2階の和室。
和室の廊下。
和室の廊下。

大徳の向かいには「まちかど蔵 野村」が立つ。江戸時代から続く商家江戸後期から明治初期に立てられた3つの蔵からなり、多目的工房や喫茶店として使用されている。その中の一つ・文庫蔵は「ツェッペリン伯号展示館」となっていて、昭和4年(1929)に土浦に飛来したツェッペリン伯号に関する資料写真やパネルが展示されている。ツェッペリン伯号の模型はなかなかの迫力だ。

ツェッペリン号来訪の様子は映像としても残っていて、国立映画アーカイブのYouTubeチャンネルでも見ることができる。

この頃霞ヶ浦飛行場は「空の港」として海外から飛来する世界一周機の離着陸場として利用され、昭和6年(1931)にはリンドバーグ夫妻がアメリカから来訪している。その6年後には日中戦争が始まり、国際親善の象徴だった「空の港」は10年とたたないうちに戦時体制と結びついた「空都」と呼ばれるようになる。

まちかど蔵 野村。
まちかど蔵 野村。
ツェッペリン伯号模型。
ツェッペリン伯号模型。
中城通り。右手の土蔵造りの建物は県指定建造物の「矢口家住宅」。
中城通り。右手の土蔵造りの建物は県指定建造物の「矢口家住宅」。

城下町の歴史も伝える亀城公園

中城通りから右に曲がり内西通りへと入る。まっすぐ進むと突き当たりに「大手門の跡」と書かれた碑が立っている。ここにかつて土浦城の正門(表門)となる大手門があったようだ。

「大手門の跡」を示す碑。
「大手門の跡」を示す碑。

「大手門の跡」の後ろには土浦小学校があり、中城通りからここまで歩いてくる途中も下校中の生徒たちとすれ違った。茨城県下で初めて設置された幼稚園「土浦幼稚園」が土浦西小学校(現土浦小学校)の付属幼稚園として開園したのも、この地だったそうだ。

土浦城旧前川口門の方から亀城公園へ向かう。
土浦城旧前川口門の方から亀城公園へ向かう。

内西通りをそのまま進み、左に曲がると亀城公園へと続く旧川口門が見えてくる。

土浦城は室町時代後期ごろに築城されたと伝えられ、江戸時代に現在知られている城郭として整備されたものだ。昭和10年(1935)に亀城公園として本格的に整備され、平成に入ってから東西の櫓や本丸土塀などが復元された。濠に囲まれた姿が亀のように見えたことから「亀城」と呼ばれるようになったという。

土浦古絵図 ぶらりまち歩きマップ」 を見ると、確かに幾重もの濠や水路に囲まれていたことがわかる。

土浦城旧前川口門。
土浦城旧前川口門。
櫓門。
櫓門。

旧前川口門や櫓門などの立派な門と本丸を囲むお濠があり、思っていた以上に「お城」の風格が漂う空間だ。2017年には続日本100名城に選定されたという。

本丸土塀。2004〜2005年に復元。
本丸土塀。2004〜2005年に復元。
東櫓。
東櫓。

東櫓は1998年に復元され、土浦市立博物館の附属展示館となっていて、土浦城の歴史にまつわる展示を行なっている。亀城通りに面している2階の窓からは、学校帰りの高校生たちが自転車で走っているのが見えた。

東櫓から亀城通りを望む。
東櫓から亀城通りを望む。
お濠。
お濠。
亀城公園だけに、お濠の亀が3匹寄ってきた。
亀城公園だけに、お濠の亀が3匹寄ってきた。
ここにも亀。
ここにも亀。

亀城公園のそばにある『城藤茶店』に立ち寄り、この日初めての休憩をとる。担当編集者さんには朝から歩き(走り)通しの取材に同行させてしまい申し訳ないと思いつつ、せめてお店の選択だけでもがんばろうと、公園の近くにある雰囲気の良さそうな喫茶店を見つけた。

土浦市博物館「戦争の記憶マップ」によると、現在古民家カフェとして活用されているこの建物は、昭和11年(1936)の亀城通り開通後に建てられた書院造りの住宅で、海軍士官が住んでいたという。

店内に入ると座布団とちゃぶ台が並んでいて、古い日本映画に出てくる昭和の住宅にお邪魔したような雰囲気だ。メニューを見て気になった「お餅のワッフル はちみつ醤油がけ アイス添え」と「ゆずソーダ」を注文する。もちもちの食感で、醤油のしょっぱさとアイスの甘さが絶妙でおいしい。

城藤茶店。
城藤茶店。
「お餅のワッフル はちみつ醤油がけ アイス添え」と「ゆずソーダ」。
「お餅のワッフル はちみつ醤油がけ アイス添え」と「ゆずソーダ」。
担当編集さんの頼んだ「草もち黒蜜がけ」もおいしそうだった。
担当編集さんの頼んだ「草もち黒蜜がけ」もおいしそうだった。

桜川からかつての湿地帯・桜町まで歩く

『城藤茶店』で休んだのち、最後の目的地である桜川まで歩く。歩きながら担当編集者さんと予科練平和記念館や雄翔館で見た展示の感想を話す。

「今の若者と変わらない10代後半から20代の普通の青年たち」が特攻に行ったと予科練平和記念館で見た映像は語っていたが、将来の若者が「かつてあなたたちのような普通の若者がお国のために犠牲となったのだから、あなたたちもそうするべきだ」と言われるようなことにならないといい、彼らを英雄視することが次の英雄を求めることにつながらないといい、といったことを、まとまらないままに話した。

銭亀橋と桜川。
銭亀橋と桜川。
団地の給水塔。
団地の給水塔。

桜川といえば毎年11月に開催される土浦全国花火競技大会の会場としても知られている。大正14年(1925)、航空殉職者の慰霊と土浦の経済の活性化を目的に霞ケ浦湖畔で開催されたのが始まりで、1971年から現在の桜川畔大曲付近で行われるようになったそうだ。

川沿いから河口方面を望む。
川沿いから河口方面を望む。

桜川沿いをしばらく歩き、途中で堤防を下りて再び街中に入る。この辺りは桜町といって、北関東でも有数の歓楽街として知られている。一体は明治期まで霞ケ浦から続く湿地帯だったが、霞ヶ浦海軍航空隊の開隊に合わせて埋め立てや区画整理が行われた。そうして造成された土地に土浦市内各所から待合や置屋、カフェーなどが集団移転して歓楽街が形成された。

きらら通り(六間通り)。
きらら通り(六間通り)。
きらら通り。
きらら通り。

「軍都」を生きる 霞ヶ浦の生活史 1919 – 1968』(清水亮、岩波書店)によると、桜町の造成を請け負ったのは350余名の朝鮮人土工を抱えていた藤川捨吉率いる藤川組で、大正12年(1923)の関東大震災の後に広がった流言蜚語により朝鮮人が襲撃されるようになると、朝鮮人土工たちを飯場から出ないよう指示し、組の者に警備をさせて彼らの命を守ったという(同書、p49)。

この地域の造成に携わった朝鮮人の土工さんたちと現在の風景がどれだけ関係しているかはわからないけれど、桜町の通りに立つ韓国料理店を見て、取材前に読んだこのエピソードを思い出した。

駅に向かう八間通りから桜町方面を見る。
駅に向かう八間通りから桜町方面を見る。

通りに並ぶフィリピンバーの店内からカラオケの歌声が聞こえてくる。今日だけで3度、日本語、ベトナム語、タガログ語でカラオケが漏れ聞こえるのを聞いた。

土浦市役所。
土浦市役所。

きらら通りから八間通りに出て、土浦駅へ向かう。駅前ロータリーのペデストリアンデッキに上ると、左手に「土浦市役所」と書かれた看板が目に入る。まるで商業施設の入り口のようなデザインが気になり、後で調べてみたところ、駅前の複合施設ウララのうち、かつてイトーヨーカドー土浦店が営業していたフロアを改装して業務を行っているそうだ。

駅の改札へ向かうと「Thank you for coming to Tsuchiura. Have a nice day! また来ようよ。土浦へ。」と書かれた幟がかかっている。常磐線に乗ると1時間ちょっとで上野に着いてしまった。

霞ケ浦や前回の多摩湖のような「行ってみたいけど、家からは少し遠いな」と思っていた場所も、ちょっと重い腰を上げて「遠足」に出かけるような気持ちで足を運んでみると、それほどの距離ではなかったことに気づく。元来の出不精を反省するとともに、初めて訪れる場所であっても、一度歩いてしまえばもう自分と無関係な土地ではなくなるということを、この連載で覚えつつある。

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取材・文=かつしかけいた 撮影=かつしかけいた、さんたつ編集部

【その他参考にした資料・URL】

梯久美子.『戦争ミュージアム 記憶の回路をつなぐ』.岩波新書,2024年7月.

清水亮.『軍都を歩く 基地と住民の地域生活史』.中公新書,2026年7月.

予科練平和記念館公式パンフレット

・土浦市

“各種パンフレットダウンロード”.土浦市観光協会,https://www.tsuchiura-kankou.jp/panf_download/,(2026年8月14日参照).

“<フィールド博物館>かっての水運のまち土浦!昔の「こんせき」を探してみよう!”.土浦市,https://www.city.tsuchiura.lg.jp/kanko-bunka-sports/kanko-matsuri-event/kanko/modelcourse/page019977.html,(2026年8月14日参照).

土浦市史編さん委員会 編.『土浦市史』,土浦市,1975年. 国立国会図書館デジタルコレクション, https://dl.ndl.go.jp/pid/9640464 ,(2026年8月14日参照).

土浦市文化財愛護の会古写真調査研究部 編.『むかしの写真土浦』,土浦市教育委員会,1990年3月. 国立国会図書館デジタルコレクション, https://dl.ndl.go.jp/pid/13211424 ,(2026年8月14日参照).

坂本清 著.『目でみるふるさと霞ケ浦 : その歴史と汚濁の現状』,崙書房,1976年7月. 国立国会図書館デジタルコレクション, https://dl.ndl.go.jp/pid/9583339 ,(2026年8月14日参照).

“路線価でひもとく街の歴史 第26回「茨城県土浦市」水路から道路へ。近代化に向けた挑戦はつづく”.ファイナンス 2022年4月号 No.677,https://www.mof.go.jp/public_relations/finance/denshi/202204/html5m.html#page=53,(2026年8月14日参照).

・霞ケ浦

“霞ヶ浦*の歴史”.かすみがうら*ネット,https://www.kasumigaura.net/mapping/cat/lake-history.html,(2026年8月14日参照).

“日本の川-関東-霞ヶ浦”. 国土交通省水管理・国土保全局,https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0302_kasumi/0302_kasumi_01.html,(2026年8月14日参照).

“【茨城県】霞ヶ浦はどうやって誕生した?~日本で2番目に大きな湖誕生の秘密~”.昭文社オンラインストア,https://ec.sp-mapple.jp/blogs/column/mw6637?srsltid=AfmBOooMlvmaKajYTCHi8l9e_Cxq3wxL2PdGRSxLFXn-b6k0g58HHA5r,(2026年8月14日参照).

・モール505

“土浦の高架道路「土浦ニューウェイ」を見に行く”,https://dailyportalz.jp/kiji/Tsuchiura_new_way,(2026年8月14日参照).

“「昼間なのに人とすれ違わない」「天井に蜘蛛の巣、落書きも散見」…かつての商都で閑散、改善策も実らなかった「茨城の廃墟モール」苦難の歴史”.東洋経済オンライン.https://toyokeizai.net/articles/-/929622,(2026年8月14日参照).

 

※今回参考にした国立国会図書館デジタルコレクションの資料閲覧には国立国会図書館の利用者登録が必要

江戸川区の南端に位置する葛西地区というと、葛西臨海公園や西葛西の「リトルインディア」が有名かもしれない。もともと葛西沖と呼ばれ半農半漁の地域として栄えたが、70年代以降土地区画整理事業による埋め立てが進み、清新町、臨海町という2つの新しい街が葛西に誕生した。「リトルインディア」や最新の「文学館」といった現在の風景と、かつての葛西沖の痕跡。川と海に囲まれた葛西地区が積み重ねてきた時間を想像しながら歩いてみた。
前回の取材で歩いた埼玉県狭山市・入間市は、16号沿いの基地の街だった。「郊外」的な風景が広がるロードサイドとして言及されることの多い国道16号は、首都圏の基地をつなぐ軍用道路としての歴史をもつ。ふだん東京23区東部で暮らしているとほとんど意識することがない基地の存在に戸惑いもしたが、同時にそうした風景が首都東京を囲むように存在することを、もっと知らなければと思った。今回は都内から京急線一本で行ける「軍港都市」横須賀を歩いてみることにした。そこには東京の湾岸とは全く異なる港の風景が広がっていた。
先日YouTubeを見ていたところ、これまでに閲覧した動画との関連からか、埼玉県狭山市にあった「狭山アメリカ村」の痕跡を巡る動画が表示された。1970年代初め、ジョンソン基地の周辺にあった米軍ハウスに、デザイナーやミュージシャンたちが移り住んだことから、一帯は「狭山アメリカ村」と呼ばれるようになる。細野晴臣のアルバム『HOSONO HOUSE』(1973)も当時の米軍ハウスでの暮らしから制作された。どうやら近くには入間川や霞川も流れているようだ。好きでよく聴いていた音楽がどのような場所で生まれたのか気になり、早速訪れてみることにした。