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散歩の達人 2026年8月号
散歩の達人 2026年8月号
独自のカルチャーを築き上げてきたこのエリアは、いま大きな転換期を迎えている。街が更新される瞬間には、いつだって新しい物語があるものだ。新章へと続いていく街のいまを歩く。

鷹の台駅に降り立ち、玉川上水通りへと向かう

中央線国分寺駅で西武国分寺線に乗り2駅、5分もせずに目的地の鷹の台駅に着いた。改札は線路の西側にあり、洋菓子店やラーメン屋の並ぶ「たかの台駅通り」が目の前を通っている。駅の北側にある地下連絡通路を抜けると、小平市立中央公園へと出る。

鷹の台駅。
鷹の台駅。

小平市立中央公園は総合体育館、陸上競技場などのスポーツ関連施設が設けられた市営の公園で、蚕糸科学研究所小平養蚕所の跡地を利用して整備された。取材で歩いた時はグラウンドの改修工事が行われており、歩道の片面を緑のフェンスが覆っていた。

中央奥の建物が小平市民総合体育館。
中央奥の建物が小平市民総合体育館。
グラウンド改修工事のフェンス。
グラウンド改修工事のフェンス。

園内には「築山(つきやま)」と呼ばれるちょっとした高台があり、上からは公園の脇を走る西武鉄道の車両を眺めることができる。5分間隔で電車が通過するので、この時もすぐに西武の黄色い電車が通過するのが見えた。生まれてから1年半ほど都内の西武線沿線に住んでいたので、黄色い電車を見るとどこか懐かしさを感じる。小さすぎて当時の記憶はないはずなのに、不思議だ。

築山。
築山。
西武線。
西武線。

西武線を見送り、築山を下りて公園の南側にある玉川上水通りへ向かう。細い川が流れていて、これが玉川上水かと思ったら、その向こうにも川が見える。どうやら手前の流れは玉川上水ではなく「新堀用水」と呼ばれる用水路のようで、付近に立つ解説板に以下のような説明が書かれていた。

 

明治3年(18704月、この付近の玉川上水の北側のか所に設けられていた分水口を一つに統合するため、現在の小平監視所近くから玉川上水に平行して掘られた用水です。

それまで玉川上水から直接取水していた村々の各用水は、この新堀用水から水を引くことになりました。玉川上水が昭和61年(1986)の清流復活事業により小平監視所から下流は処理水が流れているのに対し、新堀用水は、多摩川の自然水が流れ、ここから枝分かれした市内の各用水を潤しています。小平の重要な歴史的文化遺産です。

新堀用水に架かるうさぎはし。
新堀用水に架かるうさぎはし。
新堀用水。
新堀用水。

玉川上水を流れる水は昭島市の多摩川上流水再生センターで処理された再生水である一方で、並行する新堀用水の水は多摩川の自然水がそのまま流れているのだという。一見すると玉川上水の方が護岸の様子など昔のままの姿をとどめているように見えるので(史跡として指定されていてむやみに工事・改修できないからかもしれない)水も自然水かと思ってしまうが、そうではないようだ。

玉川上水に架かるひがしたかのはし。
玉川上水に架かるひがしたかのはし。
玉川上水。
玉川上水。
緑道の木に巣箱が備え付けられていた。
緑道の木に巣箱が備え付けられていた。

本物の下水道管の中に!生活支える仕組みとは

玉川上水に沿って東に進み久右衛門橋を右に曲がると、今回の取材の最初の目的地『小平市ふれあい下水道館』が見えてくる。

1990年、下水道の普及率が100%を達成したことを記念してつくられた施設で(開館は1995年)、下水道の仕組みや役割について学べる展示のほか、本物の下水道管の中に入って臭い(!)を体験することもできる。事前にWEBサイトを見てこの下水道管をぜひ体験してみたくなり、若干の覚悟とともに来たのだ。

小平市ふれあい下水道館。
小平市ふれあい下水道館。

入館すると1階のエントランスホールに大きな水槽があり、多摩川上流に生息するヤマメやイワナなどの魚が展示されている。

水槽が出迎えてくれる。
水槽が出迎えてくれる。

通常の資料館・博物館と異なり、ふれあい下水道館は地上階ではなく地下に展示空間がある。地下1階は主に小学生を対象とした課外授業や学習講座が行われる講座室となっていて、顕微鏡などの実験設備や多摩川に棲む生き物についてのパネルなどが並ぶ。

地下1階の講座室。
地下1階の講座室。
クマムシのぬいぐるみ。
クマムシのぬいぐるみ。

地下2階の展示室1では江戸・明治時代の水事情や、現代の下水処理の仕組みを、模型や映像などを使ってわかりやすく解説してくれる。入ってすぐの人の形をした模型には一瞬びっくりしてしまうが、視覚的にも飽きがこないような工夫がなされていて、小学生が課外授業で訪れたらきっと楽しいだろう。

展示室1の模型。
展示室1の模型。
「下水の旅」。
「下水の旅」。

地下3階、4階にも展示室があり、小平市の水環境の歴史、江戸時代から明治時代にかけての下水道についての展示を見ることができる。取材時は地下4階の特別展示室で「トイレグッズコレクション展」の展示準備が行われており、国内外のトイレにまつわる人形やおまるなどが並べられていた。

地下へ続く階段にはふれあい下水道館の地層に合わせて復元された土壌断面標本が展示されていて、0mの黒土(縄文時代)、立川・武蔵野ローム境界(約3万年前)、武蔵野礫層といった小平市の地層を、実際にその深さまで下りながら見ることができる。

−20m、礫層が終わるあたり。
−20m、礫層が終わるあたり。

地下5階にある展示室3では、下水道で使われている管やマンホールの実物が展示されていて、普段地中に埋まっている下水道設備を間近で観察できる。そして、いよいよ本物の下水道管に入ることができる「体験コーナー」だ。下水が溢れても館内に漏れ出ないようにハッチ式の厳重な扉が2つ設置されていて、その向こうに内径4.5mの下水道管がある。

展示室3。
展示室3。
体験コーナー入り口。
体験コーナー入り口。
前室から見た2つ目の扉。その向こうが下水道管。
前室から見た2つ目の扉。その向こうが下水道管。

管渠内のガス発生を監視するための「酸素」「メタン」「硫化水素」などと書かれた計測器が並ぶ前室を経て、下水道管の中に入る。展示室内に下水道管内の臭いが充満しないように空調が効いているので、管内入り口付近はそれほど臭いがしなかったが、見学ステージの中ほどまでくると、なんとも言えない臭いが鼻をつく。ステージの下には茶色とも黄色とも緑色ともつかない色の汚水が流れている。

下水道管の中に入ることができる博物館や施設は、他にもパリとウィーンにあるそうだ。ウィーンの下水道といえば映画『第三の男』の追跡シーンで有名だが、小平で実際の下水道管を体験すると、この中で逃げたり追っかけたりするのは結構キツイのでは……と感じる。

下水道管に見学ステージが設けられている。
下水道管に見学ステージが設けられている。
柵越しに下水道管を見る。
柵越しに下水道管を見る。

緑道を進み、朝鮮大学校を知って

ふれあい下水道館を後にして、今度は玉川上水に沿って緑道を西に進む。鷹の台駅から東側の玉川上水沿いには、白梅学園大学、朝鮮大学校、武蔵野美術大学など大学キャンパスが並んでいる。そのうちの一つ、朝鮮大学校は緑道沿いに門があり、門の外からキャンパスの中心に立つ校舎が見える。

校舎は建築家・山口文象が主宰するRIAの設計で、1959年に竣工した。山口は明治35年(1902)に浅草の大工の家に生まれた建築家で、分離派建築会、創宇社建築会のメンバーとして建築運動を展開、関東大震災後には帝都復興院の土木部橋梁課の嘱託として数寄屋橋、清洲橋などの設計を手掛けている。林芙美子邸、日本電力黒部川第二発電所・小屋平ダム、町田市郷土資料館(現『町田市立博物館』)などの作品でも知られている。

玉川上水緑道。
玉川上水緑道。

分離派建築会などの活動から山口文象の名前は知っていたものの、この取材のために調べるまで朝鮮大学校の校舎を手がけていたとは知らなかったし、校舎が玉川上水のほとりに立っていることも知らなかった。

2015年には隣り合う武蔵野美術大学と朝鮮大学校のキャンパスの間に「橋」をかけるプロジェクト《武蔵美×朝鮮大 突然、目の前が開けて》が行われた。それから10年が経った今年(2026年)、『横浜美術館』で開催された「いつもとなりにいるから 日本と韓国、アートの80年」でもこのプロジェクトがメンバーの近作とともに紹介された。先日私も見に行ったその展示の様子を思い出しながら、正門を後にした。

朝鮮大学校。
朝鮮大学校。

玉川上水緑道を西にふたたび進み、上水新町地域センターからシェアサイクルを借りて東大和市駅へ向かう。歩いてもいいのだが、この後訪れる施設の開館時間の関係から、少し急ぐ必要があった。

東大和市駅前ロータリーにて。
東大和市駅前ロータリーにて。

戦争の痕跡を今に伝える『旧日立航空機株式会社変電所』

東大和市駅から西武拝島線に乗り一駅、玉川上水駅で下りる。駅北口を出ると、バスのロータリーとその背後に立ち並ぶ団地が見える。

ロータリーの一角には「東やまとの文化財地図」「東大和市男女共同参画都市宣言」などの地図や碑が設置されていて、そのいちばん左端に英語と日本語の文章が刻まれた石碑があった。大きな文字で「YAMATO AIR STATION FORMALLY OPENED 24 FEBRUARY 1956」とあり、英文の下には縦書きの日本語で「大和空軍基地 昭和三十一年二月二十四日正式開設」と書かれている。1956年から1973年までこの地にあった米軍大和基地の歴史を伝えるものだ。

石碑の隣には東大和市長による石碑移設の経緯を説明した碑文があり、以下のように書かれていた。

「かつてこの地域は雑木林でありましたが、地域の発展を願って、昭和の初め工場が建設されました。この工場は太平洋戦争のとき爆撃にあい、すべてが灰燼(かいじん)に帰しました。
その後、朝鮮戦争のとき、米軍大和空軍基地が開設されました。この石碑はそのとき基地正門に建設されたものであります。
玉川上水駅前広場を整備するにあたり、その歴史の証としてここに移設したものであります。

平成二年一月吉日 東大和市長 尾崎清太郎」

玉川上水駅前ロータリー。
玉川上水駅前ロータリー。
かつて米軍大和空軍基地の正門にあった石碑。
かつて米軍大和空軍基地の正門にあった石碑。

ロータリーの奥の道を進み団地に囲まれた緑地を抜けると、東大和南公園が見えてくる。1986年に米軍大和基地の跡地を利用して整備された運動公園で、園内には野球場やテニスコート、市民体育館、市民プールなどの施設がある。

東大和南公園。
東大和南公園。

園内の遊歩道を歩いていくと、前方に2階建ての古いコンクリートの建物が見えてくる。建物の壁には無数の穴のようなものがある。戦災建造物『旧日立航空機株式会社変電所』だ。

古いコンクリート造の建物。
古いコンクリート造の建物。

昭和13年(1938)、航空機のエンジンを製造する工場として東京瓦斯電気工業株式会社立川工場が建設され、始動した。翌年日立製作所と合併し、日立航空機株式会社となる。変電所は高圧線で送られてきた電気の圧力を下げ、各工場へ送るための施設として建設された。

戦後GHQにより日立航空機は解散。後継企業により平和産業へと転換し、2000年まで操業が続いた。変電所の建物は空襲の痕跡を残した状態で1993年まで稼働、1994年に市に寄贈されると、1995年に東大和市指定文化財( 史跡)に指定された。

1995年、2020〜2021年に保存・改修工事が行われ、2回目の改修では屋上防水、内外壁保護、耐震補強が行われ、2階への立ち入りも可能となった。

旧日立航空機株式会社変電所正面。
旧日立航空機株式会社変電所正面。
「NO WAR」。
「NO WAR」。

今回、旧日立航空機株式会社変電所を取材するのは、以前読んだ柴崎友香さんの小説『遠くまで歩く』にこの建物のことが書かれていて、いつか訪れたいと思っていたからだ。小説の最後の章で、主人公が講師を務めていたオンライン講座の元受講生たちと変電所を訪れ、解説を聞きながら建物内を見てまわる場面があり、それを読むだけでも空襲の痕跡の生々しさが伝わってきた。

遠くまで歩く−柴崎友香 著|単行本|中央公論新社
https://www.chuko.co.jp/tanko/2025/01/005876.html

変電所は毎週水曜日と日曜日に公開されていて、建物内部や銃痕の残る外壁を間近に見ることができる。この日は14時から職員の方による展示解説があり、事前に取材で参加させてもらうことをお伝えしていた。

建物を入ると、正面の壁に空襲で破壊された旧日立航空機株式会社立川工場の写真が展示されている。写真の右下には「昭和20(1945)年9月工場西方を撮影」とある。その脇には爆撃で投下された500ポンド爆弾の実物大模型が置かれている(模型自体は発泡スチロール製で軽いそうだ)。

空襲にあった工場の写真。
空襲にあった工場の写真。
爆弾の実物大模型。
爆弾の実物大模型。

1945年、工場は3回の空襲を受ける2月17日のグラマンF6FやカーチスSB2Cなど50機以上による爆撃と機銃掃射で78人、4月19日のP51マスタング数機の来襲で5人、4月24日のB29の101編隊による1800発あまりの爆弾投下で28人が犠牲となった。工場の建物は不燃のため、焼夷弾ではなく通常爆弾による空襲が行われたという。

「旧日立航空機(株)立川工場空襲死没者一覧」と書かれたパネルにはそれぞれの空襲で亡くなった方たちの職業や名前が載っていて、「社員・徴用工等」「社員家族」のほかに「牛込高女学徒」「学徒」といった文字もあった。

空襲に使用された飛行機の模型とB29が落とした爆弾の破片。
空襲に使用された飛行機の模型とB29が落とした爆弾の破片。

解説の合間に空襲を体験した人たちのインタビュー映像を見る時間があり、当時の様子を知る男性が「工場の他の建物の方が鉄塔がひん曲がったり、攻撃の跡がひどかった。変電所の被害はこの程度か、という感じだった」と話していたのが印象的だった。今自分が見ている変電所の周りには、それ以上に破壊された風景が広がっていたということだ。当たり前だが、変電所は建物自体が破壊されなかったから残っている。

解説員の方のファイルを見せていただいたが、オンライン上で得られる情報から、戦時中に発行された『週報』や『時局防空必携』などの冊子の現物まで、さまざまな方法で入手した情報が分厚く束ねられていた。こちらの些細な質問にも熱心に答えてくださり、住んでいる土地で起こったことを、新しい世代に伝えようとする気持ちの強さに心を打たれたし、励まされる思いがした。

建物内部まで貫通した銃痕。右上の方は鉄筋があったため貫通しなかった。
建物内部まで貫通した銃痕。右上の方は鉄筋があったため貫通しなかった。
2階。左側は当時の配電盤。銃弾の跡が残っている。
2階。左側は当時の配電盤。銃弾の跡が残っている。
2階からベランダの向こうの平和広場を望む。
2階からベランダの向こうの平和広場を望む。
外壁に残る空襲の痕跡。
外壁に残る空襲の痕跡。

多摩モノレールで上北台、自転車で村山貯水池(多摩湖)へ

多摩モノレール。
多摩モノレール。
多摩モノレールの車窓から。
多摩モノレールの車窓から。

上北台駅からシェアサイクルを利用して多摩湖方面へと向かう。多摩湖の南側、湖畔(町名)にあるポートが空いていたのでそこに停め、あとは多摩湖通りを狭山公園入り口まで歩いた。しばらく行くと左手に取水塔をモチーフにしたかわいらしい門が見えてくる。都立狭山公園多摩湖南門だ。

多摩湖南門。
多摩湖南門。

明治の終わりから大正はじめにかけ、東京市の人口増加による水源確保が急務となる。そこで多摩川の水を羽山取水堰から導いて貯水するため、狭山丘陵を利用して村山下貯水池(多摩湖)がつくられた。

村山下貯水池第一取水塔。奥に第二取水塔も見える。
村山下貯水池第一取水塔。奥に第二取水塔も見える。

以前この連載で文京区にある『東京都水道歴史館』を訪れた際、1階に取水塔の実物大模型があったが、この多摩湖にある村山下貯水池第一取水塔を模したものだ。第一取水塔は1925年(大正14)完成、奥の第二取水塔は1973年(昭和48)に完成した。

通っていた高校がJR水道橋駅のすぐそばにあったので、御茶ノ水や神保町にはよく行っていたのだけれど、神田川の北側に位置する本郷や湯島の方はほとんど歩いたことがなかった。当時は書店やレコード屋にしか関心がなかったが、今あらためて地図を見てみると『東京都水道歴史館』や元町公園など、気になる施設がある。高校時代に知っておきたかったという後悔とともに、今からでも訪ねてみたいと思い、思い出の街の思い出がない場所を巡る取材へと向かった。

戦時中には重要な水源である貯水池を守るためさまざまな爆撃対策が行われ、堤体の上部にコンクリートなどで耐弾層を設置して強化を図った。堤防の親柱は上部が露出していたためカモフラージュとしてコールタールで黒く塗られたという。戦後、親柱全体が出現し、現在は近代土木遺産として保存、展示されている。平穏な公園を歩いていて突如上だけ黒い親柱が出てくるので、少しぎょっとしてしまう。

コールタールを塗った痕が残る親柱。
コールタールを塗った痕が残る親柱。

多摩湖を左に見ながら堰堤を歩いていると、犬の散歩をする人や、ランニングする人、スポーツバイクを押して歩く人などとすれ違う。堰堤の標高は大体103mほどあり、右側には西武多摩湖線の向こうに広がる多摩湖町の街並みが見える。

村山貯水池に沈んだ地域には、5の村と161戸(162戸とも)の住居があったという。狭山丘陵の谷を利用して水田や畑、家屋が作られ、農業の他に養蚕や製茶が副業として行われていた。堰堤の左側の湖面の下にも、土地の人々の生活があったことを想像する。

堰堤から西武園ゆうえんち方面を望む。
堰堤から西武園ゆうえんち方面を望む。
堰堤から見た多摩湖。
堰堤から見た多摩湖。

村山貯水池建設の際、立ち退きに最後まで抵抗した人たちがいて、その敷地跡は今も水位が下がると湖面から顔を出す。いつしか「強情島」や「居残り島」と言われるようになったという。この日はしばらく雨も降っていなかったため、堰堤からその「強情島」を見ることができた。

「強情島」。鳥が何羽か佇んでいた。
「強情島」。鳥が何羽か佇んでいた。
旧高欄。耐弾層を撤去した際、コンクリートの中から建設当時の姿で出現した。
旧高欄。耐弾層を撤去した際、コンクリートの中から建設当時の姿で出現した。

堰堤を下りてしばらく狭山公園内を散策し、古くからある溜池「宅部池(たっちゃん池)」などを見た。取材当日は、ちょうどイスラーム教の犠牲祭、イード・アル=アドハーの日だったため、園内を散策する正装をしたムスリムの人たちの姿を見かけた。午前中取材に出発する時、私の地元でも正装の人たちが晴れやかな顔で歩くのを目にしたし、この日は東京の東と西でイスラームの祝祭を感じることになった。

宅部池(たっちゃん池)。
宅部池(たっちゃん池)。

23区東部に住んでいて少し遠く感じていた多摩地域も、この連載で何度か訪れているうちに徐々に知らない土地ではなくなってきた。まだ知らないこの土地の歴史があり、これから知ることができるのだと思うとわくわくする。

帰りは西武多摩湖線で国分寺駅に出て、そのまま中央・総武線で新小岩駅に向かった。23区をまるまる横断しても1時間ほどで、これまで感じていた遠さも大したものではなかったのかもしれない。

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取材・文・撮影=かつしかけいた

【本記事で参考にした資料・URL】

小平町誌編纂委員会 編.『小平町誌』小平町,1959年,国立国会図書館デジタルコレクション, https://dl.ndl.go.jp/pid/3022422 ,(2026年7月15日参照).

・小平市立中央公園
“鷹の台駅すぐの「小平市立中央公園」で、親子で遊ぼう!”.西武線沿線情報マガジン GURUTTO PLUS,https://grutto-plus.com/area/haijimaline_tamagawaline/629/,(2026年7月15日参照).

・玉川上水
“野火止用水、玉川上水及び千川上水の清流復活事業”.東京都環境局,https://www.kankyo.metro.tokyo.lg.jp/water/conservation/cleanstream_restoration/nobidome_tamagawa_senkawa,(2026年7月15日参照).

“史跡玉川上水~江戸から紡ぐ水の道~”.東京都環境局,https://www.waterworks.metro.tokyo.lg.jp/kouhou/pr/tamagawa,(2026年7月15日参照).

・小平市ふれあい下水道館
“小平市ふれあい下水道館公式HP”.小平市ふれあい下水道館,https://kodaira-sewer.jp/,(2026年7月15日参照).

・山口文象、朝鮮大学校
“1959 朝鮮大学校”.建築家・山口文象+初期RIA,https://yamaguchibunzo.jp/1959chosen-daigakko.html,(2026年7月15日参照).

“朝鮮大学校 小平移転50周年 朝・日友好の架け橋となった建築家・山口文象”.朝鮮新報(日本語版).http://korea-np.co.jp/j-2009/06/0906j0520-00001.htm,(2026年7月15日参照).

“〈70年の自負、100年への自信②〉朝鮮大学校の新学舎と講堂・図書館・寄宿舎の建設”.朝鮮新報 DIGITAL SINBO.https://chosonsinbo.com/jp/2025/01/24-177/,(2026年7月15日参照).

“ドボ博 学芸員の部屋 012”.ドボ博 東京.https://www.dobohaku.com/tokyo/ja/staffblog_012/,(2026年7月15日参照).

“いつもとなりにいるからムサビとコリアン美術家のかかわり”.MAU2029,https://2029mag.musabi.ac.jp/column/4599/,(2026年7月15日参照).

“綺麗じゃない「対話」が壁を越える/「武蔵美×朝鮮大 突然、目の前がひらけて」”.月刊イオ,https://www.io-web.net/2016/01/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E7%BE%8E%C3%97%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%A4%A7/#google_vignette,(2026年7月15日参照).

・旧日立航空機株式会社立川変電所
“米軍大和基地の碑”.東大和ドットネット,https://higashiyamato.net/higashiyamatonorekishi/634,(2026年7月15日参照).

“戦災建造物 東大和市指定文化財 旧日立航空機株式会社変電所”.東大和市,https://www.city.higashiyamato.lg.jp/bunkasports/museum/1006099/1006102.html,(2026年7月15日参照).

東大和市史編さん委員会 編.『東大和市史資料編』1 (軍需工場と基地と人びと),東大和市,1995年3月. 国立国会図書館デジタルコレクション, https://dl.ndl.go.jp/pid/13178609,(2026年7月15日参照).

東大和・戦災変電所を保存する会 編『戦災変電所の奇跡:西の原爆ドーム、東の変電所』.東大和・戦災変電所を保存する会,2017年4月.

東大和・戦災変電所を保存する会編『西の原爆ドーム、東の変電所 東大和・戦災変電所と平和の歩み 活動記録』.東大和・戦災変電所を保存する会.

“変電所紹介ビデオ[日本語版]【平和を未来へ@東大和市】戦災遺跡 旧日立航空機株式会社変電所~平和のシンボル「変電所」を未来へつなぐ~”.YouTube.東大和市公式動画チャンネル,https://youtu.be/xYYlGG9uPG8?si=0KHKBk7m8LM3jGji,(2026年7月15日参照).

“戦災建造物 東大和市指定文化財「旧日立航空機株式会社 変電所」紹介動画”.YouTube.東大和市公式動画チャンネル,https://youtu.be/6hKVFyYsZx4?si=3rKYWllKUD4kTEM1,(2026年7月15日参照).

“「軍事都市多摩」の生き証人 弾痕残る変電所”.YouTube.日本経済新聞,https://youtu.be/4pALe7nQG94?si=Az1dVQPa_EKplVrl,(2026年7月15日参照).

・多摩湖
“多摩湖町を歩いてみる”.多摩湖町自治会,https://tamako-cho.org/walking-tamako/,(2026年7月15日参照).

“第12回多摩めぐり~多摩を深める 村山貯水池(多摩湖) 景勝の湖に見る光と影”.多摩湖めぐりの会,https://tama-meguri.com/tama-meguri/report/tamameguri-12-191005/#%E4%B8%BB%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%84%E7%A4%BE%E3%81%AB%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E7%8A%A0%E7%89%B2%E8%80%85%E3%81%AE%E7%A2%91,(2026年7月15日参照).

“資料 / 近代水道写真館 / 03_村山・山口貯水池”.東京都水道歴史館デジタルアーカイブシステム,https://www.ro-da.jp/suidorekishida/photo/list?genre=3003&offset=0&limit=20,(2026年7月15日参照).

“連載「水道の話いろいろ」(9)百年前東京に貯水池を造る”.上下水道情報プラス,https://ktjplus.jp/org/masukosuidou01/masukosuidou09/,(2026年7月15日参照).

“村山貯水池(多摩湖)の湖底に沈んだ村の住居”.東大和ドットネット,https://higashiyamato.net/higashiyamatonorekishi/2245,(2026年7月15日参照).

堀越正雄.『江戸・東京水道史』.講談社学術文庫,2020年9月.

東大和市史編さん委員会 編.『東大和市史資料編』2 (多摩湖の原風景),東大和市,1995年3月. 国立国会図書館デジタルコレクション, https://dl.ndl.go.jp/pid/13217123,(2026年7月15日参照).

東京百年史編集委員会 編.『東京百年史』第4巻,東京都,1972年. 国立国会図書館デジタルコレクション, https://dl.ndl.go.jp/pid/9640955 ,(2026年7月15日参照).

後藤祥夫 (ほか)編.『東大和市・武蔵村山市・瑞穂町の昭和史 : 写真集』,千秋社,1991年6月. 国立国会図書館デジタルコレクション, https://dl.ndl.go.jp/pid/13132219,(2026年7月15日参照).

松下紀久雄 著 ほか.『多摩のむかし絵』,花伝舎,1991年9月. 国立国会図書館デジタルコレクション, https://dl.ndl.go.jp/pid/12668924,(2026年7月15日参照).

“VIDEOTAPEMUSIC  年末のWWWで単独ライブ開催決定!”.カクバリズム,https://kakubarhythm.com/news/post/11525,(2026年7月15日参照).

“都立狭山公園宅部池の水生生物相 ”.J-STAGE,https://www.jstage.jst.go.jp/article/nichelife/9/0/9_11/_pdf/-char/en,(2026年7月15日参照).

前回の取材で歩いた埼玉県狭山市・入間市は、16号沿いの基地の街だった。「郊外」的な風景が広がるロードサイドとして言及されることの多い国道16号は、首都圏の基地をつなぐ軍用道路としての歴史をもつ。ふだん東京23区東部で暮らしているとほとんど意識することがない基地の存在に戸惑いもしたが、同時にそうした風景が首都東京を囲むように存在することを、もっと知らなければと思った。今回は都内から京急線一本で行ける「軍港都市」横須賀を歩いてみることにした。そこには東京の湾岸とは全く異なる港の風景が広がっていた。
先日YouTubeを見ていたところ、これまでに閲覧した動画との関連からか、埼玉県狭山市にあった「狭山アメリカ村」の痕跡を巡る動画が表示された。1970年代初め、ジョンソン基地の周辺にあった米軍ハウスに、デザイナーやミュージシャンたちが移り住んだことから、一帯は「狭山アメリカ村」と呼ばれるようになる。細野晴臣のアルバム『HOSONO HOUSE』(1973)も当時の米軍ハウスでの暮らしから制作された。どうやら近くには入間川や霞川も流れているようだ。好きでよく聴いていた音楽がどのような場所で生まれたのか気になり、早速訪れてみることにした。
通っていた高校がJR水道橋駅のすぐそばにあったので、御茶ノ水や神保町にはよく行っていたのだけれど、神田川の北側に位置する本郷や湯島の方はほとんど歩いたことがなかった。当時は書店やレコード屋にしか関心がなかったが、今あらためて地図を見てみると『東京都水道歴史館』や元町公園など、気になる施設がある。高校時代に知っておきたかったという後悔とともに、今からでも訪ねてみたいと思い、思い出の街の思い出がない場所を巡る取材へと向かった。