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散歩の達人 2026年7月号
散歩の達人 2026年7月号
都市と自然が共存し、人も文化もすくすく育つ。これこそが、我々の目指すべき“理想の未来”の姿なのかも? TXに乗り込み、沿線をまたにかけたフューチャーさんぽへ、いざ出発!

「なぎさ公園」を進み、いざ『魔法の文学館』へ

地下鉄東西線葛西駅から都営バスに10分ほど乗ると、旧江戸川に面した「なぎさ公園」に着く。少年用野球広場やサッカーなどができるスポーツ広場のほか、ポニーのりばまである総合公園だ。今回の最初の目的地『魔法の文学館』はこのなぎさ公園内にある。

なぎさ公園。
なぎさ公園。

園内の案内板に従って進むと、ポニー乗り場の方から「パシィッ!」と大きな音が聞こえてくる。音の方を見ると、調教師が長い鞭を地面に打ちつけてポニーに何か指示しているようだった。

そのまま緩やかな坂を上ると、「展望の丘」と呼ばれる高台の上に、白い外壁と赤い窓が特徴的な建物が見えてくる。この建物が『魔法の文学館(江戸川区角野栄子児童文学館)』だ。

ポニー乗り場。
ポニー乗り場。
『魔法の文学館』。
『魔法の文学館』。

『魔女の宅急便』や『おばけのアッチ』シリーズで知られる児童文学作家・角野栄子さんは、深川で生まれ幼少期を江戸川区小岩で過ごした。そのようなゆかりもあって、『魔法の文学館』は、角野栄子さんの作品と世界のさまざまな絵本や児童書に触れられる場所として2023年にオープンした。

館内に入ると、1階に真っ赤なイチゴ色の壁に囲まれたスペースが広がる。『魔女の宅急便』の舞台「コリコの町」をイメージした広場で、壁にはプロジェクションマッピングで角野さんの代表作のキャラクターたちが映し出されている。モニター画面に角野さんのメッセージ映像が流れ、自然と気持ちも高まってくる。

コリコの町。
コリコの町。
角野栄子さん。
角野栄子さん。

コリコの町を過ぎると「コリコの町の本棚」と呼ばれる空間が広がる。各国語に翻訳された角野さんの作品やコリコの町の模型が展示されていて、本棚には絵本などの読み物が並ぶ。訪れた子供たちが思い思いの場所で本を読めるように、座れる場所がたくさん用意されているのが良い。

コリコの町の本棚。
コリコの町の本棚。
世界中で翻訳された角野作品が並ぶ。
世界中で翻訳された角野作品が並ぶ。
さりげなく立てかけられたほうき。
さりげなく立てかけられたほうき。

広場の前の階段を上った先には「おうち型」の本棚に囲まれたライブラリーがあり、角野さん自ら選んだ絵本や児童書が、あえてあまり分類されないまま並んでいる。

ライブラリーと同じフロアには、角野さんの仕事場を再現した「栄子さんのアトリエ」があり、角野さんが創作の参考にしたと思われるさまざまな本や小物が展示されている。書棚には児童文学や魔女に関する本、辞書から漫画まで並んでいて、自分の家にもある本を見つけて少しうれしくなってしまった。

階段。
階段。
ライブラリー。
ライブラリー。
栄子さんのアトリエ。
栄子さんのアトリエ。

『魔法の文学館』を後にして、なぎさ公園の展望の丘を上る。丘の東側には旧江戸川が流れている。対岸は千葉県浦安市だ。

展望の丘から見た『魔法の文学館』外観。
展望の丘から見た『魔法の文学館』外観。
旧江戸川を望む。
旧江戸川を望む。

スパイス、ギー、ミタイ……西葛西で巡るインドの食

なぎさ公園からバスで葛西駅に戻り、今度は地下鉄東西線で一駅移動して、西葛西駅で下りる。東西線は1964年に高田馬場〜九段下が開業、その後徐々に延伸し、1969年に東陽町〜西船橋間が開通した。西葛西駅ができるのはそれからさらに10年経った1979年で、妙典(2000年)、南行徳(1981年)に次いで新しい。

西葛西駅。
西葛西駅。

西葛西といえば、日本でいちばんインド人が多く暮らす街としても知られている。日本在留のインド人人口が58999人(2025年末現在、出入国在留管理庁 在留外国人数報道発表資料 https://www.moj.go.jp/isa/publications/press/13_00062.html)で、江戸川区在住のインド国籍の住民が8493人(2026年4月30日現在、江戸川区外国人データ https://www.city.edogawa.tokyo.jp/e083/kurashi/kyosei/tabunka/zinkou.html)、うち西葛西圏内に住む人が4596人というから、いかに江戸川区、中でも西葛西に居住するインド出身者が多いかがわかる。

90年代後半より「2000年問題」に対応するためインドからIT技術者が多く来日し、大手町や日本橋といったオフィス街にもアクセスしやすい西葛西に住むようになったことがきっかけではないかと言われている。

UR小島町二丁目団地。1階に学生服の店や中華料理の店などが並ぶ。
UR小島町二丁目団地。1階に学生服の店や中華料理の店などが並ぶ。

ただ、西葛西駅周辺を歩いていても、時折南アジア系と思しき人とすれ違うものの、風景としてインド系のお店が多く見られるかというと、そうでもない。マップで検索してみると、一つの通りに集中しているというよりも、西葛西のあちこちに、時に商業施設や団地の中にお店が点在しているといった印象だ。

西葛西で最初に訪れたお店もUR団地の1階にあるのだが、知らなければ普通の団地だと思って通り過ぎてしまいそうなくらい、外からは目立たない。

『TMVS FOODS』。
『TMVS FOODS』。

駅から5分ほど北に歩いたUR小島町二丁目団地の1階に、インドのスパイスと食材、雑貨を扱う『TMVS FOODS』がある。インドの食材を中心に、スパイス、野菜などを扱うお店だ。バスマティライスやマッタライスなどお米の種類も豊富で、好みや料理によって買い分けるお客さんも多いという。また、カルダモンやクミンなどのスパイスを小分けのパックで販売しており、家庭でちょっと試してみたいという日本人客にもうれしい。

インドの食材に詳しくなくても店員さんが親切に教えてくれるので、初心者でも安心して買い物することができる。訪れたこの日はお店の方が「ギー(Ghee)」と呼ばれる、南アジアで古くから作られているバターオイルの一種をおすすめしてくれた。

店内の様子。
店内の様子。
野菜コーナー。
野菜コーナー。
店員さんおすすめのギー。
店員さんおすすめのギー。
ピライマリアッパンさん(左)と代表の藤山さん。
ピライマリアッパンさん(左)と代表の藤山さん。

『TMVS FOODS』でおすすめの商品をしこたま買い込んだ後、再び西葛西駅の方へ向かう。東西線は地下鉄だが、南砂町駅〜西船橋駅間は地上区間となっている。そのため西葛西駅は高架駅で、高架下の空間は「メトロセンター」という商店街として利用されている。

メトロセンターはメトロ開発株式会社が運営しており、西葛西だけだなく葛西、南行徳、原木中山などにもある(浦安、行徳、妙典はM’avという名前で営業している)。メトロ開発株式会社のウェブサイトには「ショッピングセンター」とあるが、通路の両側に飲食店などがぎゅっと並んでいる様子はどちらかというと昔ながらの商店街のようで、ビルに囲まれた駅周辺の街並みの中で貴重な「下町」感のある空間になっている。

メトロセンター。
メトロセンター。

高架下を挟んで駅のすぐ南側に、次の目的地『Tokyo Mithai Wala』がある。インドのお菓子(ミタイ)を中心に扱うお店で、『散歩の達人』の連載「トーキョーアジアめし」でも室橋さんが紹介されていた。

【インド】人口およそ14億を誇る南アジアの大国。近年はIT技術を軸に経済発展が著しい。日本には約3万7000人が暮らすが、そのうち1万4000人が東京、うち5200人が江戸川区在住。IT技術者や留学生、経営者、その家族が多い。宝石商も東京・上野や甲府などに集住している。

1階ではショーウィンドーに並んだカラフルなインドスイーツを販売していて、2階では本場のインドストリートフード、南インド料理やインド中華などを食べることができる。

『Tokyo Mithai Wala』。
『Tokyo Mithai Wala』。

この日の目的は、事前に予約していたインド式アフタヌーンティーだ。席に着いてしばらくすると、さまざまなスイーツがのせられた3段のスタンドが運ばれてくる。お店の方からメニューの簡単な説明を受け、いざ食べ始めようとするも、初めて見るお菓子・軽食も多く、どれから手をつけていいか迷ってしまう。

アフタヌーンティー。
アフタヌーンティー。
お皿にのっているのはモティチョール ラドゥとローズ パーキザ。器に盛られているのがジャレビ ラブリ。
お皿にのっているのはモティチョール ラドゥとローズ パーキザ。器に盛られているのがジャレビ ラブリ。

まずはスタンドの最上段にあった、ひよこ豆の粉(ベサン)を揚げたお菓子「モティチョール ラドゥ」からいただく。つぶつぶの食感と、シロップにしっかり浸かった甘さが特徴的な、祝い事などでよく出されるお菓子だそうだ。これぞミタイといった甘さで、英国式アフタヌーンティーではないことを実感する。

お菓子だけでなく、ポテトと野菜を包み揚げた「サモサ」や、ポテトをサンドしたインド風バーガー「ヴァダパヴ」のような軽食もあり、甘みと塩味を交互に味わうという貴重な体験ができる。

ゴルガッぺ ショット。
ゴルガッぺ ショット。
チャット パプディ。
チャット パプディ。

今回食べたものの中で驚いたのは「チャット パプディ」だ。最初はお菓子なのかと思って口に運ぶと、甘みや酸味、サクッとした食感など、普段一度に味わうことのない味覚・食感が混ざり、これまで食べたどの食べ物ともジャンルが異なるような印象を受けた。

後で調べると「チャット」と呼ばれる軽食の一種で、パプディ(パプリ)はサクサクに揚げた生地のことを指すようだ。インドでは屋台料理として知られているらしく、アフタヌーンティー用にオシャレに盛られているためか一見スイーツかと思ってしまった。

一つ一つのお菓子や軽食はそれほどのボリュームではないものの、3段のスタンドいっぱいに並んでいるので、思っていたよりもしっかりとおなかがいっぱいになる。

1階のショーウィンドー。
1階のショーウィンドー。

新左近川周辺へ。ここは、かつて海だった

インド式アフタヌーンティーで満腹になった後は、駅の南側から清洲大橋通りを渡り、新左近川まで続く「新長島親水公園」を歩く。

新長島親水公園。
新長島親水公園。

葛西沖と呼ばれ海苔や魚介が採れる漁場だったこの一帯は、遠浅の海に面していたこともあり、高潮の被害を受けやすかった。1949年のキティ台風をきっかけに高潮対策が本格化し、第一次高潮対策事業が策定され、1957年には葛西海岸堤防が造られた。しかし高度経済成長期を迎えると、地下水汲み上げによる地盤沈下、工場排水による水質悪化などに見舞われる。

1972年から葛西沖開発土地区画整理事業が始まり、街全体の嵩上げと埋め立て、葛西臨海公園の整備などが行われ、現在の清新町、臨海町が誕生した。

「東京時層地図」(日本地図センター)より、「高度成長前夜(昭和23-35年)(1948-1960年)」。新長島親水公園を歩いている時に撮ったスクリーンショット。
「東京時層地図」(日本地図センター)より、「高度成長前夜(昭和23-35年)(1948-1960年)」。新長島親水公園を歩いている時に撮ったスクリーンショット。

西葛西駅から新長島親水公園、新左近川、そして葛西臨海公園へ至る風景は、こうした葛西沖一帯の開発事業によって造られた。

新長島親水公園から新左近川に出て、東へ進む。新左近川の両岸は親水公園となっていて、左岸にはカヌー場やデイキャンプ場が整備されている。緑も多く、川面に映る江戸川の新しい街を見ながら歩くのが気持ちいい。

新左近川。
新左近川。
新左近川親水公園(左岸)。
新左近川親水公園(左岸)。

左岸をしばらく歩くと、水門のようなモニュメントが見えてくる。これが「海岸水門」で、かつてはここが左近川の河口だった。ここまで歩いてきた新左近川は、左近川(と長島川)の水を荒川河口へ放流するために造られたものだ。

海岸水門。
海岸水門。
「東京時層地図」日本地図センターより、「昭和36-39年 地理院地図 空中写真(1961~1964年)」(一部を加工)。
「東京時層地図」日本地図センターより、「昭和36-39年 地理院地図 空中写真(1961~1964年)」(一部を加工)。
「東京時層地図」日本地図センターより、「昭和63-平成2年 国土画像情報(第四期:1988~1990年撮影)」(一部を加工)。水門から西側が埋め立てられ、新左近川が造られた。
「東京時層地図」日本地図センターより、「昭和63-平成2年 国土画像情報(第四期:1988~1990年撮影)」(一部を加工)。水門から西側が埋め立てられ、新左近川が造られた。

かつての葛西沖を感じられる場所は、まだある。海岸水門から南に進み、左近通りを渡って道なりに歩いていくと、「旧海岸堤防」と書かれた構造物と、その上に立つ石碑「将監の鼻」が見えてくる。見えてくる。ユニークなネーミングは、堤防が海に突き出た所にあり、上から眺めると鼻の形に似ていたことに由来するという。「将監」の方はというと、江戸幕府の船の管理などを行う船手頭、向井将監忠勝(むかいしょうげんただかつ)の屋敷があったことに由来するそうだ。

石碑「将監の鼻」。
石碑「将監の鼻」。
道路の方から見た石碑「将監の鼻」。
道路の方から見た石碑「将監の鼻」。

荒川中洲南端の南端で東西を思う

再び新左近川まで戻り、今度は荒川土手を目指して西へ歩く。新左近川と荒川の合流地点には新左近川水門があるが、新左近川の川沿いの道からは近づくことができない。そこで河口にいちばん近い蜆橋の上から橋の東西の風景を眺める。

蜆橋から西側、新左近水門を望む。
蜆橋から西側、新左近水門を望む。
蜆橋から東側、新左近川を望む。右側に見える街並みは全て埋め立て地だ。
蜆橋から東側、新左近川を望む。右側に見える街並みは全て埋め立て地だ。
土手の堤防にはキティ台風の時の潮位が記されている。
土手の堤防にはキティ台風の時の潮位が記されている。

蜆橋から北に300mほど行き、江戸川区立清新第二中学校前の横断歩道を渡って荒川河川敷へ出る。再び南に引き返すと荒川河川敷からようやく新左近川水門を見ることができた。

新左近川水門。
新左近川水門。

水門を見たあとは再び荒川沿いを北に進み、荒川と中川の間の中洲の最南端部分を目指す。といってもいちばん近い清砂大橋からは中洲に出ることができないため、もう一本北の葛西橋まで迂回しなければならない。

葛西橋からようやく中洲にでることができた。
葛西橋からようやく中洲にでることができた。
中洲の首都高高架下。近年は『呪術廻戦』のアニメに描かれた場所としても有名に。
中洲の首都高高架下。近年は『呪術廻戦』のアニメに描かれた場所としても有名に。

河川敷には災害時に復旧活動の拠点となる「緊急用船着場」が整備されている。埼玉の戸田から江東区新砂まで、荒川に13カ所設けられた船着場の一つだ。

臨海緊急用船着場。
臨海緊急用船着場。
河口から0km。
河口から0km。

この取材記と連動している『散歩の達人』本誌の漫画「水と歩く」第19回では、江戸川区出身の主人公が武蔵野市出身の友人に葛西・西葛西を案内するという形で話が進むのだが、中洲南端を訪れて、友人が武蔵野とは全く異なる水辺の景色に驚くという場面で終わる。

実は、これは私自身が以前「水と歩く」の取材で井の頭公園を訪れた時の驚きを反転させたものでもある。東京東部出身者にとって、水辺とはまず川であり、河川敷の風景だ。逆に井の頭池や玉川上水のような武蔵野の水辺の風景は、周辺の緑の多さや高低差のある地形など、どれも新鮮に映った。

首都高はさらに下流の葛西ジャンクションまで延びる。
首都高はさらに下流の葛西ジャンクションまで延びる。

狭い東京の中だけでもこれだけ多様な水辺の風景があることや、水辺という言葉から思い浮かべる風景がこれだけ違うことに気づいたのは、この連載であちこちの水辺を歩いたためでもある。自分では漫然と歩いているようでも、体はその土地の経験を重ねているのかもしれない。

中洲南端の南端。
中洲南端の南端。

取材・文=かつしかけいた 撮影=かつしかけいた、さんたつ編集部

【本記事で参考にした資料・URL】

“魔法の文学館公式ホームページ”.魔法の文学館,https://kikismuseum.jp/,(2026年6月19日参照).

“1964年(昭和39年)東西線の歴史”.メトロアーカイブアルバム,https://metroarchive.jp/content/touzai.html/,(2026年6月19日参照).

“葛西沖周辺のまちづくり”.江戸川区役所,https://www.city.edogawa.tokyo.jp/e016/toshikeikaku/chiki/kasaiokinorekishi.html,(2026年6月19日参照).

“解説シート No.10-1 新しい街づくり(1)清新町・臨海町”.江戸川区郷土資料室,https://www.city.edogawa.tokyo.jp/documents/9195/10-01.pdf,(2026年6月19日参照).

“連載 もっと知りたい!葛西沖”.江戸川区役所,https://www.city.edogawa.tokyo.jp/kuseijoho/kohokocho/kohoedogawa/rensai/column/index.html,(2026年6月19日参照).

“解説シート No.4-5 左近川・新左近川”.江戸川区郷土資料室,https://www.city.edogawa.tokyo.jp/documents/9201/4-05.pdf,(2026年6月19日参照).

“[防災・災害への取り組み]”.荒川下流河川事務所,https://www.ktr.mlit.go.jp/arage/arage00128.html,(2026年6月19日参照).

前回の取材で歩いた埼玉県狭山市・入間市は、16号沿いの基地の街だった。「郊外」的な風景が広がるロードサイドとして言及されることの多い国道16号は、首都圏の基地をつなぐ軍用道路としての歴史をもつ。ふだん東京23区東部で暮らしているとほとんど意識することがない基地の存在に戸惑いもしたが、同時にそうした風景が首都東京を囲むように存在することを、もっと知らなければと思った。今回は都内から京急線一本で行ける「軍港都市」横須賀を歩いてみることにした。そこには東京の湾岸とは全く異なる港の風景が広がっていた。
先日YouTubeを見ていたところ、これまでに閲覧した動画との関連からか、埼玉県狭山市にあった「狭山アメリカ村」の痕跡を巡る動画が表示された。1970年代初め、ジョンソン基地の周辺にあった米軍ハウスに、デザイナーやミュージシャンたちが移り住んだことから、一帯は「狭山アメリカ村」と呼ばれるようになる。細野晴臣のアルバム『HOSONO HOUSE』(1973)も当時の米軍ハウスでの暮らしから制作された。どうやら近くには入間川や霞川も流れているようだ。好きでよく聴いていた音楽がどのような場所で生まれたのか気になり、早速訪れてみることにした。
通っていた高校がJR水道橋駅のすぐそばにあったので、御茶ノ水や神保町にはよく行っていたのだけれど、神田川の北側に位置する本郷や湯島の方はほとんど歩いたことがなかった。当時は書店やレコード屋にしか関心がなかったが、今あらためて地図を見てみると『東京都水道歴史館』や元町公園など、気になる施設がある。高校時代に知っておきたかったという後悔とともに、今からでも訪ねてみたいと思い、思い出の街の思い出がない場所を巡る取材へと向かった。