基地のある街の歩みを知る
池袋から西武池袋線に乗り、稲荷山公園駅に向かう。稲荷山公園駅に着く手前あたりから線路は航空自衛隊入間基地の敷地内を走る。池袋からおよそ40分ほどで到着した。前日からこの日の朝まで雨が降っていたのだが、ちょうど着く頃に止み晴れ間も見えてきたので、ひとまず安心した。駅のホームから見えるところに自衛官募集の看板が設置されていて、基地のある街に来たことを実感する。
北口の改札を出て、入間基地と道を一本隔てた埼玉県営狭山稲荷山公園内にある、狭山市立博物館へ向かう。「入間川と入間路ーその自然と風土ー」を基本テーマに、狭山の地形形成の歴史から、明治維新以降現在に至るまでの狭山に暮らした人々の足跡を展示している施設だ。
常設展示のスペースに入ると、まずはアケボノゾウの骨格標本が出迎えてくれる。アケボノゾウは今から170万年〜70万年前に生息していた比較的小型のゾウで、1975年に狭山市内の入間川沿いで臼歯(奥歯)が発見され、その後の調査で70余点の化石が採集されたという。
狭山市を流れる入間川の周りには、縄文時代の集団生活の跡が多く残っている。狭山市笹井にある宮地遺跡の集団生活を再現したジオラマが展示されていて、この遺跡からは奈良・平安時代の家の跡も見つかっているという。笹井には現在も河岸段丘の段丘面に水が湧いている滝不動尊があり、宮地遺跡はこの湧水の上段に位置している。縄文の昔から、人々は崖線と湧水のそばに棲みつき、生活を営んでいたのだろう。
狭山地方の産業として知られる製茶や養蚕・製糸業についても、実際に使われた道具やミニチュアとともに紹介されている。入間川と飯能を結ぶ交通手段として明治34年(1901)に開通した入間馬車鉄道の馬と車も再現されていて、展示スペースの真ん中に突然現れるのでなかなかの迫力だ。また、博物館がある稲荷山公園はかつて米軍のジョンソン基地の一部だったため、基地の歴史についてもパネル解説がある。
博物館の展示を見た後、博物館のある稲荷山公園をぶらぶら散策してみた。
戦前、狭山市と入間市にまたがって陸軍航空士官学校があり、戦後そこにアメリカ第五空軍が進駐してジョンソン基地となった。1950年に朝鮮戦争が始まると、ジョンソン基地内や基地周辺にアメリカ軍兵士たちのための米軍ハウスが次々と建設される。現在の稲荷山公園は「ハイドパーク」と呼ばれ、将校とその家族たちが暮らす住宅地が整備された。
稲荷山公園内の道を歩いていると、車寄せや住宅へ続く階段など、ハイドパーク時代の遺構が残っていることに気づく。階段を登ると平らな土地が広がっていて、住宅が立っていた当時の様子を思い浮かべることができる。その頃の写真を見ると、将校用住宅ということもあり、なかには二階建ての建物もあったようだ。
園内の土地は全体的に起伏が多く、元々車が出入りしていたせいか道幅もゆったりしていて、歩いていて気持ちがいい。園内には300本のソメイヨシノの並木があり、取材時はまだ桜の季節ではなかったが、並木道の両側に桜が咲く様子はきっと圧巻だろう。
HOSONO HOUSE跡地であの頃の面影感じて
稲荷山公園の木道を歩き、公園北側の住宅地に出る。道なりに北東へ進むと、右手に駐車場とアパートが並ぶ一角がある。鵜の木地区と呼ばれるこの辺り一帯にも、かつて米軍ハウスが立ち並んでいた。
ジョンソン基地は1961年から日米共同使用が始まり、1973年には基地の大部分が返還される。基地の縮小と撤退によって、それまでアメリカ軍兵士たちが住んでいた住宅が空き家となり、日本人向けに安い家賃で貸し出されるようになる。
1970年代初頭、そこに東京から若いデザイナーやミュージシャンたちが移住してきたことから、鵜の木地区の米軍ハウス群はのちに「狭山アメリカ村」と呼ばれるようになった。ミュージシャンの細野晴臣もその一人で、1973年に発表したアルバム『HOSONO HOUSE』はこの「狭山アメリカ村」にあった自宅で録音、制作されている。
「狭山アメリカ村」については当時の様子を知るミュージシャン・音楽プロモーターの麻田浩さんと写真家の野上眞宏さんの証言が「散歩の達人」の過去の記事に載っているので、ぜひあわせて読んでみてほしい。
「狭山アメリカ村」と呼ばれた一帯は現在普通の住宅地となっていて、当時の雰囲気を感じられるようなものはほとんど残っていない。ただ、稲荷山公園の高台を背景に、低地に住宅が立ち並ぶ様子は「狭山アメリカ村」の頃から変わっておらず、地形を手がかりにして、米軍ハウスが並んでいた頃の風景を想像することはできる。
川沿いの道を歩く
かつての「狭山アメリカ村」から国道16号を渡り、広瀬橋通りを北に進むと、やがて入間川の河川敷が見えてくる。
取材に同行してくれた担当編集者さんと話しながら歩いていると、ときおり基地から飛び立つ飛行機の轟音が響き、会話が数秒の間遮られる。空を見ると飛行機(輸送機だろうか)が飛び立ったばかりの高度にあった。
以前大田区の城南島を取材した時も羽田空港から飛び立つ旅客機を間近に見たが、これまで基地のある街をほとんど訪れたことがなかったので、旅客機以外の飛行機が飛び立つ音を聞いたのは初めてかもしれない。
広瀬橋を渡りながら、その下を流れる入間川と、両岸に広がる街並みを眺める。先ほどの『HOSONO HOUSE』収録の「恋は桃色」という曲の歌詞は入間川とその周辺の風景をイメージしたものらしく、歌詞に出てくる「川沿いの道」はここだったのかと、思わず歌を口ずさみながら歩いてしまう。
広瀬橋を渡り、入間川の北側(左岸)の河川敷を西に向かって歩く。取材前日は一日雨が降っていたが、川の流れはゆっくりで、普段の入間川の様子を知らないものの、それほど水が増えているようには見えなかった。それもあってか河川敷は穏やかな雰囲気で、散歩する地元の人や水面に浮かぶ水鳥など、春らしいのんびりとした風景を楽しんだ。
さまざまな人が行き交った豊水橋から霞川をたどる
入間川の左岸をしばらく歩くと、豊水橋が見えてくる。入間市の黒須と狭山市の根岸を結ぶこの地点は、日光脇往還が通っていたこともあり、昔から交通の要所だった。豊水橋がかかるまでは「根岸の渡し」と呼ばれる渡し船が両岸を結んでいたという。
入間川には、荒川上流から入間川中流までの魚の遡上を可能にするための堰が設けられていて、豊水橋の手前には魚道が整備された豊水堰がある。
豊水橋を渡り、入間川に合流する霞川を目指して歩く。入間川の河川敷を歩いていた時から、都内にいる時よりも鼻がムズムズしてやたらとくしゃみが出て、スマートフォンの画面に小さい粉状のものがたくさん付着しているのが目に入ったのだけど、気付いたらもっと症状がひどくなるような気がして、気付かないふりを続けた。
霞川は東京都青梅市の青梅丘陵を源として、青梅市、埼玉県入間市を流れて入間川に注ぐ全長15.8kmほどの1級河川だ。過去たびたび水害に遭い、大和橋の脇には「霞川水害慰霊碑」が立つ。
地図を見ていた時には、住宅地を流れていることもあり、もっと人工的で細い川を思い浮かべていたのだけど、思っていたよりも川幅があり、途中途中には堰も設けられている。白鷺などの水鳥が水面に憩う姿も見かけ、市街地を流れていながら、想像していたよりも川らしい川の姿をしていた。川の近くまで降りられる階段もあり、丁寧に「あぶないから、こどもだけでは、おりないように」と書かれていたが、私は大人なので一人で降りた。この辺りは川沿いに100本以上の桜が植えられているらしく、訪れる時期がもう数週間遅ければ川に沿って咲く満開の桜を見ることができたようだ。
国道16号沿いの名建築を巡り、穏やかな公園へ
霞川から国道16号に向かって歩いていると、高い尖塔を持つ建物が目に入ってくる。W.M.ヴォーリズ設計による、「日本キリスト教団武蔵豊岡教会」の礼拝堂だ。
大正12年(1923)5月に献堂され、同年の関東大震災にも無傷だったという。2014年に国道16号の拡幅工事により境内の4分の1が収容されることになったため、老朽部分の修繕や耐震補強などを行うとともに玄関を国道に合わせて150度向きを変え、付属棟も新築された。
改装前の写真を見ると、外装などかなり変わっているが、内部は当時の姿を保っているそうだ。国道16号というとロードサイドにチェーン店が並ぶ郊外的な風景をイメージするが、その16号沿いにヴォーリズ設計の礼拝堂が正面を向けて立っている姿は目をひくものがある(武蔵豊岡教会のウェブサイトに旧会堂の姿や曳家の様子を納めたアルバムが掲載されている)。
国道16号を挟んだ武蔵豊岡教会の斜め向かいにも、煉瓦調の外装が特徴的な古い建物がある。石川組製糸の創業者石川幾太郎が外国商人を招くための迎賓館として建てた「旧石川組製糸西洋館」 だ。大正10年(1921)に建てられた洋風木造建築で、本館と別館が合わせて国の有形登録文化財となっている。たびたび映画やTVなどの撮影に使用されていて、定期的に内部の見学会も行われているようだ。
国道16号をそれて、西武池袋線入間市駅の方へ向かう。入間市駅前のロータリーからけやき通りを南に進み、そのまま15分ほど歩くと、左手に大きな針葉樹の並木道が特徴的な公園が見えてくる。
「埼玉県営彩の森入間公園(愛称:エミパーク彩の森入間)」という、に米軍から返還された基地跡地を活用、整備し、1989年に開設された公園だ。
公園入り口から続くメタセコイアの並木道を抜けると、噴水のある人工池や芝生広場が広がる。園内にはさまざまな種類の木々が植えられているが、こういう時に木の名前がわかると面白いのに、といつも思う。この日も木にプレートがかかっている木がいくつかあり、声に出して何度か誦じてみたものの、もう忘れてしまった。
園内には上池と下池の二つの池があり、その間をせせらぎと呼ばれる小川が流れている。せせらぎも池の周りの小径もくねくねと湾曲していて、少し移動しただけで周囲の風景が変化するので、歩いていて飽きない。せせらぎに架かるアーチ状の小橋や四阿(あずまや)のデザインも洒落ていて、園内の風景が単調に感じないような工夫がなされている。近所にあったら何も考えずボーッとしに訪れたくなるような場所で、とても居心地がよかった。
唯一無二の文化を育むジョンソンタウン
彩の森入間公園を出てけやき通りと463号線の交差点を渡り少し進むと、今日の最後の目的地『ジョンソンタウン』が見えてくる。白い壁の平屋住宅が並ぶ、周囲とは全く異なる雰囲気の街並みだ。
ジョンソンタウンの歴史は昭和13年(1938)、地元の磯野商会が所有する「磯野農園」の一部に建設された、陸軍航空士官学校の将校と下士官向けの住宅「磯野住宅」に遡る。敗戦後、陸軍航空士官学校は接収されジョンソン基地となり、1950年に朝鮮戦争が勃発するとGHQは民間に米軍ハウスを建設することを求める。
そこで磯野商会が24戸の米軍ハウスを建設し、「磯野住宅」時代の日本家屋と米軍ハウスが併存する時代がしばらく続いた。その後ジョンソン基地の縮小と撤退が始まると、日本人向けに貸し出されるようになるが、建物の老朽化や居住者の高齢化によって1980年代頃から徐々に荒廃し「スラム」と呼ばれるほど荒れ果ててしまう。
1996年に磯野商会の磯野達雄会長が管理を引き継ぐと、渡辺治建築都市設計事務所に協力を依頼、米軍ハウスを文化遺産として改修、保全し、新築の「平成ハウス」を加えて、統一された街並みを持つ「ジョンソンタウン」として再生された。近年は景観や雰囲気を味わうために訪れる人も多く、2015年には都市景観大賞、2017年には日本建築学会賞を受賞するなど注目されている。
ジョンソンタウンには多くの店舗と住宅が混在している。米軍ハウスを活用した街並みから「アメリカン」なお店ばかりなのかと想像するが、実際はエスニックカフェや米粉パン屋などさまざまな種類の店舗、施設があり、それぞれの居住者の個性が投影された独自の営みが感じられる街だ。
この日はジョンソンタウン内にある古書店『逍遥館』を訪れた。ご夫妻でお店を営まれており、夫の森下亮平さんはもともと神奈川で古書店を手伝っていて、いずれ店を開きたいと思い物件を探していたが、観光で訪れたジョンソンタウンが気に入り、たまたま空き物件があったのでその日のうちに決めてしまったという。この日取材で歩いていた時も、統一感のある街並みと落ち着いた雰囲気にはひかれるものがあり、即日決断してしまうという気持ちもわかる。
2008年に建てられた平成ハウスで、以前は花屋として営業していた建物を一部改修して利用しているそうだ。ジョンソンタウン内は住民やお店同士のつながりも多く、コロナ禍以前には頻繁にバーベキューなどの集まりがあったほどだという。妻の瑳希さんは、ここに来て7年が経つが、居住者も入れ替わりも多いため、もう「古株」かもしれないと話してくれた。
取材という名目で訪れておきながら、ただただ気になる本を探し4、5冊ほしいものを見つけるも、予備のカバンを持ってきていないことに気づき、泣く泣く2冊だけを購入した。
『逍遥館』を後にして、しばらくジョンソンタウン内を散策した後、『Mellow Food Cafe』に立ち寄った。
お店の横に停まった古いフォルクスワーゲンが特徴的なこちらのお店は、もともとジョンソンタウン内の別の場所で営業していたが、2021年に今の建物に移転してきた。隣は富士見公園で、店内から公園の自然を眺めることができる。店主の高橋みきえさんによると、ちょうどコロナ禍だったこともあり、半年ほどお店を閉めて大工である夫と共に改築を進めたという。前の居住者はミュージシャンで、自宅で録音作業なども行っていたようで(まるでHOSONO HOUSEだ)、カフェとして利用するためにより開放的な間取りに変えたそうだ。
改築する中で出てきた支柱などは、これまでの居住者が塗ったペンキなどがのまま残っていて絶妙なヴィンテージ感もあるため、そのままにしているというという。ジョンソンタウンの物件はある程度自分たちで好きに改築できるため、これまでの居住者が手を加えてきた痕跡が層のように保存されている。
ジョンソンタウンの米軍ハウスはオーナーの磯野さんの意思によって残されているが、他の地域のハウスは建材の違いなどもあり老朽化が進み次々と取り壊されていて、大工である高橋さんの夫がまだ利用できる建具などをレスキューしに行っているという。
お店のカウンターは福生の米軍ハウスから持ってきたものだそうだ。店内にはジョンソンタウンだけでなく、福生など他地域の米軍ハウスの歴史も詰まっている。
ジョンソンタウン全体に言えることだが、米軍ハウスを活用しつつも、必ずしも「アメリカン」な雰囲気を演出しようとしているわけではなく、居住者が自らのやりたいことを自由にできる場所としてジョンソンタウンを選び、それぞれのスタイルで生活を営んでいる。
磯野商会の磯野達雄さんは新聞記事のインタビューで「かつて米軍による占領を受けていたという歴史を消し去りたくなかった」と語っていた。土地の歴史を伝えることと現在の暮らしを快適にすること、その両方を可能にするための試みが、ジョンソンタウンの風景を形作っているのかもしれない。
取材・文・撮影=かつしかけいた
【参考文献・URL】
“狭山茶の歴史”.入間市博物館 アリット,https://www.alit.city.iruma.saitama.jp/070/040/020/20200101155000.html,(参照2026年4月13日).
“ジョンソン基地とハイドパーク展”.狭山市立博物館,https://www.city.sayama.saitama.jp/shisei/shisetsu/bunkashisetsu/hakubutsukan/index.files/4241103-4250114kiti.pdf,(参照2026年4月13日).
塚田修一 .『1970年代の米軍基地文化に関する一考察 : 「狭山アメリカ村」を中心に 』.『三田社会学』第22号,2017年7月,慶應大学学術情報リポジトリ,https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AA11358103-20170701-0099,(参照2026年4月13日).
“70年代ロックの震源地は狭山米軍ハウスだった!〝呼び屋〟麻田浩がこの街に返したかったもの(後編)”.ぼくのおじさん,https://www.mononcle.jp/column/interview/8908/,(参照2026年4月13日).
“【居住の夢】第3話・米軍ハウスと創造的なコミュニティが織りなす景観「ジョンソンタウン」”.渡辺治(渡辺治建築都市設計事務所),note,https://note.com/kenja/n/n730c857efe34,(参照2026年4月13日).
麻田浩 監修『狭山 HYDE PARK STORY 1971~2023』.TWO VIRGINS,2023年4月.
『JOHNSON TOWN Style』No.1~No.12,JOHNSON TOWN CLUB,2017~2019.
“【レコード聖地巡礼】細野晴臣『HOSONO HOUSE』名盤が生まれた狭山を探訪【ep.04】”YouTube.ELLA STORIES,https://www.youtube.com/watch?v=eVV5NQQ3onk,(参照2026年4月13日).
“入間川、霞川”.いるま歴史ガイド・旧石川組製糸西洋館と周辺の文化財,https://www.alit.city.iruma.saitama.jp/irumashiseiyoukan/irumagawa_kasumigawa/,(参照2026年4月13日).
“教会紹介”.武蔵豊岡教会,https://musashitoyooka.holy.jp/syo.htm,(参照2026年4月13日).
いるま歴史ガイド・旧石川組製糸西洋館と周辺の文化財,https://www.alit.city.iruma.saitama.jp/irumashiseiyoukan/,(参照2026年4月13日).
塚田修一.『フィクションとしての米軍基地文化--埼玉県入間市「ジョンソンタウン」を事例として--』.『紀要 社会学・社会情報学』.中央大学文学部,第30号,中央大学リポジトリ,https://chuo-u.repo.nii.ac.jp/records/13333,(参照2026年4月13日).
【PDF】占領された生活空間の記憶と忘却と創造的破壊 米軍ハウスの比較を事例に 小塩 和人http://ffs.sophia.ac.jp/wp/wp-content/uploads/2025/03/59afde3198f87ff52cf6ffd65547b22c-1.pdf,(参照2026年4月13日).
“「ここはアメリカ?」ジョンソンタウンとは旧米軍居住地が観光スポットに”.埼玉・入間147NEWS (よんななニュース),https://www.47news.jp/13397995.html,(参照2026年4月13日).








