中華街から出発。三渓園の先にあったもの
横浜駅からみなとみらい線に乗り「元町・中華街駅」で降りる。午前9時前ということもあり、中華街の人通りもまだ少なく静かだ。
1番出口を出て、バス停「中華街入口」から008系統「本牧車庫前」行きに乗る。三溪園までは20分ほどだ。私と担当編集者さん以外には2、3人しか乗っていない。バスは本町通りを東へ進む。中村川に架かる山下橋を渡ると、頭上を走る首都高の高架と、左手に一瞬山下埠頭が見えた。途中で徐々に増えてきた乗客は、バスが「みなと赤十字病院入口」に着くとどっと降りた。
バスは「港のみえる丘公園」の下に位置する新山下を通り抜け、小港橋交差点を右に曲がり、山手警察署前で本牧通りに出る。かつて「マイカル本牧」として開業した「イオン本牧店」を過ぎ、しばらく進んで左に曲がると本牧桜道に入る。落ち着いた住宅地を抜け、八王子道路を左折すると「三溪園入口」だ。バス停の名前は「三溪園入口」だが、実際の入り口まではあと300mほどある。
バス停から再び本牧桜道の交差点まで戻り、左に曲がってそのまましばらく歩くとようやく三溪園の入り口が見えてくる。取材の日はちょうど蓮の開花シーズンで、週末の早朝には「観蓮会」も開かれているようだった。
受付を過ぎると、すぐ右手に蓮池が広がっている。見頃の時間帯は過ぎてしまったようだが、開花した蓮を十分に見ることができた。三溪園のウェブサイトによると「三溪園に生育している蓮は主に原始蓮で、背丈が高く繁殖力の強い品種です」とある。確かに、先日霞ヶ浦総合公園で見た蓮よりも背が高く、人の目線に近い位置で花が咲いている。
蓮池の反対側には「大池」が広がり、その向こうの小高い山の上には「旧燈明寺三重塔」がそびえる。三溪園を描いた絵や、絵葉書などで見た風景だ。
蓮池を過ぎ、右手の小道を入ったところに「鶴翔閣」が立つ。明治35年(1902)に原三溪が自らの住まいとして建てたもので、三溪園の造成はここから始まったと言われる。震災、戦災を経て改築されていたが、2000年の修復工事により当初の姿に戻された。
再び大池に沿って歩き、睡蓮池を右に曲がると「内苑」と呼ばれる原三溪の私邸として利用していたエリアが広がる。御門は京都平安神宮近くの西方寺にあった門を移築したもので、これより奥の内苑は戦後まで一般に公開されていなかったという。
御門をくぐり内苑に入ると、右手には三溪が隠居所として建てた「白雲邸」の塀が続き、正面に「臨春閣」の玄関棟が見える。臨春閣は慶安4年(1649)に現在の和歌山県岩出市に建てられた紀州徳川家の別荘「巌出御殿」と考えられた建物で、その後大阪市此花区に移されていたものを原三溪が譲り受け、大正6年(1917)に移築が完了した。移築の際に建物の配置が変更されたが、内部は元の状態を残していて、数寄屋風書院造りの意匠などを見ることができる。
建築家の藤森照信氏は『日本建築集中講義』の中で「臨春閣は、桂離宮と並ぶ数寄屋の代表作ですから」「数寄屋の宝庫という点では東の『桂離宮』といえるでしょうね」と話しており、三溪園で見ることのできる古建築の中でもとりわけ貴重なもののようだ。
第三屋に向かう途中、園内を流れる渓流に架かった「亭榭」を渡る。三溪が京都高台寺の観月台を参考に作ったとされ、檜皮葺(ひわだぶき)四方唐破風の屋根が特徴的だ。檜皮葺の屋根は2024年の工事で新しく葺き替えられ、瓦棟(かわらむね)も大正時代の創建当時の姿に復元された。
亭榭を渡る手前には旧天瑞寺寿塔覆堂が立つ。1905年、最初に内苑に移築された古建築で、豊臣秀吉が京都の大徳寺に母・大政所の長寿を祈って建てた寿塔(生前墓)を納めるための建物とされる。扉の彫刻などの装飾も見所だ。
本牧三之谷の丘陵と谷戸を利用して造成された園内は、大池を三つの丘が挟み込むよ うな地形をしている。亭榭を再び渡り、正面の階段を上ると、月華殿、金毛窟、天授 院が立つ 高台へと至る。臨春閣の立つあたりとは 10m ほどの高低差があ り、先ほどまでいた亭榭が眼下に見える。
渓流のほとりに立つ聴秋閣は元和9年(1623)に京都の二条城内に建てられ、大正11年(1922)に三溪園に移築された。藤森照信氏が建設通信新聞のインタビューで「御座船という大名や将軍が乗る屋形船があるが、建物を見た時そのような船を意識したのだというのは本当だったのだと思った」と話す通り川に浮かぶ船のようにも見える。
海岸門を通り、内苑を出る。園内を散策していると、猫の姿を何度か見かけた。人に慣れている様子で、こちらが思わず「あ、猫」と言うと「ニャー」と鳴きかえしてく れた。
続いて外苑にある松風閣の展望台を目指す。海岸門を出た先にある高台への階段を上ると、途中に松風閣について書かれた説明板があり、手すりの向こうに 建物壁や土台のようなものが残っている。
松風閣は原家の初代・善三郎が 1880 年代末(明治 20 年)頃に築いた別荘の建物で、 伊藤博文による命名とされている。三溪の代になると、大正 5 年(1916) にイン ドの詩人タゴールが訪れるなど、重要な客をもてなす場所として使われたが、大正 12 年(1923) の関東大震災で建物は失われた。
現在の松風閣(展望台)は1964年に建てられたものだ。テーブルと椅子が設置されていて、高台からの景色を見ながら休憩もできる場所となっている。
展望台からは目の前の首都高湾岸線とENEOS根岸製油所、磯子の火力発電所越しに、遠くは三浦半島、房総半島まで見わたすことができる。崖の上にあるため地面からの距離も一層遠く、より開放感と見通しの良さを感じられる。
平日の午前中だったが、ビジネス向けのフォーマルな格好をした人が佇んでいて、勝手な憶測はつつしみたいものの、ちょっと一人になりたい時に訪れるにはぴったりの場所かも知れないと思った。
首都高と石油コンビナート、発電所など、非常に工業的な風景が広がっているにもかかわらず、展望台から見えるパノラマの印象はむしろ静かで穏やかだ。石油のタンクも、遠くの煙突やクレーンも、その間から見える三浦半島の丘陵も、いつまでも眺めていられる。原三溪が計画していなかった、三溪園からの眺望だ。
今度は展望台の階段を下り、旧燈明寺三重塔へ向かう。旧燈明寺三重塔は1457年、室町時代の康正3年に建てられた園内で最も古い建造物だ。大正3年(1914)に京都・木津川の燈明寺から移築された。先ほどの展望台ほどの高さではないが、三重塔もやはり高いところから三溪園全体を見晴らすように立っている。
三重塔の脇に回ると、木々の隙間から園内の大池と、その向こうの本牧の住宅地が見える。人によって建てられた木造の塔が500年以上もの間、場所を移しながらも周囲の風景の変遷を見てきた。そう考えると、自分の生きている間に見られる街の変化など、わずかなものでしかないのだなと思う。
ちなみに旧燈明寺三重塔は2027年4月から大規模修繕工事が行われるため、しばらくは素屋根で囲われて見ることができなくなってしまうようだ。
鎌田友介展では、三溪が幼い頃から南画(中国の南宗画を日本的に解釈した絵画)に親しんでいたことから、山水画のように俯瞰的な視点から近景、中景、遠景を画面に再配置する構造が三溪園の作庭にも影響したのではないかと推察していた。
そのようにして見ると、三重塔をわざわざ園内の高台に移築したのも、地形の高低差を利用して遠景のアクセントとして機能させるためだったのだろう。『日本建築集中講義』の藤森照信氏の話では「臨春閣の二階から月を眺めると、月がちょうど三重塔の上に出るように造られた」とあり、緻密な設計のもとに園内の風景が造られたことがわかる。
一方で、周囲の環境はおそらく原三溪が想像もしていなかったほどに変わった。三溪による精緻な作庭だけでなく、展望台から見える埋め立て地のような三溪の想像を超える風景もまた、現在の三溪園を訪れる楽しみの一つのように思える。
今回は時間の都合で内苑を中心に回ったため、外苑は松風閣展望台と三重塔以外ほとんど見ることができなかった。秋や春など、また違う季節に訪れてみたい。
展望台を下り、南門から三溪園を出る。南門を抜けると左手に「上海横浜友好園」の特徴的な建物が目に入る。上海横浜友好園は中国江南様式の庭園と建築からなる公園で、上海横浜友好都市提携15周年、横浜市政100周年、開港130周年を記念して1989年に上海市から寄贈された。老朽化と安全性確保のため閉鎖されていたが、耐震補強やバリアフリーなどの改修工事を経て2021年にリニューアルオープンした。横浜と中国の歴史的なつながりを感じられる場所は、中華街に限らない。
上海横浜友好園から先ほどまでいた三溪園の方を見ると、高さにして20〜30mはあろうかという崖がそびえている。波で侵食された海食崖で、地層の上部は下末吉ローム層、下部は上総層群、下星川層からなる。1950年代末に根岸湾の埋め立てが始まるまで、この崖の下には海が広がり、海水浴に訪れる人でにぎわっていたという。横浜都市発展記念館のウェブサイトや、「まちの記憶〜風土アーカイブズ」などで当時の本牧海岸の様子を伝える写真を見ることができる。
本牧から根岸へ。晴れた午後に坂を上って
三溪園のある本牧からバスで根岸に向かう。根岸駅につくと、ロータリーの前に「記念碑」と書かれた大きな碑が立っている。その横には「磯子区の海岸線の変化」が地図で示された碑が並ぶ。記念碑は根岸湾漁業協同組合によるもので、漁場を失った漁師たちのさまざまな思いが込められている。先ほど展望台から見た埋め立て地のパノラマは、根岸湾の漁業が失われることと引き換えにできた風景だった。
根岸駅から中通りに出て、本牧方面に戻るように東へ進む。横浜駅根岸道路にぶつかったところで左に折れると、正面に急な階段がそびえている。この階段の上に白滝不動尊があり、階段脇の「不動滝」と呼ばれる滝からは水がちょろちょろと流れている。
説明板によると不動尊は境内の懸崖の中程にあった井戸から出現したという伝説があり、信仰は房総・三浦まで広がり、明治中頃まで参詣の人々でにぎわっていたという。不動滝は「市内で最も見事な飛瀑」と呼ばれていたが、丘陵開発によって水源を失い、今は一筋の水がその名残をとどめるのみとある。
不動尊をお参りして、根岸森林公園へ続く不動坂を上る。『磯子の史話』によると、横浜開港後、生麦事件など外国人の殺傷事件がたびたび起こったため、外国の公使たちが居留民が安全に歩ける遊歩道を整備するよう幕府に求めた。その時に整備された遊歩道の一部が不動坂だという。根岸湾が一望できる坂は「ミシシッピ坂」と呼ばれ、馬車や馬に乗った外国人たちが足を止めてその景色を眺めていたそうだ。
歩行者が歩けるスペースが少ないため、車の往来に注意しながら坂を上る。この日は湿気はそれほどなかったものの日差しが強く、日傘を指していてもアスファルトの照り返しでとにかく暑い。こんな炎天下の取材に同行させてしまって申し訳ないなと思いながら後方の担当編集者さんを振り返ると、「私夏に強いので」と言って涼しい顔をしており、唖然とする。私のタオルはすでに汗でぐっしょりだ。
さらに坂を上ると右手にレストラン『ドルフィン』が見えてくる。松任谷由美(荒井由美)の曲「海を見ていた午後」に登場する場所として有名だが、この店の最初の経営者が「少年ケニヤ」で知られる絵物語作家の山川惣治だったことも、漫画家としては気になるところだ。ソーダ水を飲んで休憩するにはぴったりの気候だったが、残念ながら時間の関係で立ち寄る余裕がないため、そのまま通り過ぎる。
不動坂を上り切ったところに「FIRE STATION No.05」と書かれた建物が見える。在日米海軍司令部統合消防隊第5消防署だ。米軍根岸住宅の地区内に設置された消防署で、2015年に米軍関係居住者が退去した後も警備などのために存続していた。2026年6月30日に同地区の全面返還が完了したが、消防署も2月には閉鎖されていたようだ。シャッターも閉まっていて、建物もやがて取り壊されるのだろうか。
近代競馬の遺構も抱く根岸森林公園
消防署の前を通り過ぎ、ようやく根岸森林公園に到着した。公園入口近くのレストハウスに立ち寄り、水分補給をする。レストハウスから眺める公園の緑が鮮やかだ。
三溪園でも感じたが、地面がアスファルトでないだけで照り返しによる熱が少なく、体感の気温がぐっと下がる。森林公園内の芝生を歩いていても、不動坂を上る時の茹だるような暑さと比べると、嘘のように過ごしやすい。芝生の上で遊ぶ子供やシートを広げてピクニックをしている人を見かけたが、確かに芝生の上であれば暑さもそれほど気にならないかも知れない。
芝生の中を進み、道を挟んで隣接するドーナツ広場に向かう。ドーナツ広場の入り口脇にフェンスで閉ざされた門があり「COMMANDER FLEET ACTIVITIES YOKOSUKA YOKOHAMA DETACHMENT」の文字が見える。旧米軍根岸住宅地区の入り口の一つだったのだろう。全面返還が済んだばかりで、奥に建物は見えるが人の気配はない。
円形のドーナツ広場に沿って歩くと、正面に旧根岸競馬場一等馬見所が見えてくる。長らく「廃墟」としても有名な建物だったが、2025年に横浜市認定歴史建造物に指定され、今後保存活用が進められるという。旧根岸競馬場一等馬見所のデジタルアーカイブページでは建物内部のバーチャルツアーも可能だ。
横浜にある外国人墓地を辿る
根岸競馬場を後に、公園北側の蓑沢の住宅地をしばらく歩くと、突然中華風の門が現れる。「中華義荘」と呼ばれる華人、華僑の人々の共同墓地だ。横浜の外国人墓地というと山手が有名だが、その他にも根岸外国人墓地、保土ヶ谷の英連邦戦没者墓地、中華義荘の4つが市内にある。
山手の外国人墓地から分離して専用の区画を持ったのが始まりで、当初は棺を中国の故郷に送還するまでの仮の埋葬場所だったが、時代とともに横浜を故郷とする人が増え、永眠の場所として整備されるようになったという。墓地の奥には関東大震災で亡くなった人たちを供養する記念碑も立つというが、この日は墓地の方までは入らず、手前の廟のみ見学することにした。
入り口の門をくぐり階段を上った先に「地蔵王廟」がある。明治15年(1892)に建てられた横浜最古の煉瓦造建築で、横浜市の有形文化財に指定されている。口の字型に中庭を廟建築が取り囲む様式は広東省や台湾で多くみられるという。
中華義荘から横浜市内にあるもう一つの外国人墓地、根岸外国人墓地へ向かう。
実は事前にルートを検討した際、中華義荘の南西にある根岸共同墓地の方を根岸外国人墓地だと勘違いしてしまい、現地でいくら歩いてもそれらしい場所が見当たらず、同じ道を行ったり来たりしていた。マップであらためて検索したところ、現在地より1kmほど東に行ったJR山手駅近くにピンがたち、そこでようやく勘違いしていたことに気づき、大慌てで近くのシェアサイクルを借りて移動、なんとか予定の時間にそれほど遅れることなく着くことができた。思い込みは怖い。確認大事。
墓地の入り口近くには、山手ライオンズクラブによる慰霊碑が立つ。その他にも昭和17年(1942)に横浜で起きたドイツ軍艦爆発事故の犠牲者を悼む慰霊碑や、関東大震災で亡くなった外国人を慰霊する外国人震災慰霊碑が墓地内に立っている。
横浜在住の作家・山崎洋子さんの『女たちのアンダーグラウンド 戦後横浜の光と闇』には、根岸外国人墓地の一角には、終戦からの数年間にアメリカ人と日本人女性との間に生まれた嬰児たちが800人余りも埋葬されたと書かれている。私がここを訪れようと思ったのも、山崎さんの本を読み、墓地に眠る人たちのことが気になったからだった。
墓地ということもあり、敷地内をやたらに撮影する気持ちにはなれず、慰霊碑に手を合わせたあとは、ただ静かに歩いて回った。墓地内は高さの異なる3段からなっていて、階段で3段目の区画まで上ると、隣接する横浜市立仲尾台中学校の校舎から、吹奏楽部の練習だろうか、楽器を奏でる音が聞こえてきた。しばらくその音に耳を澄ませた後、入ってきた門を閉めて山手駅へと向かった。
掘割川を渡り、横浜市電の歴史を知る
JR山手駅から根岸駅に一駅移動し、駅近くからシェアサイクルを利用して横浜市電保存館へ向かう。掘割川を渡り、しばらく北へ進むと市営住宅の建物が見えてくる。その1階部分にあるのが横浜市電保存館だ。
保存館に着き入り口のゲートをくぐると、左手に「残された横浜市電最後のポール」が保存されている。説明板によると、昭和3年(1928)に横浜市電生麦線開業時に建てられた架線用のポールで、神奈川新町の国道15号線の歩道上に残っていたものの、道路整備で撤去されることになり、保存館に移設されたという。ポールの下部には穴が空いているが、昭和20年(1945)5月29日の横浜大空襲で被弾した跡だとされる。戦争の跡は、気づかなければ通り過ぎてしまうようなところにも残っていた。
館内に入り、エントランスを抜けて車両展示コーナーへと進む。クラシックなたたずまいの車両が年代ごとにずらっと並ぶ光景は、なかなか貴重で、壮観だ。しかも全ての車両が内部まで見学可能で、当時の乗客と同じようにシートに座ることもできる。車両の他に線路や敷石、停留所まで再現されていて、市電が営業していた頃の雰囲気を感じられるような工夫がなされている。
シートはまるで阪急電車くらいフカフカで、車内の床もピカピカで綺麗だが、それらの部分は展示のために改装されたもののようだ。
横浜における路面電車の歴史は、横浜電気鉄道という私鉄として明治37年(1904)に開業したことに始まる。大正10年(1921)に横浜市が横浜電気鉄道を買収し「市電」として運営を担うようになった。その後1972年に廃止されるまでの約70年間、横浜市民の足として活躍した。
大正12年(1923)の関東大震災で車両の半数を失うが、復興事業の区画整理や街路の整備に合わせて線路の改良が進み、郊外へと路線を延ばした結果、市電の路線網は震災前の二倍以上に拡大する。
戦時中は軍事施設への動員による輸送が増加したため、急行運転の導入や工場の多い鶴見方面への延伸などが行われた。この時期が一番利用者で混み合っていたそうだ。昭和20年(1945)の横浜大空襲により車両の4分の1を消失するも、終戦後は急いで復旧が進められ、1947年までに順次運転を再開。1954年から56年にかけては根岸線や井土ヶ谷線など新路線が開通した。
昭和30年代に市電の規模は最大となるが、高度経済成長が進むにつれ、自動車の増加や市街地の拡大によって低速の市電が都市交通の役割を果たすことが難しくなってくる。国鉄(JR)、私鉄(京急、東急、相鉄)が交通の主役となり、市営地下鉄の建設も進み、次第に路面電車の線路は道路から撤去されていく。1966年に市電の廃止が決定され、1972年には横浜の街から完全に姿を消すこととなった。
横浜市電保存館は市電廃止の翌年1973年、滝頭車両工場跡地に開館し、1983年に現在の市営住宅1階に建て直された。その名前から、車両を保存するためだけの場所のように思ってしまうが、横浜の発展と交通にまつわる展示コーナーや、ジオラマまであり、子供から大人まで楽しめる施設になっている。
私たちが訪れたのは閉館間際のタイミングだったのだが、親子連れや電車好きと思われる若者たちでにぎわっており、それぞれ興味深そうに展示を見ていた。
車両展示コーナーを抜けた先の歴史展示コーナーでは、都市横浜の成り立ちとともに、市電を中心とした横浜の都市交通のあゆみを学ぶことができる。開港や吉田新田開墾といった、都市横浜の成り立ちから説明が始まっていて、まるで郷土博物館のような密度の展示だ。
市電保存館を後にして、再び堀割川に沿って南に向かう。堀割川は中村川を分派し、磯子区北部を根岸湾に向かって流れる人工河川で、明治3年(1870)に着工、明治7年(1874)に完成した。明治から昭和にかけて舟運路として利用され、川沿いには造船所や工場が並びにぎわったという。
横浜開港資料館のYouTubeチャンネルに船で巡りながら堀割川の歴史を解説する動画があり、実際の風景を見ながら説明されていてとてもわかりやすい。
現在も川沿いには近代の土木遺構が点在し、石積みの護岸や荷揚げ場、震災復興橋梁の親柱などが残っている。川沿いは車の往来が激しく、あまり近づいて写真を撮ることができなかったが、ヘルムドック(船舶修理工場)へ続く水路の跡と、その上に架かる矢倉橋を見ることができた。
また、取材前に堀割川周辺を地図で見ていたところ、市電保存館から北に1kmほど行った青龍山寶生寺に「関東大震災 韓国人慰霊碑」という碑があることに気づいた。碑が建立されるまでの経緯については『それは丘の上から始まった 1923年 横浜の朝鮮人・中国人虐殺』(後藤周著、加藤直樹編集、ころから刊)に詳しい。残念ながら今回は時間の都合でそこまで足を延ばせなかったのだが、いつか訪れてみたい。
堀割川の両岸を移動していると、「〇〇疎開道路」と名の付く道路がいくつかあることに気づく。第二次大戦中、都市機能の防護と延焼を防ぐために、建築物を除去して道を拡張する「建物疎開」が行われた。この辺りの疎開道路もそうした経緯によるものだろう。
現在堀割川周辺には「磯子橋通疎開道路」「根岸疎開道路」「坂下疎開道路」「滝頭疎開道路」「疎開道路」の5つの疎開道路が残っているが、現代の住宅地としてはそれほど広い道にも見えず、その名前がなければ戦争に関連する歴史のある道だとわからないかもしれない。
磯子・海の見える公園から根岸飛行場跡へ
JR根岸線・京浜東北線、首都高湾岸線の高架をくぐり、堀割川河口へ向かう。河口には横浜市民ヨットハーバーがあり、停泊する船が見える。
根岸湾に面した磯子第二ポンプ場の屋上に、磯子・海の見える公園がある。高台から根岸湾を眺めることができるが、三溪園の展望台からの眺望を経験しているため、驚きが少し薄まってしまった。
公園の前の海に面した道では釣りをする人たちもいて、中には小学生くらいの子供たちだけで来ているグループもあって、根掛かりしたのか、釣り糸としばらく格闘していた。
公園から根岸駅へ戻る途中、中通りの交差点「プールセンター入口」の角に説明板のようなものが設置されていた。植物に覆われてしまい読みづらいが「根岸飛行場跡」と書かれている。
それによると1940年、この場所に大日本航空株式会社によって日本初の飛行艇専用飛行場が作られ、当時日本の委任統治領だったサイパン経由パラオへの定期路線が終戦まで続いたという。戦後は米軍に接収され、現在はプールセンターや根岸中学校、根岸線、工場地帯の用地の一部となっている。
根岸湾の旧海岸線を歩きつつ、埋め立てによって変貌した風景や、戦争によって被った街や人々の変化に触れる取材になった。空襲で失われた市電の車両、パラオへと飛びたつ飛行艇、米軍兵士と日本人女性の間に生まれた子供たち、2026年にようやく全面返還された根岸住宅地区。何が終わり何が続いているのか、そんなことをぐるぐると考えながら、石川町で下り、次回以降の取材の打ち合わせのため、たまたま目に入った中国茶の店に入った。
店内では店員さんと常連のお客さんと思しき人が中国語で談笑していた。メニューには様々な種類の中国茶がありどれもおいしそうだったが、流石にこの気候で熱いお茶を飲む気分にはなれず、冷たいお茶からピーチウーロン茶を頼んだ。割と新しいお店のようだが、このお店も、中華義荘から続く中華街の歴史の一部をなしている。
起伏の多い地形があり、埋め立て地や水路があり、港町として多様な人々が行き交い、震災、空襲、占領を経た横浜は、そこかしこに歴史の痕跡をとどめていて、歩くほどに興味をかき立てられる。取材が終わったばかりにもかかわらず、今後も繰り返し横浜を訪れたいと担当編集者さんに話していた。
“三渓園”.文化遺産オンライン,https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/140304 ,(2026年9月16日参照).
“レファレンス事例詳細”.レファレンス協同データベース,https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000245318,(2026年9月16日参照).
“【記念シリーズ・横浜市公共建築】第31回 三溪園/建築史家・建築家・東京都江戸東京博物館館長 藤森照信氏に聞く”.建設通信新聞,https://www.kensetsunews.com/web-kan/734872,(2026年9月16日参照).
“【特集】建築史家・建築家藤森照信氏に聞く三溪園その魅力(臨春閣・聴秋閣)”.You tube,https://youtu.be/qai_XUkjxX4?si=LlZVTexd1yZmw0hT,(2026年9月16日参照).
藤森照信・山口晃著『日本建築集中講義』(kindle版)淡交社.2013年7月.
竹田道太郎著.『近代日本画を育てた豪商原三溪』,有隣堂新書,1977年12月.
“地質観察旅行記:三渓園付近の海食崖”.note.https://note.com/rb_79k_ball/n/n8dbe70dcea68,(2026年9月16日参照).
“横浜・本牧の地層”.みりんの動画素材.https://miirriin.com/strata-honmoku/,(2026年9月16日参照).
“本牧 気まぐれ歴史散歩 87 『保土ケ谷礫層』”.タウンニュース.https://www.townnews.co.jp/0113/2025/02/06/771233.html,(2026年9月16日参照).
“埋め立て前の海岸線の位置は!?”.はまれぽ,https://hamarepo.com/story.php?page_no=0&story_id=3027&from=,(2026年9月16日参照).
横浜市港湾局臨海開発部 編.『横浜の埋立』.横浜市港湾局臨海開発部.1992年3月. 国立国会図書館デジタルコレクション, https://dl.ndl.go.jp/pid/13110175 ,(2026年9月16日参照).
磯子区制50周年記念事業委員会「磯子の史話」出版部会 編.『磯子の史話』,磯子区制50周年記念事業委員会「磯子の史話」出版部会,1978年6月. 国立国会図書館デジタルコレクション, https://dl.ndl.go.jp/pid/9522682 ,(2026年9月16日参照).
“船乗り達のみちしるべ”.明和海運株式会社,https://www.meiwakaiun.com/closeup/closeup/vol-23-%E6%A0%B9%E5%B2%B8%E3%81%AD%E3%81%8D%E3%81%97/,(2026年9月16日参照).
“「ドルフィン」をつくった男 /中村圭子”.Web版 有鄰 第582号,https://www.yurindo.co.jp/yurin/article/582/3,(2026年9月16日参照).
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“根岸外国人墓地(横浜市中区仲尾台)”.神奈川県公式ホームページ,https://www.pref.kanagawa.jp/docs/j8g/100th/ikou/03.html,(2026年9月16日参照).
“[座談会]横浜の外国人墓地-山手・根岸・中華義荘・英連邦戦没者-斎藤多喜夫・伊藤泉美・樋口詩生”. Web版有鄰 第501号,https://www.yurindo.co.jp/yurin/article/501/2,(2026年9月16日参照).
田村泰治「もう一つの横浜外人墓地ー市営根岸外国人墓地に関する考察ー」,神奈川県立図書館企画サービス部地域情報課 編『郷土神奈川』(19),神奈川県立図書館,1986年11月. 国立国会図書館デジタルコレクション,https://dl.ndl.go.jp/pid/7946836/1/21,(2026年9月16日参照).
O.M.プール 著ほか. 『古き横浜の壊滅 : アメリカ人の震災体験』,有隣堂,1976年. 国立国会図書館デジタルコレクション, https://dl.ndl.go.jp/pid/9582614,(2026年9月16日参照).
山崎洋子著.『天使はブルースを歌う横浜アウトサイド・ストーリー』 亜紀書房,2019年4月.
山崎洋子著.『女たちのアンダーグラウンド 戦後横浜の光と闇』 亜紀書房,2019年4月.
“歴史に消えた存在伝える山崎洋子さん著書を語る”.タウンニュース,https://www.townnews.co.jp/0110/2019/08/15/493165.html,(2026年9月16日参照).
“GIベビー案内板、市が削除し書き換え 横浜・根岸外国人墓地”.カナロコ,https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-63508.html,(2026年9月16日参照).
“白い十字架にまつわる都市伝説”.はまれぽ,https://hamarepo.com/story.php?story_id=825,(2026年9月16日参照).
“掘割川の紹介”.横浜市磯子区,https://www.city.yokohama.lg.jp/isogo/kurashi/machizukuri_kankyo/machizukuri/horiwari.html,(2026年9月16日参照).
“神奈川県 港南台・磯子・金沢”.三井住友トラスト不動産,https://smtrc.jp/town-archives/city/konandai/p03.html,(2026年9月16日参照).
“横浜市における建物疎開の実態に関する研究”.J-STAGE,https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalcpij/49/3/49_1041/_article/-char/ja/,(2026年9月16日参照).
“根岸に残る疎開道路”.はまれぽ,https://hamarepo.com/story.php?page_no=0&story_id=601&from=,(2026年9月16日参照).
“根岸の疎開道路(横浜市磯子区)”.戦跡紀行ネット-日本の近代と慰霊の地を巡る,https://senseki-kikou.net/?p=50672,(2026年9月16日参照).
“施設の有効利用”.横浜市公式ホームページ,https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/machizukuri-kankyo/kasen-gesuido/gesuido/center/saisei_center/nanbu/yuukouriyou.html,(2026年9月16日参照).
“神奈川県 港南台・磯子・金沢”.三井住友トラスト不動産公式ホームページ,https://smtrc.jp/town-archives/city/konandai/p05.html,(2026年9月16日参照).
“特攻隊員の移動も行っていた”.はまれぽ,https://hamarepo.com/story.php?page_no=2&story_id=1368,(2026年9月16日参照).
田中常義「市営埋立て事始め : 『子安・生麦地先』埋立て(恵比須・宝・大黒町)と、『本牧・根岸地先』(根岸湾臨海工業地帯)の計画から具体化への変遷」『調査季報』(98),横浜市. 国立国会図書館デジタルコレクション, https://dl.ndl.go.jp/pid/10305827 ,(2026年9月16日参照).







