グッモー! 井上順です。
2023年に放送されたNHK連続テレビ小説『らんまん』。みなさん、僕が出演した場面を覚えているかなあ? 僕は「弘法湯の主人・佐藤」という役で出演したのだが、佐藤豊さんは、その役のモデルとなった人物の曾孫にあたる方なのだ。佐藤さんは写真家として活動する傍ら1985年、弘法湯跡地に『カフェ・ド・ラ・フォンテーヌ』を開き、今も街の人々に憩いの場を提供している。
朝ドラ『らんまん』に渋谷の顔役として登場した「弘法湯の主人」
朝ドラ『らんまん』は「日本の植物学の父」といわれる植物学者・牧野富太郎をモデルにしたオリジナルドラマ。主人公・槙野万太郎の研究を支えるため、妻の寿恵子は渋谷で「待合(まちあい)」を開こうとする。
「実は、事前に脚本家の方が私のところに話を聞きに来たんです。実際に牧野富太郎の奥さんが渋谷で待合をやっていたそうなのですが、詳しいことはまったくわからないということで、当時(明治時代)の渋谷の様子や時代背景などを詳しくお話ししました」と佐藤さん。
僕が『らんまん』に登場したのは、浜辺美波さん演じる寿恵子さんが渋谷の街の顔役である弘法湯の主人・佐藤らを座敷に呼んで待合を開く決意を伝える場面。
NHKの方から「渋谷に住む順さんにピッタリの役ですよ」とお話をいただいて、お役に立てるならうれしいなと思い引き受けた。佐藤さんにはぜひドラマの感想を聞いてみたいと思っていたのだ。
「うちの曽祖父を誰が演じるのかは知らなかったので、テレビで見てビックリしましたよ。あ、順さんだ!って(笑)。NHKとしても地元渋谷のPRにもなるし、力を入れていたのではないでしょうか」
弘法湯は、その名の通り弘法大師(空海)ゆかりの湯。神泉にはかつて豊富な湧水があり、空鉢仙人ゆかりの霊泉として「神泉水」と呼ばれていた。それがいつしか弘法大師の開湯伝説とも結びつけられるようになり、湯治場として有名に。もともと村が共同で浴場を運営していたのだが、地域からの要望で明治18年(1885)に佐藤豊さんの曽祖父、豊蔵さんが経営権を買い取り営業することになったそうだ。
道玄坂上の交番から右に入った滝坂道(たきさかみち/今の裏渋谷通り)は、江戸時代から大山(おおやま)街道の一部で、旅人が多く行き交う道だった。
「『らんまん』の渋谷の場面でも、後ろのほうで白装束の人たちが歩いているんですが、あれは大山講や富士講(大山や富士山を神聖な山として崇拝する江戸時代から流行していた民間信仰)で大山や富士山に行く人たち。お詣りの行き帰りに弘法湯に立ち寄る人も多かったようです」
「弘法湯」から始まった円山花街
『らんまん』で驚いたのは、当時の渋谷が本当に何もない田舎だったということ。
江戸時代には今の明治通りが江戸市中と郊外を分ける朱引線(境界)だったので、外側は完全に郊外。寿恵子が渋谷をはじめて訪れたのは明治30年(1897)だが、そのころでも東京で繁華街といえば浅草や日本橋、銀座あたりで、渋谷はまだまだ廃屋や雑木林の広がる寂れた地域だった。
そんな渋谷が、弘法湯をきっかけににぎわうようになったという。何があったのだろう。
「明治18年(1885)に、曽祖父が弘法湯の敷地内の池を活用して『神泉館』という料理旅館をつくりました。弘法湯に併設する形で、当初は『身近な箱根』といった感じの保養施設をつくるつもりだったのですが、それが時代の流れのなかで渋谷周辺に軍事施設が多くできることなり大繁盛することになります」
「当初、宴会などができる施設が渋谷付近では神泉館しかなかったので、それに目をつけた人が待合(芸妓を呼んで宴会や会合をするための小規模な貸席)をつくったんです」
『らんまん』の寿恵子さんがやっていたのも待合だから貸席。料理人はおらず、仕出し屋から仕出しをとる形式だ。
料亭は専属の料理人、板前さんがいて料理がセットで決まっているのに対して、待合なら客の好みに合わせて料理を頼める点で、手頃で使い勝手がよかったところがあった。
「また、当初、芸者さんは赤坂あたりから派遣で来てもらっていたのですが、だんだんと待合などが増えてきたことにより『置屋(おきや)』を開業する人が出てきました。置屋とは、芸者や舞妓を抱えてお座敷へ派遣する、今でいう小さな芸能プロダクションみたいなものです」
明治42年(1909)には、現在の代々木公園やNHKのあたりに大規模な陸軍の訓練施設「代々木練兵場」ができたこともあり、将校たちの遊び場、接待の場として円山はみるみるうちににぎやかな場所になっていった。料亭や待合、置屋もどんどん増えて、一大花街に発展していった。
それとともに道玄坂もにぎわい始める。明治時代後半から昭和の戦中まで、道玄坂は渋谷で一番の繁華街だった。
「道玄坂には時計屋、眼鏡屋、紳士洋品店、呉服屋など高級店が両側にずらりと並んでいました。円山に遊びに来る旦那衆は自分たちもおしゃれだし、ひいきの芸者さんにも高級品を買ってあげるんですよ。私の母方の実家も道玄坂で呉服屋をやっていました」
大正時代にはすでに、円山花街には料亭36軒、待合96軒、置屋137軒あり、400人以上の芸者さんがいたそうだ。
「ところで、ひとつ訂正しておきたいのは、『円山花街』とよく言われますが、実はこのあたりが円山町という町名になったのは昭和7年(1932)になってからのこと。それまでは『神泉花街』と呼ばれていたんです」
佐藤さんは、國學院大學の地域研究プロジェクト「渋谷学」に写真家・郷土史研究家として参画し、渋谷の旧町名の調査なども行ってきた。
今の円山町にあたる一帯は、江戸時代に佐賀藩鍋島家の執事であった荒木氏が所有していたことから「荒木山」という通称で呼ばれていたのだが、昭和に入り花街らしい名前にしようと円山の地名が定められたらしい。丸みを帯びた丘の地形が由来とも、また、京都祇園近くの円山や長崎の丸山遊郭にちなんでつけられたともいわれているが、詳細は不明だという。
渋谷は「粋な大人の遊び場」だった
神泉館は戦時中の空襲で焼失してしまったそうだが、弘法湯はこのあたりで一番大きな銭湯として戦後も営業が続いた。
「戦後、私たちが子供のころでも円山には100人以上の芸者さんがいました。弘法湯が開くのは午後3時。いつも3時前には入り口に芸者さんたちがみんな桶を持って頭にはスカーフみたいなの巻いて並んでいたのを覚えています。お風呂に入ったあとは、みんな髪結いさんのところに行くんです」
僕も子供ながらに円山には独特の雰囲気を感じていた。色っぽい芸者さんが歩いていたり、見番から芸者さんがお稽古する三味線の音色が聞こえてきたりして、昼間から色気のある「大人の街」だった。
色っぽいといえば、僕が中学生のころ円山の隣の「百軒店」に「テアトルSS」という映画館があって、成人映画が上映されていたのを思い出す。映画館の前を通るたびに色っぽい看板が目に入って、中学生にとってはかなり刺激的だったのだ。
「テアトルSSは、僕が小学生のころはストリップ劇場だったんですよ。僕らが鬼ごっことかで走りまわって遊んでいると、裏口が開いていて外で踊り子さんたちが浴衣をちょっと羽織っただけの姿で、七輪で何か焼いて食べていたりして。子供だから見ていても怒られず、よくお菓子をもらったりしました(笑)」
今は若者の街といわれる渋谷だが、もともとは「大人の遊び場」だったのだ。
「渋谷に若者が集まるようになったのは、西武百貨店やパルコができて公園通りがにぎわうようになった1970~80年代くらいから。それでも中心は大学生くらいだった。1990年代に入ると、さらに若い世代がセンター街に集まるようになりました」
渋谷は今も昔も「人を癒やす街」
佐藤さんは写真家として活動するとともに「渋谷区郷土資料デジタル化保存推進準備室」の室長として、変わっていく渋谷の街並みや世相を記録した郷土資料や写真の収集およびデジタル化などに関わってきた。
円山花街は、戦後の高度経済成長期のころまで政財界の要人が黒塗りの車で乗り付ける場だった。時代の変化とともに花街は衰退していったが、渋谷の繁華街の土台となったことは間違いない。
僕らが子供のころに泥んこで走りまわって遊んでいた渋谷の街もすっかり変わって、すごい街になった。佐藤さんは激変していく渋谷をどう見ているのだろう。
「でも、渋谷って基本は変わっていないと思うんです。円山は花街の衰退とともに待合が連れ込み宿に転業し、やがて木造から鉄筋のカラフルなラブホテル街となり、今はライブハウスやクラブ、バーもたくさんある。時代によって業種は変わってはきたけれど、どれも『人を癒やす』産業なんですよね。渋谷にある企業もアパレル系とかゲーム、IT系が中心ですよね。渋谷の独自の地形が放つ、街がもっている根底の力は『癒やし系』だと私は思っています」
なるほど、花街が生まれたきっかけの弘法湯にしても湯治場、人を癒やす場所だった。
最近は渋谷を訪れる外国人観光客もものすごく多い。人気スポットのハチ公像もスクランブル交差点も、無料で楽しめる、ある意味「癒やしの場」かもしれないね。
現在の円山町は花街としてのにぎわいはなくなってしまったが、細い路地や「芸者階段」と呼ばれる着物でも歩きやすい階段などに、当時の名残を感じることができる。みなさんも渋谷の雑踏から一歩足を踏み入れて、花街の面影を探す円山散歩を楽しんでみてほしい。そして『カフェ・ド・ラ・フォンテーヌ』に立ち寄ってホットコーヒーでホットひと息(笑)。癒やしの時間を、ぜひ!
文=井上順 撮影=阿部 了 構成=丹治亮子







