しかし散歩に最適な「内」とはどこなのか。試しに自宅の中をうろうろと歩いてみたが、日々の生活を送っている空間に、刺激など現れるわけもない。だとすれば、あそこを散歩してみるのはどうだろう。あそこであれば、新鮮な手触りのある散歩をすることができるのではないか。

あそことは、「実家」である。

いま住んでいるところからそんなに遠くない場所に、私の実家はある。半年に一回くらいのペースで顔を出してはいるが、リビングで両親とお茶を飲みつつの雑談をしたら、あとは何もせずに帰るのが毎回のことだ。2階にある部屋には、もう十年以上も立ち入っていないのではないか。

馴染(なじ)みがあるはずなのに、どこか馴染みがない。既知と未知とが入り混じる、独特な静域。実家はもしかしたら、散歩先として最高の屋内空間かもしれない。

これは帰省ではない、散歩だ

実家の玄関を開ける。すると年老いた母親が、「あら、急にどうしたの」と声をかけてくる。私は「まあ、ちょっとね。気が向いたものでね」などと嘯(うそぶ)きながら、ポケットに手を突っ込みつつ、ずかずかと2階に上がっていく。「ただいま」とは決して言わない。これは帰省ではなく、散歩なのである。

普段、両親が夕食後にくつろぐなどしている部屋に入ってみる。わあ、こんな場所があったのか、と心の中で大げさに驚きつつ、路上観察をするようにして目の前の景色をつぶさに味わう。するとテレビの前に置かれた奇妙なものが目に入る。ラップで巻かれたリモコンである。いつからこのリモコンにはラップが巻かれるようになったのか。リモコンにラップを巻くことでいったいどのような効果が得られるのか。知らない街で知らない文化に触れたような気分になり、散歩の心地が高まって
いく。

そのまま、両親の寝室にも足を踏み入れてみる。するとそこの棚の上に、五百円玉の貯金箱を発見する。たしかこれは、私が高校生の時に「いつか海外旅行に行くために」と貯めていたものである。そうか、実家に置き忘れたままだったのか。思わぬボーナスを発見し、胸を躍らせながら手を伸ばしたが、そこではたと気がついた。たしかにこの五百円玉たちは私が貯めたものだが、しかしもう二十年以上も、この寝室で時を過ごした五百円玉たちでもある。両親はすでにこの貯金箱を「自分たちのもの」と認識しているはずだ。私が手を出したら、きっと窃盗罪に問われる。

散歩中、公道だと思っていたら他人の私有地に迷い込んでしまった時のような感覚を味わいながら、私はすごすごと両親の寝室から退散する。

私には弟が二人いて、どちらもすでに親元から離れて暮らしている。彼らと一緒に過ごした子供部屋へと入ると、大事に保存されているポケモンカードがあり、懐かしさが溢(あふ)れてくる。ピカチュウ、ガルーラ、レアコイル。実家を散歩モードで探訪すると、子供部屋は当時の様子をいまに伝える沿道の郷土資料館へとその姿を変える。

そして階段を下りて、こんどは台所へと向かう。そこでは夕飯の支度をする父親がいて、突然の長男の来訪に「なんだ……?」と怪訝な表情を浮かべている。私は手を後ろで組みながらの軽い会釈で、その視線を交わす。散歩の途中でちょっとした顔見知りとすれ違った時にやるリアクションと同じである。

冷蔵庫のドアパネルには、地域掲示板のごとく情報が乱雑に貼られている。整骨院の診察時間、「オレオレ詐欺に注意!」のチラシ、西日を吸い込み茶褐色に焼けたゴミ出しカレンダー。私はそこに、この家が重ねてきた年月の地層を見て、少しだけ胸が締めつけられる。

もう一度言うが、これは帰省ではない。散歩である。

そして私はラップの理由を両親に尋ねないまま、散歩を終えた。
そして私はラップの理由を両親に尋ねないまま、散歩を終えた。

文・写真=ワクサカソウヘイ
『散歩の達人』2026年5月号より

#9 樹木こわい散歩古典落語『まんじゅうこわい』の主人公は饅頭を怖がってみせていたが、私は樹木を怖がってみようと思う。
#8 「ん」で終わる散歩あてもなく、ぶらぶらと歩く。散歩とは本来きわめて無目的なものである。しかし、この自由に満ちた行為には致命的な欠陥がある。それはルールがなく、それゆえにゲーム性が皆無であるという点だ。