散歩には、勝利も敗北も達成感もペナルティもない。つまるところ、刺激がない。散歩は刺激がないからこそ散歩なのかもしれないが、しかしこっちは普通の散歩に飽きている身である。どうにかして、ゲームのような刺激のある散歩を開発することはできないか。

そんなことを考えている折に、友人から発明的な散歩の形式を聞いた。それは、古来より親しまれてきた言語遊戯「しりとり」のプログラミングを散歩の構造にインストールする、というもの。ルールは至極単純で、2名で連れ立って散歩しながら、どちらかが視界の中にある物体の名前を口にする。するともう片方の者が、その語尾の文字から始まる次の獲物を景色の中から探す。そうやって、散歩の中での物理的なしりとりを楽しむのである。

とても面白そうだが、これをひとりでもプレイできるバージョンに変えることはできないだろうか。

まず、散歩中に「あ」から始まる物体を探索する。それが見つかったら、しりとりが成立するように次の物体をサーチする。これを繰り返し、最終的に「ん」で終わるものを見つけたら、その瞬間に散歩はエンディングとなる。うん、試す価値はありそうだ。

ただし、これだけのルールで始めてしまうと、例えば「案内板(あんないばん)」を見つけた瞬間に、一撃でゲームが終了してしまう。それではクソゲーでしかない。そこで私は、さらに独自のルールを設けることにした。

―「ん」で終わるゴールは、必ず30個目のターゲットでなければならない―

つまり、1個目から30個目までをしりとりで紡ぎ、そして最後は絶対に「ん」で終わるものを探さなければ、散歩を終わらせることはできないのである。果たしてそのようなことは、可能なのか。RPGを始める気分で、散歩に出かけよう。

いざ、「ん」のエンディングを目指して

さあ、「あ」からスタートだ。さっそく目に入ったのは、足元にある「ア」スファルトである。これは容易。次は「ト」である。

街には、いくらでも扉が溢(あふ)れている。「ト」ビラ。次は「ラ」だ。すると産婦人科の看板に小さな天使がラッパを吹いているイラストを見つけた。「ラ」ッパ。よしよし、とても順調である。

パーキング、グラウンド、ドーナツ屋、矢印、信号……。

ここで、「ん」が行く手を阻んでくる。運動公園、ウェディングサロン、運送便。まだ次で9個目なので、それらを踏むことはできない。こんな初手でのゲームオーバーは避けたいところだ。自分を律しながら、散歩を続ける。

そんな感じで、ルールに則りながら名詞を探して街を散歩していくと、未知の路地へと迷い込んだりする。そして普段なら気にも留めない標識や道端の植木鉢や壁の落書きなどが、しりとりの駒として輝いて見える。この散歩、かなり刺激的だ。思っていた以上に、面白い。

うどん屋、屋根、猫、コンクリート、時計、医科、影、ゲート、鳥居、入り口、地下道、裏路地、自動車、館(やかた)、タイル、ルーフバルコニー、錦鯉、椅子、寿司、茂(しげ)み、店……。

ついに来た。30個目である。「せ」で始まって、「ん」で終わるものを見つけなければならない。どうだ、あるのか、そんなもの、と私は怯(ひる)んだりはしない。だって散歩の最中、「せ」で始まって「ん」で終わるものは、すでに街のあちこちで見ることができていたのだ。

セブンイレブ「ン」!!!!!!

会心の一撃を放ち、私はこの散歩を全クリする。チェックメイトを決めた時のようなドーパミンが頭の中に溢れてくるのが分かる。ゲームである、この散歩はまさしくゲームなのである。

世界は名詞で満ちている。そして、その名詞を繋いでいくだけで、散歩の質感は様変わりする。そのようなことを知れて、私はなかなかの充足感をものにした。ゲームの世界の中にいるような非現実感を味わうことができたわけだが、もちろんこれは、すべてノンフィクショ「ン」。

本当に、街は「ん」で終わる名詞だらけである。あと、「る」で始まるものが全然ない。
本当に、街は「ん」で終わる名詞だらけである。あと、「る」で始まるものが全然ない。

文・写真=ワクサカソウヘイ
『散歩の達人』2026年3月号より

#7 一万円を握りしめて散歩チャップリンは、こう言った。「人生に必要なのは、勇気と想像力。それと、ほんの少しのお金だ」と。なるほど、至言である。「ほんの少しのお金」があるだけで、人生というのは鮮やかに彩られるものなのかもしれない。では、「ほんの少しのお金」を持って街歩きに出かけたら、どうなるのだろうか。人生と同じく、いつもの散歩道も豊かにグレードアップされるのではないか。
#6 金曜日深夜アンデッド散歩金曜日の深夜、東京は白金台周辺の住宅街。私はある種の緊張感を携えながら、友人と共に散歩をしていた。