散歩の最中、どこにでも見ることのできる、街路樹。ご存じだっただろうか、彼らは日常的な存在であるわけだが、しかしちょっと視点を変えると、かなり異様な存在として目に映すことも可能なのである。
高名な植物学者の記述にかつて触れ、私は戦慄した。樹木という生き物は、その巨体に「自らの死体」を内包しているのだという。彼らが生命活動を営んでいるのは、樹皮のすぐ内側にある、ごく薄い層だけ。中心の大部分は、すでに死んだ組織が積み重なり、強度を保つだけの支柱と化している。つまり樹木とは、自分の亡骸を抱きしめながら静かに呼吸を続けているという異形の生命体なのである。なんということであろう。
加えて考えると、樹木の表面部分には、おどろおどろしい化け物のような雰囲気が漂っている。たとえばクヌギの樹皮はどうだ。まるで巨大な爬虫類の、乾ききった鱗ではないか。たとえばサクラの樹皮はどうだ。まるで外科手術で無理やりに接合された、フランケンシュタインの縫い目ではないか。
そうやって、樹木を怪物として捉えながら散歩をしてみたら、いったいどんな味わいが現れるのか。もしかしたら近所の景色がミステリアスなものへと変化するのではないか。
いざ、光合成を繰り返す怪物の巣窟へ
散歩を開始したのは、夕刻である。陽が落ち始め、景色の輪郭が曖昧になるトワイライト・ゾーン。街路樹の姿は夕闇に浮かび、さっそく怪しげである。
樹木は怖い、樹木は怖い、樹木は怖い……。そのように心の中で何度も念じながら、歩を進めていく。するとしだいに、光合成を繰り返す魔物たちの巣窟に丸腰で迷い込んでしまったような気分に陥っていく。いま、私の目の前には、舗装路を突き破って屹立(きつりつ)する沈黙のモンスターたちがいる。
イチョウの根が歩道にせり出し、アスファルトをボコボコと隆起させている。それは獲物を締め上げる触手のようだ。複雑な幾何学模様を描く枝たちは、私の襟元を掴もうと手ぐすねを引いている指先のように見えてくる。
右を向けば、巨体であるケヤキが闇に紛れてこちらを窺(うかが)っている。左を向けば、正体不明の樹木の葉がカサカサと不気味な囁(ささや)き声を立てている。恐ろしい、近所とは、こんなにも薄気味悪い場所であったのか。そうやって、自らの恐怖心を煽(あお)り立てていく。樹木を怖がるだけで、夕方の街は「無課金で楽しめる戦慄迷宮」となっていく。
ふと、目についた寺の中に入ってみる。その門の横には、樹齢350年を超えるという巨大なイチョウが鎮座していた。その数字の重みに、めまいを覚える。そう、樹木とは、異常なまでに長寿な生き物でもある。自らの死体を内包しながらも、表面部分で悠久の時を生きる。明治、大正、昭和、平成、そして令和。このイチョウはこの場所で、あらゆる時代の激動をただ静かに、そしてどうでもよさそうに、眺めていたのである。たかだか百年で朽ち果ててしまう人間にとって、その存在性はやはり化け物でしかない。かなわない、樹木にはとても、かなわない。どうしていままで平然と街を歩くことができていたのか。
背筋にゾッと、寒いものが走る。私は逃げるように、寺を後にする。そして早足で、帰宅を急ぐ。しかし街のどこからでも、怪物たちはこちらを見ている。風が吹くたび、枝のしなる音がして、お前はどこにも逃げることなどできないのだ、と囁かれているようである。そう、私たちは、常に街路樹に囲まれている。怪物たちから逃れることなど、できるはずがないのである。
私は震える手で自宅の鍵を開け、人工的な蛍光灯の光の下へと逃げ込んだ。窓の外を見れば、街灯がいくつかの樹木を照らしていて、ああ、なんとも不気味である。饅頭などちっとも怖いものではないが、しかし樹木とは、本格的に怖い存在であったのである。すっかりトワイライト・ゾーンの気分に没入してしまい、ある種のノイローゼである。神経が冷え切ってしまった私はいま、一杯の熱いお茶が怖い。
文・写真=ワクサカソウヘイ
『散歩の達人』2026年4月号より








