【今回のコース】『べらぼう』でも話題の狂歌師夫妻と縁がある川越を巡る

川越の人気スポット、蔵造りの町並み。
川越の人気スポット、蔵造りの町並み。
人気スイーツの焼きだんご。
人気スイーツの焼きだんご。

『べらぼう』の登場人物で、この魅力的な川越と縁があるのが、元杢網(もとのもくあみ)と智恵内子(ちえのないし)という狂名で活躍した狂歌師夫婦だ。とは言えこの夫婦に関する史跡が多く残されているわけではない。しかし川越という街自体が散歩のベストスポットなので、狂歌師夫妻をフックにして、川越の見逃せない街巡りを紹介したい。

今回のコースは以下の通り。

西武新宿線本川越駅→(10分)→熊野神社(元杢網歌碑)→(3分)→蓮馨寺(松山商店)→(5分)→大正浪漫通り→(10分)→蔵造りの町並み→(10分)→時の鐘→(15分)→菓子屋横丁→(20分)→川越城本丸御殿→(10分)→富士見櫓跡→(15分)→浮島公園(片葉の葦の石碑)→(10分)→喜多院

川越は一世を風靡した狂歌師夫妻ゆかりの地

散歩の起点に選んだ西武新宿線本川越駅。
散歩の起点に選んだ西武新宿線本川越駅。

川越の名所を巡る場合、起点は西武新宿線の本川越駅が便利。駅前の通りを北に向かえば、迷うことなく蔵造りの町並みが続くエリアに行くことができる。その少し手前の右側に、今回の『べらぼう』散歩の目的地である熊野神社の鳥居が見える。

この神社は「明細帳」という文献によれば、天正18年(1590)に蓮馨寺(れんけいじ)の二世・然誉文応僧正が、紀州熊野より勧進したのが始まりとされている。さほど広くない境内には本殿に拝殿、御神木に囲まれたむすびの庭、加えて厳島神社、秋葉神社、大鷲神社が並んでいる。

熊野神社の拝殿。写真の右奥に元杢網の歌碑がある。
熊野神社の拝殿。写真の右奥に元杢網の歌碑がある。

その奥に、蔦屋重三郎が活躍したのと同じ天明から寛政の頃に活躍した狂歌師、落栗庵(らくりつあん)元杢網の歌碑が立っている。そこに刻まれている歌は掠れてしまい読みにくいので、横に立っている埼玉大学名誉教授の山野清二郎氏による解説に頼った。

それによれば落栗庵元杢網(そう言えば『べらぼう』では落栗庵という名は出てこないような……)の本名は金子喜三郎と言い、比企郡杉山村(現在の嵐山町)の出身。若い頃から文才を発揮し、壮年になると家督を弟に譲り江戸へ出て和歌を学んだ。その後、狂歌の道に進んだ元杢網は、天明から文化にかけて江戸狂歌界の中心人物となった。江戸で狂歌を嗜む人の半分は、彼の弟子だとまで言われた。

元杢網は晩年に仏門に帰依し、各地を旅して回った。川越にも来遊し、一時期は蓮馨寺門前の松郷の窪に住み、棲家を「笹の庵」と称した。その妻、知恵内子(本名は“すめ”)が川越市内の小ヶ谷の内田氏の出だったことも、この地に居住した理由だったのかもしれない。

歌碑の文字は読みにくくなっているため、横に解説板が立てられている。
歌碑の文字は読みにくくなっているため、横に解説板が立てられている。

歌碑には「山さくら 咲けば白雲 散れば雪 花見てくらす 春ぞすくなき 落栗庵元杢網」と刻まれている。これは蓮馨寺境内の桜を望見した時の歌と伝えられている。洒落(しゃれ)歌の達人ながら、春の情景が目に浮かぶ美しい歌に、少し驚かされてしまった。

境内に漂う醤油が焼ける香り。食欲を全開にする焼きだんご

本川越駅から北へまっすぐ進むと、熊野神社へは西口から参内することになる。お参りを済ませ元杢網の歌碑を眺めたら、東口から出れば川越の人気スポットのひとつ「大正浪漫通り」に出るが、ここに着いたのが昼頃だったので、先に熊野神社の西隣にある蓮馨寺へ立ち寄ることにし、再び西口から通りへと出た(本来は鳥居をくぐるのだが、工事中のため失礼して脇から退出)。

桜の名所としても知られる蓮馨寺。
桜の名所としても知られる蓮馨寺。

通りを挟んだ向かい側に、室町時代に創建された浄土宗の古刹・蓮馨寺の境内が広がっている。戦国末期の混迷した時代に、貧しい人々や親を亡くした子供たちを救い、あらゆる願いをかなえると言われた呑龍上人や、川越七福神の福禄寿神が祀られている。一時期、この寺の付近に住んだ元杢網が、桜の花を詠んだことでもわかる通り、境内にはたくさんの桜が植えられている。今度は花の咲く季節に再訪するべきと、強く感じた。

蓮馨寺の境内にある『松山商店』。
蓮馨寺の境内にある『松山商店』。

そんな蓮馨寺の境内には、大正時代に創業した焼きだんごの名店『松山商店』があり、醤油だんごが焼ける香ばしい香りについ誘われてしまう地元の常連客や参拝者、学校帰りの学生の姿が絶えることがない。土産に持ち帰ることはもちろん、店先の縁台や店内でも食べることができる。のり巻きやいなり寿司もあるので、おやつだけでなく散策中の軽めの昼食にも最適。

現在のご主人は4代目の松山英彰さん。注文に応じて手際よくだんごを焼いていく。甘くない醤油を効かせただんごは、キリッと締まりのある味わい。後を引くおいしさで、つい食べ過ぎてしまう。

結局、ここで焼きだんご3本とのり巻き、いなり寿司というフルラインアップをいただき、昼食を済ませてしまった。にもかかわらず、家に帰ると早くもあの味が懐かしくなり、すぐに食べたくなってしまった。

弾力のあるもっちりしただんごに、醤油ダレをしっかり付けて焼く。
弾力のあるもっちりしただんごに、醤油ダレをしっかり付けて焼く。
焼きだんごは1本120円。
焼きだんごは1本120円。
のり巻き、いなり寿司ともに1個120円。
のり巻き、いなり寿司ともに1個120円。

川越を訪れたら必ず行きたい、人気の蔵造りの町並み

熊野神社と蓮馨寺の間の通りを北に向かえば、蔵造りの町並みに出るが、歩道はかなり狭いうえにクルマの交通量が多く、しかも観光客の姿が絶えない。歩きやすいとは言い難いので、熊野神社の境内を抜け、東側を通る「大正浪漫通り」へと回った。

ここはかつて「川越銀座商店街」と呼ばれた通りで、埼玉県初のアーケード街であった。しかし老朽化によって屋根は撤去され、次第に活気を失っていった。そこで「大正浪漫のまちづくり規範」に基づく町並み形成に取り組んだ結果、多くの観光客を集めるだけでなく、さまざまなロケに使われる魅力的な風景として生まれ変わった。それは蔵造りや伝統的な町屋、洋風建築、大正時代建設の木造での3階建てなどが混在する独特な景観だ。道も広々しているので、ゆっくり散策できる。

ドラマやCMにもよく使われる大正浪漫通り。
ドラマやCMにもよく使われる大正浪漫通り。

この通りの端、ひときわ目を引く立派な西洋建築の川越商工会議所がある交差点を左に折れれば、すぐに蔵造りの町並みが目の前に広がる。いかにも昔の日本、という風情だが、川越に今のような蔵造りの商店が立ち並ぶ町並みが誕生したのは意外に新しく、明治26年(1893)に起こった大火災の後だった。

左はもとは第八十五銀行本店、その後埼玉りそな銀行旧川越支店だった洋館。現在は「りそなコエドテラス」として営業中。
左はもとは第八十五銀行本店、その後埼玉りそな銀行旧川越支店だった洋館。現在は「りそなコエドテラス」として営業中。

この火事で多くの家屋が焼けてしまったが、伝統的工法で建てられた蔵造りの家屋は焼け残った。そもそも蔵は古くからの耐火建築ということが見直され、倉庫兼店舗という珍しい蔵建築が立ち並んだのだ。当時の東京では、煉瓦造りの欧風建築が主流となっていたので、かえって注目を集めることとなった。

堂々とした蔵造りの店舗が軒を連ねる。海外からの観光客にはとくに人気。
堂々とした蔵造りの店舗が軒を連ねる。海外からの観光客にはとくに人気。

そんな蔵造りの町並みの中央付近には、川越城主の酒井忠勝が建て、後に藩主となった松平信綱が改築した街のシンボル、「時の鐘」が聳(そび)えている。蔵造りの町並みから時の鐘付近は、とにかく人気のスポットなので、人の塊ができてしまい建物が見えなくなることがあるほど。普通に歩くのもままならない。

川越のシンボル、時の鐘の前にも多くの観光客。撮影もひと苦労。
川越のシンボル、時の鐘の前にも多くの観光客。撮影もひと苦労。

蔵造りの町並みの北西の端、路地を少し入った場所に、さまざまな菓子を扱う店が並ぶ「菓子屋横丁」がある。昔懐かしい駄菓子から川越名物の芋菓子の数々、さらには川越育ちの人が子供の頃から親しんだ、香ばしい醤油ダレの焼きだんごの店もある。じつは蔵造りの町並み界隈には、『松山商店』だけでなく焼きだんご店を扱っているが10軒以上点在していて、あちらこちらから食欲をそそる香りを漂わせているのだ。

菓子屋横丁は修学旅行の学生に人気。なぜか芋味の麩菓子をみんな買い求めていた。
菓子屋横丁は修学旅行の学生に人気。なぜか芋味の麩菓子をみんな買い求めていた。

江戸時代に重要な役割を果たした川越の横顔が残る地へ

川越という街は、地理的に江戸を守るために欠かせない存在であった。徳川家康が江戸幕府を開くと、江戸を守る大手を小田原城、搦手(からめて)を川越城と位置付けた。そのためどちらの城も、信頼された譜代の家臣が歴代の城主を務めている。

川越城が最初に築かれたのは、長禄元年(1457)、太田道真(どうしん)・道灌(どうかん)父子によってであった。その後は北条氏の支配地となったが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐後、関東に移ってきた家康の領地となった。

蔵造りの町並みから外れると落ち着いて歩ける。
蔵造りの町並みから外れると落ち着いて歩ける。

寛永16年(1639)に川越城主となった松平信綱は、川越城を本格的に整備。江戸城の出城にふさわしい城とするため城の西側に曲輪(くるわ)を拡張し、富士見櫓をはじめとする3つの櫓、13の門を築いた。蔵造りの町並みの北端、札の辻の交差点を右に曲がり、川越市役所前を過ぎてなおも東へ向かうと、歩道脇に「中ノ門堀」が現れる。

この門も信綱による改修の際に築かれたもの。冠木門を模した入り口から中に入ると、深さ7m、幅18m、東側勾配60度、西側勾配35度という鉄壁の守りを発揮する堀が見られる。

冠木門風の建物があった中ノ門堀跡の入り口。
冠木門風の建物があった中ノ門堀跡の入り口。
深さや幅の広さが当時の堅牢さを物語る、発掘整備された中ノ門堀。
深さや幅の広さが当時の堅牢さを物語る、発掘整備された中ノ門堀。

中ノ門跡の先には嘉永元年(1848)、時の藩主松平斉典(なりつね)が造営した本丸御殿の堂々たる建物が目に入る。これは17万石を誇った川越城唯一の遺構である。この日は閉館間際だったので入らなかったが、立派な大玄関から中に入ると、左右に延びる長い廊下、風格漂う大広間が出迎えてくれる。役人の詰所や生活空間、各種資料が展示された部屋など見どころ満載。縁側に座り中庭を眺めるのもオツだ。『べらぼう』の舞台とはひと味違うが、江戸時代の空気に触れた気分に浸れる。

本丸御殿の西南には、小山のように盛り上がった林が見える。これは築城当初に西南の隅櫓として建てられた「富士見櫓」があった場所。かつてはこの小山の上に三重の櫓が立っていて、天守閣の代わりを果たしていた。今は樹木に覆われているが、その隙間から川越の街を今も遠望できる。

唯一の遺構となった川越城本丸御殿。
唯一の遺構となった川越城本丸御殿。
天守閣代わりの櫓が立っていた富士見櫓跡。
天守閣代わりの櫓が立っていた富士見櫓跡。
頂上は樹木に覆われていたが、隙間から川越の街並みが見えた。
頂上は樹木に覆われていたが、隙間から川越の街並みが見えた。

最後はやはり川越のメジャー観光スポット、喜多院へと向かう。川越の街中には、散策する人のためにたくさんの案内板が立っているので、迷う心配がない。喜多院に向かう途中、小さな公園とともに「片葉の葦の石碑」が立つ「浮島神社」への案内があった。せっかくなので立ち寄ると、そこは川越七不思議のひとつ「片葉の葦」伝承の地であった。

町中には散策の人のための案内板がたくさんあった。
町中には散策の人のための案内板がたくさんあった。

この一帯はかつて「七ツ釜」と呼ばれる湿地帯で、葦が生い茂っていた。しかもここに生える葦は、すべて片葉だという言い伝えがある。それはその昔、川越城が敵に攻められ落城寸前に城中から姫が乳母とともに逃げ、ようやくこの七ツ釜のところまでやって来たが、足を踏みはずしてしまう。姫は岸辺の葦につかまり這(は)いあがろうとするが、葦の片葉がちぎれたため姫は水底に沈んでしまう。以来、姫の恨みにより付近の葦は片葉になった、というものだ。池に近づくことはできないため、伝説の真偽は確かめられなかった。

片葉の葦(あし)の伝説が残されている浮島神社。
片葉の葦(あし)の伝説が残されている浮島神社。

閑静な住宅地に立地する浮島神社からわりとすぐの場所に、多くの観光客でにぎわう「川越大師喜多院」はある。天長7年(830)に創建された名刹で、徳川幕府からは厚い庇護を受けていた。境内には老若男女から人気の、五百羅漢がある。それは羅漢様の中には、必ず自分や知人に似た表情をしているものがあるから、と言われているからだ。ここも残念ながら閉館時間となっていたため、お楽しみはまたの機会に、となってしまった。

古墳の上に建立された喜多院の多宝塔。
古墳の上に建立された喜多院の多宝塔。

次回は東京下町の人気スポット、月島から佃島、そして石川島界隈を巡ってみたい。

取材・文・撮影=野田伊豆守

2025年の大河ドラマは、江戸時代中期から後期にかけて一世を風靡した版元・蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)が主人公。今で言うところの出版社経営者であり、超一流のアートディレクターである。武将や貴族、憂国の志士などと違い、市井の民の物語という異色の大河ドラマとして開始前から話題に事欠かない。そして第1回目の放送から大いに話題を提供し、視聴者の耳目を集めている。まさに「江戸のメディア王」を扱ったドラマにふさわしいスタートダッシュともいえるだろう。とにかく小気味いいテンポで話が進んでいくようなので、まずは蔦屋重三郎という人物を育んだ吉原という土地の今、東京都台東区を訪ねてみることにしたい。
「べらぼうめ!」主人公の蔦屋重三郎(以下・蔦重)をはじめ、登場人物が度々口にするこの言葉。ドラマのタイトルにもなっているが、もともとは穀物を潰した道具の「箆棒(へらぼう)」からきているとも言われ、意味は「穀潰し」という不名誉なものであったと伝えられている。それがいつしか一般的でない者に対して使われるようになり、転じて「常識では考えられないばかげたこと」や「桁外れなこと」を示す江戸ことばとなっていったとか。実際には「ばかだなぁ」くらいの、軽い意味で使うことも多かった。そして同じ江戸ことばで「何を言っている」を表す「てやんでぇ」と合わせ、「てやんでぇ、べらぼうめ!」が江戸っ子の決まり文句のようになっていく。まぁ大抵が気の短い江戸っ子の、喧嘩(けんか)の前口上という場面でのようだが。
大河ドラマ「べらぼう」を見ていると、毎回その言動が気になって仕方がない人物がいる。ある意味、もうひとりの主人公といっても過言ではない存在。それは江戸時代の天才クリエイター・平賀源内だ。主人公の蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう、以下蔦重)が何か壁にぶつかるたびに、フラリと現れては解決への糸口を探り当てる。平賀源内というのは実に多彩で、そのうえつかみどころのない人物である。もともとは讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)の下級武士・白石家の三男として享保13年(1728)に生まれた。身分が低かったにもかかわらず、藩医の元で本草学を学び、宝暦2年(1749)頃には長崎へ1年間の遊学に出ている。長崎に行くことができたこと自体が謎なのだが、そのうえ何を学んでいたのか記録が定かではない。その後の活躍ぶりから、オランダ語や医学、油絵などを学んでいたのであろうと考えるのが自然だ。
ドラマ『べらぼう』では、次の将軍を選ぶための陰湿な争いが描かれ始めた。第10代将軍徳川家治(いえはる)の嫡男・家基(いえもと)が謎の死を遂げ、さらに真相を突き止めようと動いた老中首座の松平武元(たけちか)も、5カ月後に急死。田沼意次の毒殺ではないか、という噂が城内で広まっていく。そしてドラマでは、意次が懇意にしている平賀源内に調査を依頼。だが確固たる証拠が見つからぬまま、それ以上の探索はかえって事件を拡大させる恐れがあると感じた意次は、調査の打ち切りを決定。真相に迫っていると感じていた源内は憤慨する。そんな源内の元には、怪し気な人物が近づいてくる。
ドラマ『べらぼう』も中盤に入り、個性的な登場人物が次々に登場。現代でも高い評価を得ている芸術家や文化人と、彼らが生み出す作品を世に送り出した稀代のプロデューサー蔦屋重三郎(以下・蔦重)のアイデアが、一気に花開いていく様子が描かれている。その小気味の良い展開に、すっかり虜(とりこ)となってしまった人も多いようだ。安永2年(1773)、吉原五十間道に立っていた「蔦屋次郎兵衛店」を間借りして、書店「耕書堂」を始めた蔦重。本屋としての地歩を着実に固めた後、天明3年(1783)にはついに日本橋の通油町(とおりあぶらちょう)に耕書堂を構えた。“ついに”と表現したのは、ここは鶴屋喜右衛門といった江戸の名だたる地本問屋が軒を連ねる書店街だったからだ。まさしくこの時に、出版界に「耕書堂あり!」となったのである。
ひと昔前の教科書では、田沼意次(たぬまおきつぐ)は“賄賂政治”という言葉と対になって記述されていた。だが大河ドラマ『べらぼう』では、近年見直されてきた改革者としての田沼像に寄せていると思われる。しかも演じているのが渡辺謙なので、切れ者感が半端ない。田沼意次は16歳の時、のちに九代将軍となる徳川家重の小姓となり、父の遺跡600石を継いでいる。家重が将軍職に就くと、意次も江戸城本丸に仕えるようになった。それとともに順次加増され、宝暦8年(1758)には1万石を拝領、大名に取り立てられる。家重が逝去した後も、十代将軍徳川家治から厚く信頼され、出世街道を歩み続けている。そして明和4年(1767)、側近としては最高職の側用人へと出世を遂げた。加えて2万石が加増され相良(さがら)城主となり、さらに安永元年(1772)になると、遠州相良藩5万7000石を拝領し藩主となった。そして幕政を担う老中にまで昇進したのだ。わずか600石の小身旗本が5万7000石の大名になり、しかも側用人から老中になった、初めての人物だ。そんな意次の足跡が残る相良を歩いてみた。
都心のビジネス街は指呼の間(しこのかん)。日中はビジネスマンらしき出で立ちの人々も多く行き交う深川は、それでもどこか昔ながらの下町情緒が漂っている。ここは徳川家康が江戸の町づくりを進めていた慶長年間(1596〜1615)、摂津国(現・大阪府と兵庫県の一部)からやって来た深川八郎右衛門が隅田川河口を埋め立て、深川村と名付けたのが始まり。この地は明暦3年(1657)に起こった「明暦の大火」以後、日本橋や神田にあった貯木場が深川やその東側の木場へと移ってきたことに加え、大川(隅田川)と中川(旧中川)を結ぶ小名木川や仙台堀川などの運河による舟運ルートが確立し、大きく発展。そして膨れ続ける江戸の人口をのみ込んでくれた。今回はそんな深川で、この地と縁が深い『べらぼう』登場人物の足跡を追ってみることにしたい。江戸時代は庶民の町であった一方、郊外には風光明媚な風景が広がっていたことから、粋な人たちが別荘を構えた地でもあった。そんな面影も同時に追ってみよう。