この場所に「懐古」という言葉は似合わない
1980年。この店が、下北沢の街に生まれた年だ。数々の喫茶店を巡ってネルドリップに魅せられた松崎寛さんは、神保町で当時開店したばかりだった『トロワバグ』での修業を経て独立。開店にあたり内装のデザインから施工まで請け負ったのが、地元・熊谷の材木店であり小学校の同級生だった。
「みんなで集まって、ああでもないこうでもないと考えました」と松崎さん。若手の職人たちと議論したり、参考にした原宿『アンセーニュダングル』(松樹新平設計)を一緒に見に行ったりしながら作り上げたのがこの空間だ。
「アールヌーヴォーよりもアールデコの方が好きで」と話すように、壁や装飾はほとんどが直線で構成されている。武骨でシンプルながら、きれいに使い込まれた調度品には人の気配もしてどこかあたたかみも感じられる。天井を見上げれば太い梁(はり)、カウンターは松の一枚板で、壁や棚に使われている木も合板ではないというから、さすがは材木店の仕事。開業以来大きな改装もせず、ほとんど当時のままだという。
いつかの空気がそのまま閉じ込められているように感じるのは、駆け出しの店主と職人たちの熱が壁や床に染み込んでいるからだろうか。この場所に「懐古」という言葉は似合わない。思い出したり懐かしんだりするのではなく、あの頃の空間にしばしお邪魔させてもらえる部屋なのだ。
取材・文=中村こより 撮影=鈴木愛子
『散歩の達人』2025年1月号より