なぜ口に出さないのか?

しばらく経つと屁の臭いは先ほどよりも強くなった。ついうっかり出てしまった屁ではなく、バレないよう意図的に数回屁をこいているようだ。図々しい。次第に憤りが高まってきた私は隣の友人に話しかけた。「おい、臭えな」友人も異臭に気付いていたようで「確かに臭いね」と返してきた。私が「絶対誰かすかしっ屁こいてるよな」と続けると彼は少し困ったような顔で「あんま聞こえるように言うなよ」と言った。

その反応は私には少々物足りなかった。確かに静かな車内で私の発言は周囲の人に届いてしまっていたと思う。しかしそれが何だと言うのか。誰かがすかしっ屁をこいたことは疑いようのない事実であり、私は「臭い」という事実を正直に口にしただけだ。屁をこいた人物を強く糾弾しているわけでもない。もしかしたら私の発言を聞いて気まずい思いをしたかもしれないが、それは仕方がないことだ。だってこいたんだから。

そもそも私は、屁をこくことが罪だとは言ってない。誰でも屁をこきたくなることはあるだろう。そして誰かがこいた屁を臭いと思ったら、それを指摘するのもまた自然な反応である。なんで口に出してはいけないのか。ただの屁を必要以上にオブラートに包もうとするから、屁をこいた人への怒りも積もっていく。

感じていることに蓋をして何もなかったようなフリをし続けることが、閉塞的で息苦しい社会を作るのだ。私が「誰かのすかしっ屁が臭い」と指摘したことで、それは「口に出してもいいこと」になるのではないか。それは車内に充満していた不満のガス抜き的な意味をも持つかもしれない。だから私は自分の発言を悔いてはいない。

そんな持論を話しているうちに自分の主張がさらに補強されていくのを感じ、気分が高揚してきた。徐々に饒舌になっていく私を見て友人は「うん」「まあ、そうね」などと反応していたが、電車が高田馬場に着く頃になってもなお、微妙な顔のままだった。

そして、いつしか私も

あれから10年以上が経ったが、少し混んだ電車に乗っていると今でも時々あの日のことを思い出す。人のすかしっ屁について語った十数分が私の記憶に定着しているのは、あの後自分の発言を何度も反芻してきたからだ。自分の発言が間違っていたとは思わない。しかしあの時の自分を思い出すと、幾分かの恥ずかしさに駆られる。

あの日の私は、みんなが見落としている重要なヒントを曇りのない目で拾い上げ、堂々と提示して見せたかのようなテンションだった。周囲で黙って会話を聞いているサラリーマンたちも心の中では私の論に同調しているような気がしていた。実際に顔は見なかったが、私の中では周囲の人々は皆「ハッ」とした表情をしていた。しかし本当のところはきっと「屁が臭え上に、大学生が勝手にイキっててうぜえな」だったろう。

第一、もし友人がそこにいなかったら私は何も言っていなかった。ある種の群衆心理で饒舌になっていた部分もある。そんな私を見て友人は直感的に違和感を抱いたのではないだろうか。

「感じたことは口に出すべきだ。躊躇すべきではない」との持論をぶっていた私だが、実際、感じたとしても口に出さない方がいいことは無数にある。太っている人にわざわざ「太っているね」と伝える必要はない。すかしっ屁もそれと同じかもしれない。

あの日の自分を何度も振り返るうち、正しいことを喋っている気でテンションが上がってきた時は、次第に注意を心がけるようになった。大人になったということかもしれないが、何が正しいのか定まっていないまま、きっと今でも恥ずかしいことを言い続けている。

文=吉田靖直 撮影=鈴木愛子
『散歩の達人』2021年6月号より