武藤郁子

文化系アウトドアライター。縄文遺跡と神社が重なる場所を“縄文神社”と呼び、巡礼の旅を続けている。『縄文神社~首都圏篇~』(飛鳥新社)を出版。

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東京が発展したのは江戸時代からと思っている人は多いかもしれない。しかし実際には一万年以上人々が暮らし、文化が育まれてきた場所で、古く長い歴史がある。しかし開発著しい東京ではその事実を実感しにくいのも確か。そこで注目したいのが地形だ。地形を見ながら歩いてみると気づきにくい歴史も体感できるのである。

国土地理院の標準地図に標高図を重ねて加工。標高:青=0~5m、水色=5~10m、緑=10~15m、黄色=15~20m、オレンジ=20m~。
国土地理院の標準地図に標高図を重ねて加工。標高:青=0~5m、水色=5~10m、緑=10~15m、黄色=15~20m、オレンジ=20m~。

実は大森周辺は、遺跡が多く発見される武蔵野台地の先端にあたり、標高10mの地点にある大森貝塚は縄文時代には海の側(そば)にあった。ということは、貝塚の地点より高い場所が陸地ということになる。この標高を基準に縄文時代の大森を地図にしてみた。今日はこの地図で地形を見直しつつ、縄文海岸を探索していこう。

地形で縄文とシンクロする

大森貝塚遺跡庭園からスタートして池上通りを南に進むと、右手が高台になっているのがわかる。この高台は縄文時代には小さな半島の東南端にあたる。
間もなく現われた天祖(てんそ)神社の急な石段を下から見上げると、その斜面が海にせり出す崖に思えてくる。

さらに進むと、熊野神社の石標があり、参道の先、善慶寺の奥に鳥居が見えた。こちらにも急な石段がある。こんもりとした木々が炎天下から来た私たちを優しく迎えてくれた。心地よい風がふっと抜ける。こんな感じの優しい風は、“縄文神社”の共通点でもある。

台地の先を回り、低地を歩くと再び台地へ戻る。縄文時代には台地は陸、低地は海だ。普段上り坂は苦手だが、「海から陸に上がったぞ」と想像すると妙に楽しいから不思議だ。
急な坂道を上り、平らな道を歩いていると、その道を頂点として右と左に道が下っていることに気付く。つまりこの道は半島を走る尾根だったのだ。尾根は縄文時代にも重要な交通路だった。縄文人も同じようにこの場所を歩いていたかもしれない。

海を越え、二つの半島を横断して、最後の半島に位置する池上本門寺に到着する。
高台にそびえたつ壮麗な本門寺に圧倒されつつ参拝。ふと西方を見ると、富士山が見えた!
思わず手を合わせた。縄文時代にも富士山は霊山として信仰されていたから、きっとこの場所から遥拝しただろう。時を越えて縄文の人々とシンクロできた気がしてうれしくなった。汗をかきかき、歩いてきた甲斐(かい)があったと大きく頷(うなず)いた。

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(1)  大森貝塚遺跡庭園

縄文らしいデザインがかわいい

明治10年(1877)に来日したアメリカ人動物学者のエドワード・S・モースが発見した大森貝塚を記念する公園。大森貝塚碑やモース博士の胸像、貝層の剝離標本(写真上)があり、縄文を偲(しの)ぶのにもってこい。縄文遺跡を意識したデザインになっている。

「汽車で新橋へ向かう途中、車窓から貝塚発見!」
「汽車で新橋へ向かう途中、車窓から貝塚発見!」

(2)  大森貝墟(きょ)の碑

ビルと線路の間にひっそりと立つ

大森貝塚を記念する石碑は、品川区側の大森貝塚遺跡庭園と大田区側の2カ所にある。大田区の石碑はモースの門下生で、発掘に参加した昆虫学者の佐々木忠次郎らによって建立された。

(3) 天祖神社

駅前に早くも“縄文神社”発見!

正式名称を神明山天祖神社という。武蔵野台地東南端は山王(さんのう)台地とも言い、眺めがよかったため、古くは八景坂(やけいざか)と呼ばれた。境内から南西方向に、弥生期以降の集落遺跡として有名な山王遺跡が出土。弥生時代から古墳時代初頭がメインだが、縄文時代の石器や土器も出土している。

(4)くつろぎ和菓子 金海堂

創業1947年。町の歴史とともに歩む

大森貝塚にちなみ、土器から命名した、ドキドキ151円はチョコレートの生地で白あんを包んだ焼き菓子。ほかに貝殻形のマドレーヌ貝塚バナナケーキ145円などがある。/9:30~19:00。火休。☎03-3775-0373

(5)熊野神社

台地の「崎」に鎮座する縄文神社

通称を荒藺ケ崎(あらいがさき)熊野神社、または山王(さんのう)熊野神社とも。闇坂(くらやみさか)から南、池上通りを中心とした地域は、かつて新井(荒藺)宿と呼ばれた。尖った地形である「崎(先)」は、古来聖地とされることが多い。付近には縄文時代の遺跡が分布している。

(6)厳島神社&山王花清水公園

今もこんこんと湧く清らかな水

台地の崖下に弁天池という湧水池があり、池中央の島に鎮座している。周辺は児童遊園として整備されており、東側に隣接する山王花清水公園に水源がある。付近からは縄文遺跡は確認されていないが、台地崖下の湧水に伴うお社は、縄文神社にありがちな地形条件だ。

(7)  馬込北野神社

住宅地に現れる巨大なクロマツ

東谷北野神社とも呼ばれる。住宅に挟まれた立地だが、参道に立派なクロマツが何本も生えていて、遠くからでもよく見える。古くは天満宮とも呼ばれており、周辺には天満宮付近貝塚が所在している。

(8) 八幡神社

武家の守護神らしい凛(りん)とした雰囲気

通称、馬込八幡。源頼朝の家臣が石清水八幡宮を勧請して建立したという。隣接する長遠寺にかけて長遠寺貝塚があり、また、道をはさんだ馬込小学校付近の久保遺跡では、縄文時代の集落が確認されている。

(9)大田区立郷土博物館

博物館も台地の尾根に位置

大田区内の考古、歴史、民俗分野に関する資料を保存、展示。常設展では、今回歩いたルートにある遺跡から出土した縄文時代の石器や土器も展示されている。入館無料。/9:00~17:00。月休(祝の場合は開館、臨時休あり)。☎03-3777-1070

「区内には、さまざまな時代の遺跡が約240もあります」学芸員・林 正之さん。
「区内には、さまざまな時代の遺跡が約240もあります」学芸員・林 正之さん。

(10)本門寺公園・池上本門寺

縄文の森の面影を今に伝える聖地

池上本門寺は日蓮宗の大本山で、宗祖・日蓮聖人が亡くなった地に開かれた霊場。かつては境内地だった本門寺公園に湧水池があり、豊かな森は縄文時代の植生を彷彿(ほうふつ)とさせる。一帯から桐里町貝塚が、さらに北方の高台付近には桐里遺跡(集落跡)が確認されている。

交差点で左右に下り坂が延びていく。まさに尾根道!
交差点で左右に下り坂が延びていく。まさに尾根道!
出世稲荷神社。小さな社殿の脇に大きなクロマツが。まるで守護しているよう。
出世稲荷神社。小さな社殿の脇に大きなクロマツが。まるで守護しているよう。
〈縄文時代の海岸線〉縄文時代は約1万2000年あり、時期により異なるが、最も海進が進んだ縄文前期は現在より10m以上海面が高かった。本特集のエリアはほとんど海の中(図の青色)となる。
〈縄文時代の海岸線〉縄文時代は約1万2000年あり、時期により異なるが、最も海進が進んだ縄文前期は現在より10m以上海面が高かった。本特集のエリアはほとんど海の中(図の青色)となる。

取材・文=武藤郁子 撮影=高野尚人
『散歩の達人』2021年10月号より