エキゾチックな店名の名付け親は井上靖
日本橋駅からほど近いビルの地下にある『ぺしゃわーる』。ペシャワールとは、中国とヨーロッパとの間を繋ぐシルクロード沿いにあるパキスタンの商業都市で旅人の疲れを癒やす宿場町。古代王国ガンダーラがその地にあったことでも知られている。
この地名を店に名付けたのは『敦煌』や『天平の甍』などの代表作があり、シルクロードにもゆかりの深い小説家の井上靖だ。1989(平成元)年に店を開いた先代のオーナーは銀座の文壇関係者が集まるクラブでママをしていた人物で、井上靖はなじみ客の1人だった。命名にあたって井上が直筆で書いた原稿が、2019年にオーナーが変わってからも額縁に入って店内に飾られている。
『ぺしゃわーる』は昼間はカフェとして、夜はバーとしても営業している。一時はいくつもの店舗が営業していたが、名前を引き継いだ店は日本橋にあるこちらとホテルニューオータニの中にある店が残っている。
東京のど真ん中だが、店が地下にあることで隠れ家的な『ぺしゃわーる』だが、その名前に合ったインテリアも魅力のひとつだ。入ってすぐにはバーカウンターがあるが、その左右に洞窟めいた空間があって、テーブル席になっている。調度品と呼ぶのに相応しい家具が置かれ、中にはエミール・ガレの工房で作られたアールヌーボーのランプもあって風格も感じられる。
ネルドリップで淹れるデミタスコーヒーが自慢
現在のオーナーが経営を引き継いだときに、店を任せられたのが水野雅之さんだ。実は水野さんは東京藝大音楽学部邦楽科を卒業した後、30年ほど歌舞伎の長唄を演奏する三味線奏者として活躍してきた。2019年に現オーナーに誘われて、大きくキャリアをチェンジ。それまでとはまるで畑の違う飲食店で働くため、コーヒーの淹れ方を学び、メニューの開発も行うなど全く新しい生活を始めた。一方で、さすが伝統芸能の世界で長く生きていた人。きっぱりとしていて、それでいて物腰が柔らかいので、店の居心地のよさにつながっている。大人世代の常連客が多いのも納得だ。
『ぺしゃわーる』では誰もが飲みやすいブレンドコーヒーも準備しているが、プラス100円のデミタスコーヒーがおすすめだ。先代オーナーの時から変わらず、小さめのカップで提供されるデミタスコーヒーは、深い味わいが特徴。ネルドリップで数配分まとめて丁寧に抽出しては、注文が入ると銅製のイブリックで温めて提供するのが『ぺしゃわーる』のスタイルだ。
歌舞伎の仕事で日本全国を巡ったことで舌が肥えた水野さんは、最初こそ苦労したものの、今では深みのあるデミタスコーヒーをおいしく淹れられるようになったと自信を持っている。アイスコーヒーの抽出方法もデミタスコーヒーと同じやり方だ。
場所柄、平日は近隣のオフィスに勤める会社員らしき人が多いため、水野さんが力を入れたのはランチメニュー。ホットサンド類のほか、クロクムッシュやクロクマダムなどを中心にワンプレートのセットメニューや、カレーなど全部で12種類。意外なほどバリエーション豊かだ。
パンは「近くてすぐに買いに行ける」という高島屋のフォションのもの。定番のパン・ド・ミではなく、もっちりと弾力のあって人気のパン・クレーム・フレを選んでいる。注文が入るたびに必要な分だけカットして、パンが乾燥しないように気を配っている。
いちばん人気はマカロニグラタンのセット。ちょうどいいサイズのココット型に溢れるギリギリまでホワイトソースを入れ、チーズをかけてオーブンへ。あつあつのグラタンはアサリのむき身も入っていて本格的な味わいだ。
密かに人気があるのがランチの付け合わせだ。ポテトサラダはまろやかな味わいでホッとする。実は、水野さんの家族は銀座で料理屋を営んでいる。そのおかげで、その店の板前さんによる手作りの付け合わせがいただけるというわけだ。
現在勧めているスイーツは、栗の産地として名高い長野県小布施町の老舗小布施堂のモンブランだ。現オーナーと小布施堂の社長が知り合いだったことから、特別に仕入れることができた。伝統の栗あんを使用したモンブランは、滑らかな舌触りの中に濃厚な栗の風味を感じられ、デミタスコーヒーとの相性もバッチリだ。
『ぺしゃわーる』があるのは地下鉄日本橋駅とJR東京駅の間の桜通り沿い。遠くパキスタンの都市名に惹かれて階段を降りると、大人が一休みにぴったりな空間が広がっている。
取材・撮影・文=野崎さおり