とにかく散歩天国
「谷根千」ってどこ?と聞かれたら、JR山手線日暮里駅と西日暮里駅、地下鉄千代田線千駄木駅と根津駅、その4つの駅の周辺と言っておけばほぼ間違いない。では魅力はどれほどのものか? まずはざっと歩いてみよう。
JR日暮里駅の西口を下りると、平日の昼間からそぞろ歩きする人が目につく。人の流れに沿ってまっすぐ進むと目の前に急に現れる階段が「夕焼けだんだん」。そこを下りると谷中銀座という下町情緒満点の商店街が待っている。その先の「よみせ通り」、「千駄木」のへび道と併せて一日中人影の絶えない散歩道である。
もし夕焼けだんだんの手前を折れたとしても、右側は経王寺、諏方神社へと続く静かな細道が切通しまで続いている。左折すると「朝倉彫塑館」、さらに進むと左側に観音寺、全生庵、明生院ほか大小さまざまな寺院が次から次に立ち現れる谷中寺町、その左側には広大な墓所・緑豊かな谷中霊園が隠れている。さらに言問通りに出る角が『カヤバ珈琲』(直進すれば東京藝術大学)、左折して坂を下り、不忍通りを左折した先に根津神社……つまりどこをどう歩いても素敵な散歩になってしまうのである。
下町情緒あふれる商店街と路地
このエリアで誰もが思い浮かべるのは、谷中銀座に代表されるいかにもな下町情緒だろう。夕焼けだんだん手前を下り「谷中銀座」に入ると、そこは人がやっとすれ違えるほどの道幅。歩を進めれば、右の角に大正11年創業『後藤の飴』、その先左側に総菜屋『いちふじ』、右側はメンチカツが有名な『肉のすずき』、さらに焼き鳥『コバヤシ』、てんぷら『初音家』、『はきもの濱松屋』『小野陶苑』と、昭和の頃はどこにでもあった個人商店が次々と現れる。
突き当り、すこし広い「よみせ通り」に出ると、コンニャクやしらたき専門店(豆腐ではない)『三陽食品』、無添加がうれしい『大沢製麺所』、なぜか安くて品のいい『フラワーショップ小竹』などが軒を連ねている。
じつはこの「よみせ通り」はかつて藍染川という川を暗渠化したところで、南に進むと道幅が狭まり、「へび道」と呼ばれる細いくねくね道に変わってしまう。そんな裏路地感もこのあたりの特徴で、例えば谷中銀座や寺町のあたりも、ちょっと入るとすぐ細い路地や階段に続いており、慣れない人はすぐ迷ってしまうだろう。その迷宮感がまた散歩ごころをくすぐるのだが。
美しい寺やレトロな建築がわんさか
谷中を散歩天国たらしめている、もう一つの重要ファクターはやはり神社仏閣。全部で70もの寺社があるといわれているが、なにしろこの辺りの寺は空襲を免れているのだから雰囲気満点。小林一茶ゆかりの緑ゆかしき元行寺、上野戦争の弾痕が残る経王寺、長い練塀が美しい観音寺、布袋尊の笑顔に癒やされる修性院、変わり種では三遊亭円朝が集めていた幽霊画展を夏に行う全生庵もある。
ちなみに「谷中七福神」は東京最古の七福神といわれており、どの寺も趣深く充実した散歩が楽しめる。特に東覚寺(福禄寿)の境内にある赤紙仁王は必見、修性院の布袋尊像は笑ってしまうほど福々しい。
寺社以外にも戦災を免れた建築は多い。彫刻家・朝倉文夫の自宅を改装した『朝倉彫塑館』は明治40年築、明治43年築の酒屋を移築した『下町風俗資料館』、大正8年築の『旧安田楠雄邸庭園』、明治時代築の千駄木の美しき串揚げ屋『はん亭』、大正時代の古民家を活用した『カヤバ珈琲』、歴史ある銭湯を改装した現代アートのギャラリー『スカイ・ザ・バスハウス』、これらは全て必見である。
カフェやランチ処も充実。下町だけど山の手でもある
しかし、谷根千ブームの真の理由はもうちょっと深いところにあるような気もする。
たとえば、「下町」ブームの先駆けのように語られる谷中だが、そもそもの歴史を紐解くと、この高台は明治から大正にかけてはお金持ちの別荘地。地形的に言っても山の手大地の上に位置する立派な「山の手」である。
また寺町とはいうものの、やけに外国人の姿が目立つ街でもある。和風旅館やゲストハウスを利用する観光客のほか、この風情を気に入って住み着いてしまった酔狂人もいて、夕方になると木の洗面器を抱えた浴衣姿の外国人を見かけることもある。そういやスイス人がやってるログハウス風スイス料理屋『ハレー・スイス・ミニ』なんてものもあるんだよなあ。
流行りのリノベ―ション建築の先駆けでもある。最近では地区60年のアパートを改築した最小文化複合施設『HAGISO』、戦前の民家を改装した『上野桜木あたり』が感度の高い若者に人気だ。
人気に比例して、スイーツも増えた。かき氷の『ひみつ堂』のように行列ができるような名店も登場。しかし穴子寿司の『すし乃池』、手焼き煎餅の『大黒屋』、猫のいる喫茶『乱歩』など、年季の入った店もまだまだ現役なのもうれしいところ。
最後に、谷根千は本の街でもある。品揃えが良心的な根津『往来堂書店』や千駄木『古書ほうろう』(池之端に移転)などが集まり2005年から始めた本のイベント「不忍ブックストリート」は今や街の風物詩、その一コンテンツだった「一箱古本市」は全国的に展開されている。そもそも「谷根千」という呼び名自体、今はなき名地域雑誌「谷中・根津・千駄木」が起源と言われる。
下町と山の手、商店街と現代美術、横丁にフレンチ、銭湯に外国人……一見相反する要素がすごく近接していて、しかも絶妙に調和がとれているのはなぜだろう? その因果関係を確定させるのは難しいが、初めて来る人がみな“懐かしい”と感じてしまう、この魔法のような風景に秘密があることは間違いない。
谷根千でよく見かけるのはこんな人
にぎわう週末の谷中銀座を歩く人は、学生と思しき若いカップルからキャリーバックを押して歩くお年寄りまで幅広い。おしゃべりの止まらない二人組の女性コンビが軒先の商品をのぞき込みながら練り歩く傍ら、総菜屋の列にはサンダルつっかけて今晩のおかずの足しにと揚げ物を買いに来た近所の奥様もいる。
一方、ひと気の少ない住宅地でたまに見かけるおにいさんは、首からカメラを下げてひとり黙々と路地を探険。探しものはマンホールか、看板か、階段か……と思えば、塀の上で毛づくろいする地域猫を幸せそうに見つめていたりする。公園でヘビをみつけてわくわく顔のおじさん、犬の散歩中にワンコ友達と会って話が弾んじゃう家族、すっかり住み慣れた様子の外国人が思い思いの散歩を楽しむ姿を見るに、この街の楽しみ方は千差万別。
とはいえわざわざこの街を訪れる人は、やっぱりどこかこだわり派。高円寺や下北沢ほどエッジの立った感じはないけれど、アメ横や浅草あたりの下町商店街とは全く別人種。一見普通だが、よく見るとさりげないセンスの良さやただならぬオーラを漂わせている。東京を代表するお散歩スポットは、十分ハレの舞台なのである。
取材・文=武田憲人 文責=散歩の達人/さんたつ編集部 イラスト=さとうみゆき