その本拠が一乗谷。朝倉館を中心に、館や庭園などの遺跡や、復元された街並みや武家屋敷がメディアではよく紹介される。義景のキャラもあってか、「こんな平地に城を構えてるようじゃ、そりゃ信長に滅ぼされるわ……」と思われがちだが、それは大きな誤解だ。
麓に広がるのはあくまで居館など居住区。実は背後にそびえる山の上に、きちんと「詰の城」が築かれているのだ。それが今回紹介する一乗谷城だ。
堀切&切岸が山頂で待っている
光秀が朝倉家の元にやってきた時期は、はっきりわかっていない。明智城を斎藤義龍に攻め落とされ故郷を追われた弘化2年(1556)以降、数年以内だったと推測されている。その後10年近くを過ごし、その間に娘の明智玉(のちの細川ガラシャ)が生まれている。信長と朝倉家が対立することになる元亀元年(1570)には、朝倉家を去っているため、その間、一乗谷城は戦禍にまみえることはなかった。
從って、あくまで光秀に縁はあるものの、この城で彼が戦ったわけではない。
一乗谷は、文字通り両側を山に挟まれた細長い谷間の平地。その東側背後にそびえるのが一乗谷城。麓からの比高は400m近く。「これはキツイな……」とため息が出てしまう。
だが、事前にあれこれ調べているうちに、「裏口」を発見した。林道が走っているのだ。よし。
林道入口は、一乗谷駅のひとつ先、越前高田駅の対岸あたり。国道158号の旧道から入る。まさに城跡へと向かうように南へ伸びる道があった。林道を10分ばかり登った場所に、駐車場。城跡までの詳細な地図もある。歩く距離は2/3程度で思ったほどショートカットになっていないが、比高は半分以下ではないだろうか。
勾配は、最初の数百メートルほどはそこそこキツイものの、ちょうど麓からのルートとの合流点から先はゆるやかに。尾根伝いの道をズンズン進んでゆくと……。
おっ。
いきなり堀切の両側を土塁で盛ったような地形が目の前に。空堀を渡る部分は土橋のようで、その先が折れ曲がった食い違い虎口風。どう見ても、写真の手前から奥へ攻め込む敵を防ぐ構えではないか。
実はこの部分、現地の看板にあった縄張図には含まれていない。
※食い違い虎口(こぐち)/互い違いに折れている虎口のこと。虎口は曲輪の入口の狭まった部分。
だが、いかにも「ここから城内です」と思えて仕方ない。ただ、その先もかなり尾根道がダラダラと続いていて、あまり城らしさを感じられる構造は見られなかった。そうすると、城の遺構としては位置がヘンだ。うーん……と頭を悩ませながら先へ。結論は出ないのだが、勝手な想像を膨らませながら歩くのも山城の醍醐味だ。
そうこうしているうちに、尾根をぶった切るような大堀切と、壁のような切岸が見えてきた。今度こそ、まぎれもなく本物だ。
「この先城内につき、一歩も通さん!」と絶対阻止の構え。しかしまあ、ここで「ハイそーですか」と引き下がるわけには行かない。山城を見に来たのだ。
先に挙げた縄張図の、赤い丸の部分が今いる場所。道が二股にわかれ、城内の中心部は左手の尾根道の方だが、いったん右へ折れてから、そちらへ向かうことにする。
大堀切に面した切岸は、そのまま横に数メートルに渡って続いている。そのわずかな隙間を抜ける小道をたどる。戦国時代にはこんな道はなく、完全に巨壁だったに違いない。とにかく見事だ。
その巨壁の向こう側には壇上に曲輪が並んでいた。特に広いのが「千畳敷跡」。ここはおそらく、城内で最も広い平坦地だ。少し高台になった部分は「観音屋敷跡」と別の名がつけられているが、ほぼ一体化した巨大な曲輪、とみなしていいのではないか。リアルに千畳、畳が敷けそうな気がしてくる。
さらにココからすぐ山頂方面へは向かわず、急坂を下ってゆくと……。
何やらかすかにキラキラ輝くものが見えてきた。水が溜まっているのだ。
ちょうどこの日は霧雨がパラついていたのだが、もちろん雨水の水たまりではない。その理由はこれ。
「清水」の名に恥じぬ、透き通るような美しい地下水が、山肌のほんのわずかな隙間から流れ出ているのだ。清冽でおいしい水だった。
城の水の手というと、井戸が掘られていることも多いが、このように地表へ湧き出た湧水の場合もある。いずれにせよ、山城で水の手を見つけると少なからず感動する。たとえそれがどんなに小さなものであっても。よくぞ見つけたもんだなあ、と。
ちなみにこの清水を荒らすと天候が荒れてしまうとか。不動明王の怒りに触れないよう、そっと手を合わせて感謝と恭順の意を伝える。まだ城の1/3ほどしか巡っていない。このまま荒れてもらっては困るのだ。
急坂を引き返し、観音屋敷から右手奥の宿直(とのい)跡へ。ここは城内でもっとも技巧的な遺構が残っている。土塁と石垣を駆使した食い違い虎口だ。
真正面の切岸は、3~4mはあるだろうか。角度も急でとても登れたものではない。となると虎口を抜けてゆくしかない。スロープ状に上りながら、Z字状に途中で二回折れ曲がっている。通り抜けて振り向いてみると……。
道幅は一人が通るのがやっとで、反対側が見えないほどの勾配がある。迫りくる敵は、頭上からの攻撃にさらされながら、各個撃破されてしまうのだ。
ちなみに先程の切岸上に立つと、こんな感じ。
さらに、登って来て初めてわかったのだが、切岸上には土塁が盛られ、その内側は塹壕のようになっていた。
このあたりが一乗谷城のハイライトといえる。信長の来襲に備えて、改修が加えられたといわれるが、朝倉義景、実はやる気満々だったのではないか。
信長が一乗谷へ攻め込んだ当時、既に朝倉家を捨て、信長に従っていた光秀。真っ先に攻め込んでいた可能性はないだろうか。朝倉家の元に10年近くもいたのだから、詰の城の存在はもちろん、構造も熟知していた可能性もある。しかし彼が去った後で城が大改修されていたとしたら、ことはそう簡単には運ばないはず。はたして、勝つのはかつての主君・義景か、家臣だった光秀か──。
しかし、史実での義景は一乗谷を捨て落ち延びていく途上で、家臣に裏切られ落命。朝倉家は滅亡してしまうのだった。
現地看板の縄張図には記されていないのだが、切岸上の土塁は通路のようになっていて、そのままカーブを描きながら尾根道へと合流する。
その合流点が、一の丸北の切岸。ココもなかなかすごい。高さ3~4mはある。手前には浅いが空堀も。
ここで、空堀手前の木の幹に、「できれば見たくないもの」を見つけてしまった。
まさかの強敵、クマ出没!?
熊だ。
どう見ても熊の爪痕だ。傷がつけられてから少し経っているようだが、油断はならない。といって、なにができるわけではないのだが。
「不動明王の御加護がありますように」と祈りつつ、やや早足で先を急ぐ。幸い、後は尾根脇に沿った一本道をたどってゆくだけだ。
事前に調べて得た知識で、一乗谷城は「堀切と畝状竪堀の城」とイメージしていた。しかし実際には、「堀切と切岸の城」だなあという感じ。畝状竪堀は縄張図には各所に描かれているが、現地ではイマイチよくわからず。
もっとも、季節が初夏だったので緑も多かったせいもあるだろう。畝状竪堀はもともと、写真にも写りにくいし、斜面の単なる崩壊と見分けがつかないことも多い。山城の遺構で一番、悩ましい存在だ。
一の丸以降、城の奥半分は堀切のオンパレード。二の丸、三の丸間の堀切は、堀底の幅も相当で、なかなかフレーム内に収まらない。
そしてこの堀切の脇の立ち木でまた、「見たくないもの」が。
しかも、あきらかにこちらのほうが新しい。まるでつい今しがたつけられたように、スパッとした切り口。考えても仕方ない。残りの遺構をなるべく早く巡り、下山を急ぐしかない。残すは三の丸のみ。堀切からほんのわずか歩くと、三の丸内へ入る入口があり、ホッとする。
ちなみにこの入口手前に、「三の丸跡(山城はここまで)」と看板が立っている。実際にはその看板の先が三の丸なので、勘違いして引き返さないように要注意だ。
三の丸最奥部が標高473.8mの山頂なのだが、その手前は小さいが明確な堀切で分断されている。したがって、本来なら別々の二つの曲輪を、三の丸と総称しているという解釈が正しい。
ようやく城の最奥部まで制覇した満足感に浸りつつ、縄張図でここまでの道のりを振り返る。これも至福のひとときなのだが……。
「伏兵穴群」ってなんだ?
二の丸脇に伸びる尾根にある「伏兵穴群」に足を運ぶのを忘れていた。なんでもタコツボ状の穴を地面に掘って身を隠し、敵を急襲する仕掛けらしいのだが、そんな戦法アリ? その状況、曲輪内に完全に侵入されていないか? そこから抵抗しても勝負は付いているだろう。
しかし、気になることは気になる。他の城では見たことも聞いたこともないし、ここで見逃せば二度と出会えないかもしれない。幸い、帰り道の途中だし、少しだけ寄り道してみればいいだけだ。
二の丸脇からの分岐の先は、道というよりほぼ崖だった。自然地形も巧みに利用した見事な大堀切だ。
などと感動している場合ではない。頑丈そうな木を握りながら、慎重に慎重に下りてゆく。下りはじめたらもう、後には引けない(気持ち的にも、物理的にも)。
そして、なんとか堀切を超えた先に待っていたのは。
そこまで大量に生い茂っているわけではないので、進もうと思えば進める。この程度でヤブコギと呼んでは、各方面から「甘い」とお叱りを受けそうなぐらいだ。ヤブはところどころにしかなく、全面的に覆われているわけではない。
しかし結局、伏兵穴群は見つからなかった。というよりよくわからなかった。落とし穴みたいな穴ぼこがあいていればいいのだが、そんなものはどこにもない。だいたい、地面って元々凸凹しているし。
だいたい、「伏兵穴群」なんて言い出したヤツは一体誰なんだ。そんな姑息な戦法を使わなくても、その先の大堀切で正々堂々と戦えばいいじゃないか。こら義景、マジメにやらんかい。
ヤブコギの99%は徒労に終わる。それでも人はときに、ヤブを目指さなければならない。
そんな山城的名言を思いついたのが、寄り道した唯一の収穫だった。
『一乗谷城』詳細
取材・文・撮影=今泉慎一(風来堂)