もう一人の「麒麟」がいた名山城

月山富田城の縄張図。左上の『安来市立歴史資料館』が起点になる(『安来市立歴史資料館』パンフレットより。提供:安来市観光協会)。

季節は3月中旬。暑すぎず寒すぎず。下草もまだあまり茂っていない時期で、天気も上々、山城日和の午後。

この山城、どこから攻めるべきか。縄張図を見ながらしばし一人作戦会議。ルートはいくつかある。麓にある歴史資料館で手に入れたパンフレットをパラパラ眺めていて、気になるあるものを見つけた。というわけで、少し遠回りになるけれど、「赤門」から登ることにした。

本堂へは赤門を登った先で右へ折れる。

赤門は、嚴倉寺(いわくらじ)という古刹の山門だ。急な石段を登り、さらに仁王門をくぐった先に本堂がある。木造平屋でなかなかシブいたたずまい。ただ、気になったのは本堂ではなくそのさらに奥。鬱蒼とした木々の間の細道を歩くこと数分。小高い丘のような場所にたどり着いた。

中央の五輪塔が堀尾吉晴の墓。高さ約3m。

「あれ、堀尾吉晴って松江城を築城した人では?」と思った方もいるかもしれない。その通りなのだが、松江城が完成するのは慶長16年(1611)で、建設中の慶長13年(1608)に松江城内へ。吉晴が出雲にやってきたのは1600年(慶長5)のこと。はじめはこの月山富田城に入城していたのだ。息子・忠氏が早世し、孫の忠晴が当主。ただしまだ幼年だったため、後見人の吉晴が老齢を押して政務を取り仕切っていたという。

どっしりとした丸石に梵字が刻まれた、風格あるたたずまい。木漏れ日が差し込み、かすかな風が心地よい。戦国武将としてはやや地味目なキャラクターだが、秀吉に尾張時代から常に付き従った頼れる忠臣。そんな彼にふさわしい、重厚感ある墓所だった。

墓所の左奥には吉晴の妻が建てた「山中幸盛公供養塔」がある。

嚴倉寺のある小山もおそらく、地形的に見て月山富田城の一部、出丸のような存在だったはずだが、遺構らしきものは見つけられなかった。

寺内から舗装路に出て道を登ってゆくと、いきなり民家と畑が現れてびっくり。城内に我が家、ちょっとうらやましい。ちなみに民家の手前にも駐車場があり、中心部だけを巡るなら、ここが最も近い。

すぐ目の前に見事な石垣群があり、その上が城の中心部となる山中御殿。だがその前に、見ておきたいものがある。大土塁だ。

高さ2~3m、全長約130mもある大土塁。

高さと長さも見事だが、微妙に折れを伴い、横矢が掛かるようになっている。「土の城」好きとしてはたまらない光景。ここまで見やすく、かつ、良好な状態で残っているとは。

ただし、内側からはバッチリなのだが、外側が竹藪に埋もれてしまっていて、見通しはかなり悪い。これが外からも見上げられたらなあ、空堀もコミで……。「令和の月山富田城の戦い」と称して、戦国好きを集めて竹刈りイベントができないものか、と勝手に妄想してしまう。毛利家と尼子家に分かれて、刈った本数で決着をつけるとか、できないものだろうか。

※横矢(よこや)/角度をつけることで2方向以上から敵を狙い打つ仕掛け。
山中御殿。いったいどれぐらいの建物がひしめいていたのか。

土塁を後に、いよいよ心臓部へ。山中御殿はちょうど、山の中腹に当たる位置。屋敷を構えるにはやや麓から距離がある気もする。縄張図を見るとわかるが、麓からの道は三本。その全てがこの山中御殿で合流している。単なる生活居住の屋敷というよりは、戦の際は重要拠点としても意識されていたのではないか。

ちなみに山中御殿は「さんちゅうごてん」と読む。「やまなか」ではない。「尼子家一の忠臣だけに、名前のついた曲輪もデカイな~」と、数年前まで思っていた自分。恥ずかしい。

縄張図の右上の方に「伝山中鹿介屋敷跡」がある。

頼れる忠臣の住む場所としては、ちょっと遠くないか? 山中御殿にも別宅はなかったのだろうか。今となっては知る由もない。

さて、山中御殿は中間地点。本丸のある山頂方面を見てみると……。

 

うわっ。マジか。思わず声を上げてしまう。

 

手前の平地が山中御殿。はるか頭上に三の丸が見える。

斜面をクネクネ伸びているのが「七曲り」。ほとんど壁。比高は100m近くありそうだ。このぐらいの比高は山城では珍しくないが、城内で、しかも一気に登らされるパターンはなかなかない。

上まで登ったら、さぞかし眺望も最高に違いない。希望を胸に登り始める。幸い、遊歩道が整備されているので、足元はしっかりしている。

ちょうど2/3ほど登ったところに、山吹井戸があった。小さいが、今もこんこんと水が湧いていた。軽く口を潤してから、あともう一息。

山吹井戸。石の隙間から水があふれていた。

登り切ったところに、三段になった三の丸の見事な石垣が待っていた。

高さは全体で4~5mはある。段々になった石垣というと、岩村城の六段石垣が有名だが、こちらもひけをとらない。一直線の高石垣は高度な技術が問われるが、この方式ならそれがなくても高さを稼げる。知恵と努力の結晶だけに、その魅力もひとしお。崩壊を防ぐため、カドはきちんと算木積みになっている。

三の丸の三段石垣。スカッと晴れていると最高に美しい。

ここが山頂に連なる曲輪群の最前線。七曲りを何とか登り切った敵の眼の前に立ちふさがる石垣の巨壁。城好き的には感激の一瞬だったが、もし戦国時代の足軽として攻め登ってきたのだったら、絶望の瞬間だっただろう。

落城後のゲリラ戦の過程で、鹿介は一度だけ、月山富田城を取り戻す寸前までいったことがあった。永禄12年(1569)、毛利家の九州出兵で手薄になったスキを突いて包囲したのだ。戦況は鹿介側が圧倒的に有利。そのため城側は一計を案じる。降伏状で城内深くまでおびき寄せ、だまし討ちに。その現場がまさに七曲りを登り切ったこの場所だったという。

山陰の麒麟児、あと一歩で悲願達成のところでついえる。光秀同様、「戦国の麒麟児」には、そんな宿命があるのだろうか。

※岩村城/岐阜県恵那市にある、日本三大山城のひとつ。

「七曲り」の上には、実はもうひとつの絶景がある。今来た方角を振り返ってみると。

城の遠くに広瀬の街並もチラリと見える。

山中御殿、花の壇、奥書院と、中腹に連なる曲輪群が俯瞰でドーンと。素晴らしい。縄張図ではなく、実際の景色としてこれだけ広い範囲を把握できる城はなかなかない。城内の凹凸や、曲輪の形状などがバッチリ。いわば1/1スケールの立体模型だ。

そして高石垣の上、三の丸へ。

三の丸。手前の陥没した部分は井戸の跡?
三の丸から北西の西袖ヶ平方面。雲の上にいる気分。

細尾根だが、それなりの幅はある。ここも景色は最高だが、北東側の側面にも注目したい。どこまで人工的に手を加えられているかは不明だが、とにかくほぼ垂直。七曲りどころではなかった。

三の丸北東側。かなりの下方まで直滑降。
二の丸から本丸方面。全体が丸ごと見える。

二の丸は三の丸とほぼ一体化していて、少し高くなっている。曲輪というよりも櫓台か何かの跡なのかもしれない。そこから大堀切を挟んだ向こう側が本丸だ。

二の丸側から大堀切を見下ろす。
こちらは本丸側より。高さだけでなく幅も相当ある。

三の丸、二の丸、本丸と、山頂にある曲輪はいずれも、気持ちいいくらいに平坦。

周囲が切り立った断崖上なので、絵に描いたようなパノラマ風景が広がっている。月山富田城=堅城のイメージしかなかったが、山上からの絶景の印象もまた、強く印象に残るものだった。毛利家が建てた陣城はどのあたり? 月山富田城の支城も点在していたはずだが? などなど、これだけ景色が開けていると想像は尽きない。

鹿介は最終的に天正6年(1578)、播磨国の上月城で毛利軍に敗れて捕らわれ、直後に処刑される。ふたたび生きて月山富田城に戻ることはなかった。

もし捕らわれず、なんとか落ち延びていたら。

冒頭に挙げた通り、織田家の中では明智軍との関係が密だった鹿介。再び合流した可能性は充分あったはず。そして、光秀も信長に叛旗を翻さず、命令通りに毛利攻めで出兵していたら。長年、中国地方各地でゲリラ戦を展開していた幸盛は、最高の水先案内人として、獅子奮迅の活躍をしていたはずだ。

本能寺がなければ、織田家vs毛利家の戦いは織田家が押し気味だった。いずれ出雲へも進出し、月山富田城で二人の麒麟が並び立っていてもおかしくない──。

実はこんな妄想を、とある形で実現したものが現地にあった。歴史資料館には「W麒麟」のポスターが並べ貼られている。「麒麟がくる」光秀に対して「麒麟がいる」鹿介。夢の共演、興味のある方はぜひ自身の目で確かめて見て欲しい。

※上月(こうづき)城/兵庫県佐用町にある山城。麓には尼子勝久、山中鹿介の追悼碑が建つ
本丸から二の丸、三の丸方面。繋がっているようだが間に堀切がある。
本丸には勝日高守神社の奥社がある。
本丸に立つ山中幸盛を偲ぶ石塔。

山上の絶景を思う存分堪能した後、七曲りを下り、ふたたび山中御殿へ。その先は先ほど俯瞰で見た各曲輪をたどってゆく。

山中御殿東側、菅谷口の虎口。折れの向こうは急坂。
花の壇と山中御殿の間の堀切。
※虎口/曲輪の入口のこと。攻めてくる敵の勢いを削ぐため、土塁や石垣、塀などで屈曲していることも多い。

基本的にひと続きの尾根なのだが、曲輪間にはきちんと堀切が切られていたり、細尾根になっていたり。下りも随所に山城らしさを感じながらの道中だった。

最後に駐車場の手前で、こんなものを見つけた。

伝塩冶興久の墓。

塩冶興久(えんやおきひさ)は、尼子家が最大の勢力を誇った際の当主、経久の三男。塩冶家の養子となり、その後も父に従っていたが、享禄3年(1530)に反乱。家中を二分する大騒動に発展するが、最終的には破れて自害。

いわば「不肖の息子」的な存在の興久の墓が月山富田城にあるのは、親の情けか。それとも、時代が下ってから哀れんで建てられたのだろうか。

登山口の木陰にひっそりと、首を傾げたようにたたずんでいた。

『月山富田城』詳細

住所:島根県安来市広瀬町富田/営業時間:見学自由/アクセス:JR安来駅から車15分

取材・文・撮影=今泉慎一(風来堂)

城跡に足を運ぶ時、ただ漫然と本丸に立つ「〇〇城址」碑を目指すのは、実にもったいない。戦国武将か足軽かの視点で、攻め込む。整備された登城路でも、時にヤブを漕いでの道なき道でも、そこが戦国時代に見たてて登れば一転、「城歩き」が「城攻め」に変わる。それだけで、城の楽しみは倍増する。2020年NHK大河ドラマ『麒麟がくる』主人公、明智光秀ゆかりの城へ。せっかくならば秀吉にやられる前に攻め落としてしまおうではないか。読み進めればきっと、「明智の城をいかに落とすか」という視点で、城攻めを疑似体験できるはず。
2020年NHK大河ドラマ『麒麟がくる』主人公、明智光秀ゆかりの城へ。第2弾は丹波国(現在の京都府中部・兵庫県北東部)の山城。八上城は、光秀が落とした城として最も著名。ナメてかかると痛い目を見る、本格派の山城だということ。第1回の明智城と明知城が初級なら、こちらは中級~上級者向けかも。
『麒麟がくる』の脇役で一番話題の人物といえば、本木雅弘演じる斎藤道三、というのは衆目の一致するところ。前回の信貴山城の松永久秀に続く番外編、続いては美濃のマムシ・道三の居城・稲葉山城。後に信長が居城としてからは岐阜城と改名、「天下布武」を唱えた名城でもあり、今後もドラマ内で登場するはずだ。