だが、よく考えてみてほしい。帰宅の道は、ありとあらゆるしがらみから解放された、黄金色のバッファゾーンである。今日の用事はすべて済み、目の前に続くのは自由の地平。そんな帰路を無機質に辿(たど)るばかりだなんて、あまりにも味気がない。我々はもっと、帰宅というアクティビティを全力で楽しむべきだ。
まずは帰宅の歩みを、スローにしてみよう。そして、家にまっすぐ帰るふりをしながら、入ったことのない路地に気まぐれに迷い込んでみよう。時には無意味な迂回(うかい)をしてみるのもいいだろう。家路を急ぐところを、あえて焦らし続ける。そうすることで、これまでの帰宅をゲシュタルト崩壊させるのだ。その先に広がっているのは、もしかしたら未知なる散歩の景色なのではないか。私はごくりと、唾を飲む。
いざ、「帰宅」を覆(くつがえ)せ
新宿での打ち合わせを終え、すっかり日が傾いた頃、私は地元の駅へと降り立った。改札を抜けると、まわりは一刻も早く我が家へ辿り着こうと、険しい表情で足早に歩く人々の波で溢(あふ)れている。普段であれば私もそのムーブに同化し、自宅までの最短ルートを突き進む民の一人となる。だが、今日は違う。深呼吸して、ギアを一段、下げる。
まずは近くのコンビニへと吸い込まれてみる。スーツ姿のくたびれた大人たちが、夕飯であろう弁当やカップ麺を義務のように購入している。その流れに逆らうようにして、私はレジ前の冷凍ボックスからアイスキャンディーを一本、手に取る。栄養補給でも空腹しのぎでもない、ただ純粋にこの時間を楽しむためだけのアイスの甘みが、帰宅を華やかなものにする。自由の女神もソフトクリームみたいなものを片手に掲げているが、つまりアイスとは自由の象徴に他ならない。
そうやって解放感に浸りながら、アイスと共にぶらぶらと帰宅する。
小さな羽音がしたかと思うと、私のTシャツの胸元に、なにかがとまる。緑色のカナブンである。いつもの帰路であれば、即座に指で弾き飛ばしていただろう。最短ルートを急ぐ者にとって、予期せぬ虫の飛来はタイムロスを招く不快なイベントに過ぎないからだ。だが、いまの私は悠然と帰宅を楽しんでいる者である。だから胸元にしがみつくカナブンを、そのままにして歩き続けることにした。帰宅に対して鷹揚(おうよう)になるということは、世界に対しても鷹揚になるということなのである。
細い路地へと足を踏み入れてみると、年季の入った自動販売機を発見する。ラインアップの右下に、「何が出るかな?」と印字された、正体不明の缶が並んでいる。普段の帰宅途中であれば、この「何が出るかな?」という自動販売機からの問いかけは無視しているだろう。帰宅とは、安全に家へと辿り着くことを目的とした行為であり、鬼が出るか蛇が出るか変質者が出るかもわからぬ「何が出るかな?」のボタンを押すことなど、絶対に避けるべき。そんな固定観念に縛られているからだ。しかし、いまの私は帰宅の定義を崩壊させようとしている者なので、「何が出るかな?」のギャンブルに乗らないわけにはいかない。
硬貨を投入し、ボタンを押し込む。ガコン、と鈍い音を立てて転がり出てきたのは、見たこともないミックスジュースであった。右手にはアイスの棒、左手には曖昧な飲料、胸元にはカナブン。従来の帰宅では考えられないような姿となりながら、歩を進める。
カーブを何回も不必要に曲がり、コインランドリーの前で乾燥機の回転をぼんやりと眺め、公園の鉄棒で中途半端に懸垂をして、遠回りをして、寄り道をして、また遠回りをして。私は帰宅を焦らしに焦らした。
自分はいま、どこで何をやっているんだっけ。だんだんと、帰宅がゲシュタルト崩壊していく。そして慣れ親しんでいたはずの帰路が、宇宙のように膨張していく。破壊と創造は表裏一体。帰宅が完全に失われた先にあったのは、途方もなく野放図な、この世界の余白であった。
文・写真=ワクサカソウヘイ
『散歩の達人』2026年7月号より








