ずっと冷蔵庫に貼られているうちに「水のトラブル」マグネットシールはやがて本来の意味を失い、学校のプリントとかを留めるものに成り下がる。それと同じで、ずっとそこにあるものだと認識されているうちに散歩道はやがて本来の価値を失い、ただのアスファルトへと成り下がる。永遠なんてものはひとつもないはずなのに、私たちは勘違いをして、そこにある「ありがたみ」をいたずらに見失う。
だからこそ、ひとつの自己暗示をかけての散歩を決行することにした。「この町にもう来ることはないのだ」と思い込みながらの、イマジナリー散歩である。
今日がこの町を歩く、最後の日。明日には遠く見知らぬ場所へと旅立ち、二度とこの地を踏むことはない。そんな虚構の設定を心の中に抱きながら、切実な顔でスニーカーのひもを結ぶ。
嘘だけど、さようなら、わが町
「さようなら、わが町」。そんな思いと共に、いつもの見慣れた景色へと一歩踏み出せば、架空の惜別であるにもかかわらず、途端にこの町への情が湧き上がってきたではないか。
壁にひび割れが目立つ中古のマンション。雑草の生い茂った空き地。がらんとした運送会社の集荷倉庫。いつもだったら無表情で通り過ぎているだけのそれらの風景が、今日は心の奥底へとジンジン響いてくる。ああ、なにもかもが愛おしい。この町のシーンを目に収めるのは(嘘だけど)これが最後なのだ。もう私はこの町に帰ってくることは(嘘だけど)ないのだ。野良猫が駐車場の隅からこちらへと視線を送っている。見知らぬ猫であり、特別な思いなど寄せたことのない猫でもあったが、「元気に暮らせよ」と声を掛ける。切なさが混じったセリフである。切なさを混じらせる必要がまったくないセリフでもある。
よし、この勢いで少し泣いてみよう。私は目を細め、感傷の渦に飛び込んでみることにした。別れの涙を流すことで、このイマジナリー散歩は完璧なものになるのである。
しかし、どうにも泣けない。眼球はカラカラに乾いている。なぜか。頭の片隅で「いや、実際には明日もこの町にいるしな」という至極まともな現実感がブレーキをかけてくるからだ。これではいけない。足を止め、公園のベンチに座る。そして目を閉じる。もっともっと、自分を追い込むのだ。
私は明日、遠くへ行く。もう二度と、あのコンビニでファミチキを買うことはない。もう二度と、この路地の匂いを嗅ぐことはない。そうやって念じているうち、少しだけ込み上げてくるものがある。その波を逃さないように、『ドラえもん』の感動回を思い浮かべるなどして、さらに自らを煽(あお)っていく。さようなら、ドラえもん。さようなら、わが町。
再び目を開けると、ちょうど夕陽が沈み始めているところだった。空が毒々しいほどのオレンジ色に染まっている。ベンチから立ち上がり、高台のほうへと足を向けてみる。路面を見れば、自分の影が長く伸びている。そのうちに、だんだんと夜の帳(とばり)が降りてくる。気づけば私は、早足になっている。いいぞ、別れがすぐそこまで迫っている感じのする描写ではないか。
高台に立つと、町が見渡せた。窓たちにはぽつりぽつりと光が灯っている。本当に(嘘だけど)、さようなら。ここで過ごした日々の思い出が、胸の中に溢(あふ)れていく。「いつまでもあると思うな、同じ道」。その時、悲しみが一気に盛り上がり、目元にほんの少しだけ涙がにじんだ。架空の設定が、ついに現実の涙腺を打ち破った瞬間である。
その一粒を指で拭い、満足感に包まれながら、私は来た道を戻った。それはかけがえのないものとして成り上がった道であった。
補足だが、私は明日も変わらずこの町にいる。そして明日も変わらず暇である。
文・写真=ワクサカソウヘイ
『散歩の達人』2026年8月号より








