書き残された雑踏事故における活躍
その日、連続テレビ小説『風、薫る』の主人公のモデル・大関和(ちか)は教護班長として10数名の看護婦を指揮して、日比谷公園に設置された救護用テントに待機していた。事故発生の報が届くと「行きますよ」と言って即座に駆け出す。この時の活躍については、和を慕う新宿中村屋創業者の相馬愛蔵と妻・黒光の著書『穂高高原』にも以下のような記述がある。
「女史は救護班長として門弟を率いて詰所にあったが、ただちに駆けつけ、馬場先門の橋の欄干に登り、それを伝うて群衆の真ん中に飛び込み、死傷者を抱き起こして救い出し救い出し、なおも後ろから押し寄せ押し寄せ雪崩を打って来る群衆に、警官の必死の働きも効なしと見るや、『貴官の剣を貸し給え』と絶叫したちいう話は、当時きく人をして感奮せしめたものであった」
と、なんだか芝居めいて勇ましい。トレインド・ナースの第一人者として一般国民にも名を知る者は多く、医学界でも発言力を有するほどの存在になっていた。この活躍が彼女の名声をさらに高めるものになるだろう。しかし、ここに至る道のりは紆余曲折……一時は、看護婦を辞めようと思ったこともあった。
奇跡の出会いで看護婦に復帰、伝染病対策で真価を発揮する
看護婦養成所を卒業してすぐ、帝国大学病院の看病取締役に就任してキャリアをスタートさせたのだが、持ち前の強い正義感と融通の効かない性格が仇となり、医師たちに疎まれ解任されてしまう。その後、新潟県の高田町(現在の上越市)に単身赴任して女学校の生徒取締役として働いたのだが。市中の路上で瀬尾原始(せのおげんし)医師と偶然に再会し、これをきっかけに運命が動きだす。
瀬尾は帝国大学病院では数少ない和の理解者。高田は彼の出身地、地域医療の拠点として創設された知命堂病院の院長に就任することなり帰郷したという。彼は和の力量を高く評価しており、
「うちの病院で働いてください」
と、看護長就任を求めてきた。再び看護婦として働ける場を得た和は、この後、赤痢が発生した村に志願して出向く。ここで隔離病棟の関係改善や感染対策を主導し、致死率を劇的に低下させる成果をあげた。
その頃、東京では親友の鈴木雅(まさ)も帝国大学病院を退職して、看護婦の派遣事業を始めていた。看護教育を受けて実地訓練を十分に詰んだ看護婦を、必要とする人々のもとに送り込む。まだ数が少なく一部の富裕層が独占している状態のトレインド・ナースを一般家庭にまで普及させることで、世間の認知を広げ、医療や看護の質を向上させることにつながる、と彼女は考えていた。そして、
「それには、あなたの協力が必要です」
雅からのオファーに応えて帰京し、彼女が運営する東京看護婦会に合流。会内に併設された看護婦養成所で教鞭を執りながら、自らも派遣看護婦として働いた。
ちょうど、日清戦争の帰還兵が持ち込んだ伝染病が日本各地に蔓延していた頃。和は派遣要請に応えて、赤痢が流行する埼玉県や群馬県の村々に赴き、患者の看護や感染対策をおこなった。
彼女が対策を主導した村ではどこも患者の致死率が5%以下に抑えられた。抗生物質のなかった当時、赤痢患者の致死率は25%前後だったから奇跡的な数字である。
これによって和の名声は一気に高まり、また、世間にトレインド・ナースの存在を知らしめた。看病婦から看護婦へ。かつての悪いイメージは払拭されて、医療の専門職としてその地位が確立されてゆく。
関東大震災で見せた最後の勇姿が、いまなお語り継がれる伝説に
日比谷公園の群衆雪崩事故の救助活動で勇名を馳せた和だったが、その後は持病のリウマチが悪化して、看護の現場からは足が遠のく。この頃は鈴木雅も引退しており、和は東京看護会から分離独立。明治42年(1907)に大関看護会を設立して後身の指導・育成に専従するようになった。
大関看護婦会は当初、神田錦町に家を借りて業務を開始し、やがて飯田町(現在の飯田橋界隈)に物件を見つけて転居した。飯田町は明治28年(1895)には甲武鉄道の飯田町駅(後に飯田橋駅に統合される)が開業して多摩方面へのターミナル駅となり、この頃は宅地化も進んでいた。
その飯田町駅からほど近い場所、神田川に架かる飯田橋を渡って南の方向に少し行ったところに大関看護会はあった。国学院に隣接する路地、そこに立ちならぶ民家4軒をまとめて借りて、2軒を看護婦会の事務所に使い、残りの2軒は看護婦たちの寄宿舎として使っていた。
また、植村牧師も明治39年(1906)には完成したばかりの富士見町教会に移っていたのだが、大関看護婦会から徒歩10分程度の目と鼻の先の近い場所。これも飯田町に移転した大きな理由のひとつだろうか?
大正12年(1923)9月1日、関東大震災が発生した時のこと。震災発生時、和は弟子の看護婦たちと一緒に昼食の最中だった。すさまじい地鳴りがして木造の家屋が上下に激しく揺れ、食卓から落ちた食器が畳の上を転げまわる。当時、和のリウマチはさらに悪化して杖なしには歩けなくなっていたのだが、揺れがおさまると「行きますよ」と言って、被災者の救護活動を陣頭指揮した。
廃墟と化した街を前に呆然と立ちすくむ看護婦たちを叱咤し、瓦礫をどかし臨時の救護所を設置した。杖を持たずにスタスタ歩き、運ばれてきた怪我人を迅速にトリアージして、テキパキと応急処置の指示を出す。日比谷公園の群衆雪崩事故の時に見せた勇姿が思いだされる。その姿は弟子の看護婦たちの目にもしっかりと焼きつけられ、伝説として語り継がれていったという。
この地震では、揺れよりも火災の被害が甚大で、全焼した家屋だけでも約45万戸。大関看護婦会が所有していた4軒の木造建築もすべて焼失した。
しかし、新たに借家を借りようにも金がない。和の貯金は0に近く、借金はあちこちに。困った者を見ると財布の有り金をすべて貸し与えてしまう。おかけでもこの時もほぼ無一文、借家を借りたくとも金がない。
しかし、そんな和を心配して支援の手を差しのべる者も多く、彼らの助力もあり大関看護婦会は本郷弓町に移転して再建される。「金は天下のまわりもの」というのが和の口癖だったが、確かにその通りだ。
昭和5年(1930)に脳溢血を起こして倒れてからは、ひとりで起きあがることが困難になっていた。同居する弟子たちに世話されながらの寝たきり生活だが、持ち前のポジティヴな言動や、大らかで天真爛漫なお嬢さま気質は変わらない。
相馬愛蔵がいつも持ってくる中村屋のクリームパンが和の大好物。内弟子たちと一緒に「おいしいわね」と言いながら頬張り、うれしそうに笑顔を浮かべていたという。
そして、昭和7年(1932)5月22日、和は静かに息を引き取った。享年75。訃報は新聞やラジオでも伝えられ、全国から花輪が届けられた。大関看護会の前には、弔問の人々で何十メートルにもなる長い行列ができている。また、札束で風呂敷がいっぱいになるほどの香典も集まった。その金で生前につくった借金を全額返済したという。和を慕う人々がそれだけ多かったということだ。
取材・文・撮影=青山誠





