【今回のコース】相撲との関わりが深い神社を皮切りに、蔵前~上野のゆかりの地を巡る

今回のコースは以下の通り。

地下鉄浅草線蔵前駅→(3分)→蔵前神社→(2分)→榧寺→(5分)→西福寺→(20分)→佐竹通り商店街→(30分)→誓教寺→(15分)→下谷神社→(15分)→上野公園→(5分)→西郷隆盛像→(3分)→蜀山人の碑→(20分)→東叡山寛永寺根本中堂→(10分)→JR鶯谷駅

相撲との関わりが深い神社から 、宿屋飯盛が眠る寺院へ

今回の散歩の起点に選んだのは、徳川第5代将軍綱吉が元禄6年(1693)に、山城国(京都)男山の石清水八幡宮をこの地に勧請したのが始まりと伝わる「蔵前神社」。最寄り駅は地下鉄浅草線の蔵前駅と同じく地下鉄大江戸線の蔵前駅。両駅は少し離れていて、神社は中間あたりに立地する。

江戸時代には勧進相撲が興行され、その時代を代表する強豪力士の谷風、小野川、雷電などもここで勝負を繰り広げたそうだ。さらに赤穂の義士たちが討ち入りの成功を祈願し、また落語の演目「元犬」ゆかりの神社としても知られている。『べらぼう』とは直接関係がなくても、立ち寄っておきたいスポット。

相撲興行も行われた蔵前神社。
相撲興行も行われた蔵前神社。

蔵前神社から大江戸線の蔵前駅方面に向かうと、春日通りに出る。そんな大通りに面して建つ「榧寺(かやでら)」が、次の目的地。慈昌(じしょう)を開山とする浄土宗の寺院で、最初は正覚寺(しょうがくじ)という名前であった。江戸の町を何度も襲った大火災から、境内にあった榧の木が守ってくれたことから、人々から「榧寺」と呼ばれて親しまれるようになり、後に正式名称になった。

門前に建つ葛飾北斎が描いた榧寺の絵が目印。
門前に建つ葛飾北斎が描いた榧寺の絵が目印。

この寺の墓苑には、国学者・石川雅望(まさもち)の墓が建てられている。「国学者?石川?」と言われてもピンとこない人も多いだろう。雅望は狂歌の名人で、「宿屋飯盛(やどやのめしもり)」という狂名で活躍していた。この名前は、実家が日本橋小伝馬町で宿屋を営んでいたことにちなんで付けた。

蔦屋重三郎(以下・蔦重)と組んで、耕書堂が出版した狂歌本の撰者を何度も務めている。このシリーズの第1回目で訪れた、蔦重の墓がある「正法寺」。そこに建つ「喜多川柯理(からまる・本名)墓碣銘(ぼけつめい)」と「実母顕彰の碑文」と刻まれた顕彰碑の碑文を撰文したのが、宿屋飯盛と大田南畝(おおたなんぽ/蜀山人〈しょくさんじん〉)のふたりなのだ。

墓地の一画にある白壁で区切られた場所にある石川雅望の墓。
墓地の一画にある白壁で区切られた場所にある石川雅望の墓。

何だか再びスタート地点に戻ったようで、不思議な気持ちに包まれた。この墓だけ、白壁に囲われた区画内にあり、特別感が漂っていたのも印象的であった。

徳川家康が開基した寺には北斎を育てた勝川春章が眠る

次に訪れた「西福寺(さいふくじ)」が、蔵前エリアでの訪問スポットのラスト。この寺院は徳川家康を開基とし、通称は「松平西福寺」という。元は家康が本拠としていた駿河国府中(現在の静岡市)に建立されたが、慶長13年(1608)に江戸駿河台に移り、寛永15年(1638)に蔵前に移転。あちこちに三葉葵の紋があり、格調の高さを感じさせる。

本堂の右手に見える建物にも三葉葵が見える西福寺。
本堂の右手に見える建物にも三葉葵が見える西福寺。

本堂に向かって左側に、ひとつだけ大きな墓石が建っているのが目に入る。それは多くの弟子を育てた浮世絵師、勝川春章(しゅんしょう)のもの。役者の顔をリアルに描くことで、勝川派と呼ばれた一大勢力を築き上げた。あの葛飾北斎も弟子のひとり。

北尾重政(きたおしげまさ)と親交があり、揃って蔦重が駆け出しの頃から錦絵本などを出版。耕書堂が勢いづく手助けをしてくれた。墓跡の正面には「勝誉春章信士」という戒名、右側に「枯れゆくや 今ぞいふこと よしあしも」という辞世が刻まれている。

東京都指定旧跡に指定されている勝川春章の墓。
東京都指定旧跡に指定されている勝川春章の墓。

日本で2番目に古い商店街は人気の登場人物ゆかりの地

西福寺からほぼ西へ向かって歩く。道幅はそれなりに広いが、クルマも人もあまり行き来していない静かな街並みが続く。ほとんどがビルだが、なぜか江戸の下町を歩いているような感覚に見舞われた。ついつい周囲を見渡しながら、ゆっくりと歩くこと20分。清洲橋通りの「佐竹通り南口」交差点に至る。

不思議と江戸情緒を感じさせる道をたどる。
不思議と江戸情緒を感じさせる道をたどる。

ここには日本で2番目に古い商店街と言われる、春日通りから清洲橋通りまで続く全長330mの全蓋式アーケードの「佐竹商店街」がある。名前の由来は、もともと出羽国の久保田藩(秋田藩とも呼ばれる)の佐竹家上屋敷が、この地に置かれていたことによる。

明治の世になり、佐竹家の屋敷跡に見世物小屋や寄席、飲食の屋台などが並び、繁華街となった。やがてそんな盛り場が商店街へと発展。今も下町情緒を感じることができる、近隣住民だけでなく、観光で訪れた人にも魅力的なスポットとなった。

日本で2番目に古いという佐竹商店街南側の入り口。
日本で2番目に古いという佐竹商店街南側の入り口。

秋田藩と言えば、蔦重とは切っても切れない縁があり、ドラマでも屈指の人気キャラクターとなった朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ/本名・平沢常富〈つねまさ〉)が仕えていた藩。江戸留守居役という、今で言うところの外交官のようなエリートでありながら、職務を活用し吉原へ頻繁に出入りし、蔦重と顔なじみになる。耕書堂にとって、なくてはならない黄表紙のヒットメーカーであった。

立ち寄りたくなるレトロな魅力を放つお店がいっぱい

佐竹商店街の魅力は、その多様性と温かみのある雰囲気につきる。昭和のレトロな雰囲気を残しつつ、現代のニーズに応える多様な店舗も営業を続けている。が、昭和生まれのバリバリおじさんには、歩いていると昔懐かしい喫茶店やラーメン店ばかりが不思議と目に飛び込んでくる。毎度のことながら、時間配分を考えずに訪れたことを、激しく後悔。

いかにも昭和の雰囲気をとどめる喫茶店を発見。
いかにも昭和の雰囲気をとどめる喫茶店を発見。
絶対においしいはず、と思わせる中華料理店にもそそられた。
絶対においしいはず、と思わせる中華料理店にもそそられた。

そこに救世主のように現れた(正確には自分から近付いて行ったのだが……)のが、どれも“おいしいにきまっているよ”というたたずまいを放つ、昔ながらの煎餅が並ぶ『鳥越せんべい加賀屋』だ。店構えから商品ケースまで、郷愁をそそられる造り。

昭和時代だったら、ガラスケース内の煎餅は包まれておらず、注文するとその枚数か重さ分を紙袋に入れてくれた。1枚ずつビニール袋に入っているという違いがあるが、バラ売りしてくれるのがうれしい。店先にはお買い得なワゴンセール品も並ぶ。散歩途中、小腹を満たすのにこれほど適したものはない。

甘辛、ザラメ、醤油を購入し食べ歩きを楽しむ。2025年で創業97年の味はダテではない、と感心してしまった。残念だったのは、熱くて濃い日本茶がなかったことか……!?

商店街の真ん中あたりに位置する『鳥越せんべい加賀屋』。店構えからして素通りできない雰囲気。東京都台東区台東4-23-3、☏03-3831-9051。
商店街の真ん中あたりに位置する『鳥越せんべい加賀屋』。店構えからして素通りできない雰囲気。東京都台東区台東4-23-3、☏03-3831-9051。
好きな煎餅を1枚ずつ食べ比べてみるのも楽しい。
好きな煎餅を1枚ずつ食べ比べてみるのも楽しい。

蔦重もその才能に着目した葛飾北斎が永眠する寺

思いのほか楽しかった商店街歩きに、30分以上の時間を費やしてしまう。アーケードが終わるとそこは春日通り。大江戸線の新御徒町駅が目の前。つまり蔵前から新御徒町までのひと駅を、大きく迂回しながら歩いたことになる。少し蔵前方面に戻り、左衛門橋通りとぶつかったら左、浅草通りを目指す。

浅草通りにぶつかる少し手前右側にあるのが、葛飾北斎が眠る墓がある「誓教寺(せいきょうじ)」。浄土宗の寺院で、正面に見える本堂の左手には、北斎の胸像が見える。墓所は本堂右手の建物裏にある。注意してみれば、葛飾北斎の墓がどれなのかを案内する立札に気づくはず。

誓教寺の本堂前に建つ葛飾北斎の胸像。
誓教寺の本堂前に建つ葛飾北斎の胸像。

墓所に入るとすぐ、木製の屋根付き囲いがある墓が見える。それが北斎の墓だが、墓石には「画狂老人卍墓」と刻まれている。これは北斎が晩年に使っていた画号。北斎は引越しを93回も行ったと伝わるが、画号も30くらい使っていたという。

屋根付きの立派な墓で眠る画狂老人卍。
屋根付きの立派な墓で眠る画狂老人卍。

誓教寺を後にして、さらに左衛門橋通りを辿ると、すぐに浅草通りとぶつかる。左に折れて、いよいよ最後の目的地である「上野公園」へと向かう。稲荷町駅前に大きな鳥居が見えたので、そちらに向かうと都内で最も古いお稲荷さんの「下谷神社」があった。

創建はなんと730年。これは奈良時代の天平2年というから驚き。大年神(おおとしのかみ)と日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀っていることから、商売繁盛や家内安全の御利益があるという。本殿の天井には横山大観が描いた龍の絵が掲げられている。

都内で最も古い歴史を誇る下谷神社。
都内で最も古い歴史を誇る下谷神社。

最後は東京を代表する観光地、上野公園散策を楽しむ

下谷神社から上野公園に向かうには、JR上野駅を越えなければならない。その手前にも大きな通りがあるので、歩道橋を使い、一気に公園を目指すのが便利。上野駅の上には、手前の歩道橋よりさらに高さがある橋が架かっていて、「パンダ橋」と名付けられている。この橋を渡れば、東京の空も、思った以上に「青くて広い」と実感できるはずだ。

パンダ橋を渡り上野公園へ。空の広さに感激。
パンダ橋を渡り上野公園へ。空の広さに感激。

公園へは東側から入ることになるので、『日本芸術院会館』を回り込むように西郷隆盛像へと向かう。西郷隆盛像を見上げると「上野公園に来た」という実感が沸いてくる。

上野公園で西郷さんの像を拝むことは不可欠。
上野公園で西郷さんの像を拝むことは不可欠。

そこから階段を下り、公園の南側入り口付近に向かう。そこにはかつて、東叡山寛永寺の総門であった黒門があった。彰義隊と明治新政府軍が戦った上野戦争の際に焼けてしまい、現在はモニュメントが建てられている。そのすぐ近くに、蜀山人(大田南畝)の碑がある。

「一めんの花は碁盤の 上野山 黒門前に かかるしら雲」という句が刻まれている。上野は江戸時代でも、桜の名所として知られていた。“訪れてみると黒門前は満開の桜で、まるで白雲がかかったようだ。白と黒と言えば碁盤の上の碁石。碁盤の上ならば上野山”とひっかけた、狂歌の名人らしい発想の飛躍が楽しめる一句。蜀山人は碁も嗜(たしな)んだようだ。

意外と知られていない蜀山人の碑。
意外と知られていない蜀山人の碑。

そして最後に徳川家の菩提寺であった東叡山寛永寺の根本中堂に向かった。かつての寛永寺は、上野公園の2倍の広さを誇っていたのだ。その名の通り寛永2年(1625)に建立された。もともとは徳川幕府の安泰と万民の平安を祈る祈祷寺だったが、4代将軍家綱の頃から将軍家の菩提寺も兼ねるようになり、現在も6人の将軍が眠る霊廟がある。『べらぼう』に登場したふたりの将軍、10代徳川家治(いえはる)と11代徳川家斉(いえなり)もここで眠っている。徳川将軍御霊廟は基本非公開。特別参拝が行われることもあるので、ホームページを要チェック。

寛永寺の根本中堂を参ったらJR鶯谷駅から帰るのが便利。
寛永寺の根本中堂を参ったらJR鶯谷駅から帰るのが便利。

上野戦争により多くの建物が焼失。さらに明治政府から彰義隊を匿ったとみなされ、一度は境内すべてを没収された寛永寺。後に全体の一割のみが返還される。政府に没収された土地が、公園として整備されたのだ。

根本中堂も上野戦争時に焼失し、現在のものは明治期に川越の喜多院本地堂を移築したものだ。とは言えその威厳に満ちた堂々たる姿は、散歩の締めにうってつけであった。

取材・文・撮影=野田伊豆守

2025年の大河ドラマは、江戸時代中期から後期にかけて一世を風靡した版元・蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)が主人公。今で言うところの出版社経営者であり、超一流のアートディレクターである。武将や貴族、憂国の志士などと違い、市井の民の物語という異色の大河ドラマとして開始前から話題に事欠かない。そして第1回目の放送から大いに話題を提供し、視聴者の耳目を集めている。まさに「江戸のメディア王」を扱ったドラマにふさわしいスタートダッシュともいえるだろう。とにかく小気味いいテンポで話が進んでいくようなので、まずは蔦屋重三郎という人物を育んだ吉原という土地の今、東京都台東区を訪ねてみることにしたい。
「べらぼうめ!」主人公の蔦屋重三郎(以下・蔦重)をはじめ、登場人物が度々口にするこの言葉。ドラマのタイトルにもなっているが、もともとは穀物を潰した道具の「箆棒(へらぼう)」からきているとも言われ、意味は「穀潰し」という不名誉なものであったと伝えられている。それがいつしか一般的でない者に対して使われるようになり、転じて「常識では考えられないばかげたこと」や「桁外れなこと」を示す江戸ことばとなっていったとか。実際には「ばかだなぁ」くらいの、軽い意味で使うことも多かった。そして同じ江戸ことばで「何を言っている」を表す「てやんでぇ」と合わせ、「てやんでぇ、べらぼうめ!」が江戸っ子の決まり文句のようになっていく。まぁ大抵が気の短い江戸っ子の、喧嘩(けんか)の前口上という場面でのようだが。
大河ドラマ「べらぼう」を見ていると、毎回その言動が気になって仕方がない人物がいる。ある意味、もうひとりの主人公といっても過言ではない存在。それは江戸時代の天才クリエイター・平賀源内だ。主人公の蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう、以下蔦重)が何か壁にぶつかるたびに、フラリと現れては解決への糸口を探り当てる。平賀源内というのは実に多彩で、そのうえつかみどころのない人物である。もともとは讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)の下級武士・白石家の三男として享保13年(1728)に生まれた。身分が低かったにもかかわらず、藩医の元で本草学を学び、宝暦2年(1749)頃には長崎へ1年間の遊学に出ている。長崎に行くことができたこと自体が謎なのだが、そのうえ何を学んでいたのか記録が定かではない。その後の活躍ぶりから、オランダ語や医学、油絵などを学んでいたのであろうと考えるのが自然だ。
ドラマ『べらぼう』では、次の将軍を選ぶための陰湿な争いが描かれ始めた。第10代将軍徳川家治(いえはる)の嫡男・家基(いえもと)が謎の死を遂げ、さらに真相を突き止めようと動いた老中首座の松平武元(たけちか)も、5カ月後に急死。田沼意次の毒殺ではないか、という噂が城内で広まっていく。そしてドラマでは、意次が懇意にしている平賀源内に調査を依頼。だが確固たる証拠が見つからぬまま、それ以上の探索はかえって事件を拡大させる恐れがあると感じた意次は、調査の打ち切りを決定。真相に迫っていると感じていた源内は憤慨する。そんな源内の元には、怪し気な人物が近づいてくる。
ドラマ『べらぼう』も中盤に入り、個性的な登場人物が次々に登場。現代でも高い評価を得ている芸術家や文化人と、彼らが生み出す作品を世に送り出した稀代のプロデューサー蔦屋重三郎(以下・蔦重)のアイデアが、一気に花開いていく様子が描かれている。その小気味の良い展開に、すっかり虜(とりこ)となってしまった人も多いようだ。安永2年(1773)、吉原五十間道に立っていた「蔦屋次郎兵衛店」を間借りして、書店「耕書堂」を始めた蔦重。本屋としての地歩を着実に固めた後、天明3年(1783)にはついに日本橋の通油町(とおりあぶらちょう)に耕書堂を構えた。“ついに”と表現したのは、ここは鶴屋喜右衛門といった江戸の名だたる地本問屋が軒を連ねる書店街だったからだ。まさしくこの時に、出版界に「耕書堂あり!」となったのである。
ひと昔前の教科書では、田沼意次(たぬまおきつぐ)は“賄賂政治”という言葉と対になって記述されていた。だが大河ドラマ『べらぼう』では、近年見直されてきた改革者としての田沼像に寄せていると思われる。しかも演じているのが渡辺謙なので、切れ者感が半端ない。田沼意次は16歳の時、のちに九代将軍となる徳川家重の小姓となり、父の遺跡600石を継いでいる。家重が将軍職に就くと、意次も江戸城本丸に仕えるようになった。それとともに順次加増され、宝暦8年(1758)には1万石を拝領、大名に取り立てられる。家重が逝去した後も、十代将軍徳川家治から厚く信頼され、出世街道を歩み続けている。そして明和4年(1767)、側近としては最高職の側用人へと出世を遂げた。加えて2万石が加増され相良(さがら)城主となり、さらに安永元年(1772)になると、遠州相良藩5万7000石を拝領し藩主となった。そして幕政を担う老中にまで昇進したのだ。わずか600石の小身旗本が5万7000石の大名になり、しかも側用人から老中になった、初めての人物だ。そんな意次の足跡が残る相良を歩いてみた。
都心のビジネス街は指呼の間(しこのかん)。日中はビジネスマンらしき出で立ちの人々も多く行き交う深川は、それでもどこか昔ながらの下町情緒が漂っている。ここは徳川家康が江戸の町づくりを進めていた慶長年間(1596〜1615)、摂津国(現・大阪府と兵庫県の一部)からやって来た深川八郎右衛門が隅田川河口を埋め立て、深川村と名付けたのが始まり。この地は明暦3年(1657)に起こった「明暦の大火」以後、日本橋や神田にあった貯木場が深川やその東側の木場へと移ってきたことに加え、大川(隅田川)と中川(旧中川)を結ぶ小名木川や仙台堀川などの運河による舟運ルートが確立し、大きく発展。そして膨れ続ける江戸の人口をのみ込んでくれた。今回はそんな深川で、この地と縁が深い『べらぼう』登場人物の足跡を追ってみることにしたい。江戸時代は庶民の町であった一方、郊外には風光明媚な風景が広がっていたことから、粋な人たちが別荘を構えた地でもあった。そんな面影も同時に追ってみよう。
東京から日帰りができる観光地として、内外の観光客から絶大な人気を集めている埼玉県の川越。この街が本格的に整備されたのは、寛永15年(1638)に川越で発生した寛永大火の翌年、川越藩主としてこの地を治めることとなった松平信綱の時代である。“知恵伊豆”と称された信綱は、産業開発や土木事業を推奨。現在に続く川越の発展の基を成した。川越城の拡張も偉業であるが、それ以上に「町割」と呼ばれる都市計画に、優れた手腕を見せた。城下町は武家地、町人地、寺社地という具合に、身分によって居住する区域を定めている。武家地は城の南北と、川越街道沿いを中心に配置された。町人地は札の辻を中心とする通りに展開されていた。
『べらぼう~~蔦重栄華乃夢噺~』の時代、すでに百万都市という世界最大の人口を誇っていた江戸の町。その治安維持を担っていたのが南北の町奉行所である。ドラマには火付盗賊改長官の長谷川平蔵は登場するが、南北の奉行は出てきた記憶がほとんどない(見逃したか!?)。両奉行所が置かれた場所は思いのほか近く、JR山手線で見るとひと駅違い。今回はこのふたつの奉行所跡を、まずは訪ねてみた。