逗子・葉山駅から田越(たごえ)川を渡り図書館へ
現在の逗子・葉山駅はもともと京浜逗子駅と逗子海岸駅という2つの駅を統合してできたため北口と南口が100mほど離れており、ホームと北口改札を結ぶための高架連絡橋が設置されている。北口には書店やカフェ、薬局などが入る3階建ての駅ビル「ニート(Neat)」があるが、取材に来た日は外壁の改修工事のためか足場が組まれていて外観はよく見えなかった。
北口を出ると道路を挟んだ向いに逗子市役所があり、そのすぐ隣に亀岡八幡宮と書かれた鳥居が立っている。境内がなだらかな丘で亀の背中のような形をしていたことから、鎌倉の鶴岡八幡宮に対して亀岡八幡宮と名付けられたという。鎌倉の「鶴」の方は有名だが、逗子に「亀」の八幡宮もあるとは知らなかった。
市役所から逗子大師通りを歩き、田越川を渡る。田越川は逗子市沼間の水源から逗子市内を貫流して相模湾へと注ぐ二級河川だ。この日の取材では田越川に沿って逗子海岸まで歩くルートを予定し、あらかじめいくつかの場所をリサーチしてきた。
橋を渡ると正面に大きな建物が見えてくる。「逗子文化プラザ」と呼ばれる、ホール、図書館、市民交流センター、そして小学校までが一体となった複合施設だ。施設内にある『逗子市立図書館』は、現在のJR逗子駅前にあったカマボコ型の建物が米軍から移管され、同時に600冊の蔵書を受けて「逗子アメリカ図書館」として発足したのが始まりという。
「逗子アメリカ図書館」という名称が気になったので、米軍と図書館の関係について少し調べてみると、戦後GHQは日本国民の民主化や公共図書館の近代化を進めるために米国式図書館「CIE図書館」を日本各地に設置するなど、日本の公共図書館政策に深く関わっていたということを知った(「逗子アメリカ図書館」自体はCIE図書館ではない)。
ちなみに逗子にはアメリカに関係のある施設が現在もある。戦前に旧日本軍の弾薬庫として使用され、戦後米軍に接収された後、住宅や運動場などが建設された「池子(いけご)住宅地区及び海軍補助施設」だ。池子には逗子・葉山駅の一つ手前にある神武寺駅が近く、この日の取材ルートにも組み込みたかったのだが、連載のテーマである「水」のある風景からは若干離れてしまうのと、7月の暑さから断念したのだった。
逗子の「基地のある街」としての側面についてはこれまで何も知らずにいたので、歩きやすい季節にあらためて訪れたい。
正面には海ではなく桜山。かつての別荘地を歩く
逗子文化プラザから横に一本入った住宅地の道を歩く。正面に見える小高い丘のような緑は桜山だ。東京の低地で育つと、これくらいの山を見るだけでもちょっと遠くに来たような気持ちになり、ワクワクする。周りを塀や植栽で囲われた、それなりに大きな家も多く、割と古くからある住宅地なのかもしれない。
再び田越川沿いに出ると、赤い欄干の「仲町(なかちょう)橋」とその向こうに十字架を冠した日本基督教団逗子教会が見えてくる。橋の擬宝珠(ぎぼし)と教会の十字架の組み合わせは珍しい。ちなみに逗子にはこの他にも逗子第一バプテスト教会、逗子福音教会、カトリック逗子教会、日本聖公会横浜教会 逗子聖ペテロ教会がある。逗子聖ペテロ教会以外は戦後に建てられたようだが、市内にこれだけ教会が集中していることに驚く。別荘利用者に外国人が多かったことが関係しているのだろうか。
河口を目指して川沿いをさらに歩く。途中白く細い橋が架かっていたが、おそらく個人宅へとつながっているものらしく、一般の歩行者は渡れないようにロープが張られていた。自分の家専用の橋には少し憧れる。
河口が近づくにつれ、風景から海の気配が感じられるようになってくる。川沿いに点在するカフェは外装が洒落(しゃれ)ていて、きっと海水浴客や近所の常連さんがふらっと立ち寄るのだろうなと想像する。
徳冨蘇峰、徳冨蘆花、国木田独歩……名だたる文豪ゆかりの地
朱色の欄干が目立つ富士見橋が見えてくる。橋のたもとにある「富士見橋と養神亭」と書かれた解説板によると、明治22年(1889)逗子で最初の割烹旅館「養神亭」が開業、その5年後に葉山に御用邸が建てられ、同年に富士見橋も架けられたそうだ。
養神亭のあった場所は現在「渚マリーナ」となっている。ホームページによると神奈川県が行う不法係留船対策の一環として2006年に整備されたという。それほど大きくないとはいえ、何隻もの船が自分の目線よりも高い場所に並んでいる光景は見慣れない。この辺はもう河口にかなり近いので、潮の香りもより強くなってくる。
田越川を挟んだ渚マリーナの対岸に、赤みを帯びた石碑が2つ並んでいる。解説板には「蘆花・独歩ゆかりの地(柳屋跡)」とあり、明治22年(1889)の横須賀線開通と逗子駅開設により逗子・葉山方面へ保養に来る人が増え、国木田独歩や徳冨蘆花もこの地にあった旅館「柳屋」に逗留して作品を執筆したと書かれている。
蘆花の出世作『不如帰(ほととぎす)』は柳屋で過ごした時期に書かれ、小説はベストセラーとなり逗子の名は全国的に有名になったという。蘆花と独歩というなかなかのビッグネームが並ぶ記念碑だが、道路際に立っていてそこそこ車通りもあるせいか、私の他に足を止めて見ている人はいなかった。取材時は平日の午後だったので、下校中の地元の小学生たちがしりとりをしながら碑の前を通り過ぎていった。
河口から、いよいよ砂浜の広がる逗子海岸へ
富士見橋を過ぎるといよいよ河口が見えてくる。河口に架かっているのは1964年の東京オリンピックの道路整備事業の一環として建設された渚橋だ。晴れていれば逗子湾の向こうに富士山が見えることもあるらしいが、この日は徐々に雲が広がってきていたので、海と空の境も曖昧なくらい何も見えなかった。
渚マリーナの側から河口へ向かうと、渚橋の下をくぐってそのまま砂浜まで行けるようになっている。
橋をくぐると砂浜が広がっていて、一気に「海に来た!」という気持ちになる。今年夏を迎えて初めて砂浜を見たので、特に海好きというわけでもないのにテンションが上がる。
目の前に広がる夏らしい景色に気分が昂揚したのも最初だけで、砂浜をスニーカーで歩いていると靴が砂にはまってとても歩きにくく、場違いな格好に次第に惨(みじ)めな気持ちになってきた。海水浴客は当然水着や短パン・ビーチサンダル姿なので、長いズボンにスニーカーで汗だくになっているのは周りを見ても私くらいだ。日陰のない砂浜を歩いていても体力を奪われるだけなので、いったん道路に戻ることにした。
屋敷通りから国道134号へ。披露山(ひろやま)を目指す
逗子海岸沿いを走る国道134号から一本奥に入ると屋敷通りと呼ばれる道に出る。マンションや住宅が立ち並ぶ閑静な通りで、逗子開成中学校・高等学校もこの通り沿いにある。ちなみにクレイジーキャッツの谷啓は逗子開成中・高の出身で、在校中に音楽部でトロンボーンを学んだという。
屋敷通りの落ち着いた景観が気になり後で調べてみると、逗子市内は逗子海岸沿いや田越川沿いの地域が「歴史的景観保存地区」に指定されていて、なかでも屋敷通りは「景観形成街路」として地区の地域性と歴史性を生かした景観を維持することが求められている。先ほどの田越川沿いの住宅の屋根の形状に統一感があったのも、このような景観保存のガイドラインによるものなのかもしれない。
実際、屋敷通りを歩くと立派な生垣や竹垣に囲まれた家も多く、富裕層の保養別荘地として開かれ、文人たちが逗留したかつての逗子の雰囲気を想像できる。
別荘地としてにぎわった逗子も、大正12年(1923)の関東大震災では大きな被害を受けている。液状化によって市街地家屋の90%が倒壊、津波により海岸の洋館は流失し、田越川に架かる木造の橋も流され、逗子町は陸の孤島となったという。
『関東大震災-未公開空撮写真 = Aerial photographs of the 1923 Great Kanto Earthquake:神奈川は被災地だった』(蟹江康光編著、ジオ神奈川)所収、蟹江由紀「相模湾東部の関東大震災」によると、初代駐日ベルギー大使アルベール・ド・バッソンピエール(Albert de Bassompierre)氏は逗子の海でサーフィンをしている最中に地震を経験し、その時に見た被害状況を1931年にフランスの通信紙「Correspondant」に公表している。同論考に引用されている大使の報告には「丘が崩れ、道は波打っていた。入り江の水が地上に溢れ、…泥水となって、すさまじい勢いで川を逆流させていた」「富士見橋まで来た。橋もなければ船もなかった。道や庭の中に船があるのを見た」と、逗子湾から田越川に沿って高台を目指して避難する際に見た光景が克明に記されている。私がさっき歩いてきたルートを遡(さかのぼ)るように、当時の大使は避難していた。
東京や横浜の被害とその後の復興については関連書籍や展示などで見聞きしていたけれど、相模湾を震源とする地震は、逗子を含む三浦半島、湘南、伊豆半島、房総半島と広い範囲に被害を及ぼしたことをあらためて意識させられる。
屋敷通りから国道134号に出て、逗子海岸の北側を目指して歩く。逗子海岸沿いには昭和40年後半まで夏季限定の遊園地「逗子コニーランド」が開設されていたそうで、市が運営するWEBサイト「逗子フォト」に当時の写真が掲載されている。「コニーランド」の名前はニューヨークのコニーアイランドから取ったものだろうか。
WEB上に逗子市出身の石原良純氏が子供の頃に見た逗子コニーランドの記憶について書いている文章があった。
逗子コニーランドには、2大アトラクションがあった。小さい子供は、吊るされた飛行機で鉄塔の周りをクルクルと回る。大きい子供は、なんかカプセルみたいなものに乗り込んで鉄塔の周りをグルングルン回っていた。砂浜と遊園地を結ぶ地下道にはいつも人が溢れ、スマートボール(ピンボールの一種)の白球がカラカラとガラスの上を転がり、クレーンゲームの警戒音が鳴り響く。夏の間じゅう、祭りが続いていた。
(石原良純, 2024年12月,「冬の某海岸でエーゲ海並みの絶景を発見!」, 日経Gooday 石原良純の「日々是好転!ときどきカラダ予報」より)
「逗子フォト」に掲載されている写真には「宙返りロケット」なる回転系の乗り物が写っていて、家族連れが水着姿のまま乗っている。おそらく上記の「吊るされた飛行機で鉄塔の周りをクルクルと回る」乗り物がこれだろう。それほど鮮明ではない白黒写真だが、こちらを向いている子供は笑顔で、楽しそうだ。石原良純氏の文章からも当時の逗子海岸のにぎわいが伝わってくる。
すでになくなってしまった遊園地についての記録は、たとえ知らない場所であっても、どこか感傷的な気持ちになってしまう。
ちなみに観覧車研究家の福井優子氏のブログ記事(「「狂った果実」─コニーランドの観覧車」, 観覧車通信・Kanransha-tsushin)には「逗子コニーランド」を経営していたのは、ローラーコースターや観覧車などの製造で知られる業務用遊戯機器メーカー、東洋娯楽機(後のトーゴ)だったと書かれている。Wikipediaの「トーゴ(日本のエレメカ・コースターメーカー)」の項を見ると、私が子供の頃に通った東京都荒川区のあらかわ遊園の観覧車や、浅草花やしきのローラーコースターも同社製造の機種リストにあり、実は逗子コニーランドと同じメーカーのアトラクションを楽しんでいたようだ。それを知ると、先ほどの感傷もあながち自分と無関係なものではなくなってくる。
134号をさらに北上すると披露山が見えてくる。134号沿いの「浪子不動園地」と呼ばれる公園には「蘆花之故地」と書かれた碑が立ち、134号をはさんだ海上には「不如帰の碑」が見える。「浪子不動」とは山裾に立つ高養寺の愛称で、徳冨蘆花の『不如帰』の主人公「浪子」にあやかってそう呼ばれるようになったという。
“公園“に行きたかっただけなのに……!?
地図で披露山を見ると頂上のあたりに「披露山公園」や「展望台」と書かれていたので、ちょっとした高台の公園を想像して、軽い気持ちで高養寺脇の階段から上ってみることにした。
これが失敗の始まりで、「公園に続く坂道」程度のものだと思っていたのに、実際は鬱蒼(うっそう)とした草木をかいくぐりながらぬかるんだ急勾配の山道を20~30分休みなしに上り続けなければならないという、東京の平坦な低地で育った中年にとってはなかなかのハードなコースだった。
険しい(自分にとっては)山道を登りきり、ようやく開けた空間に出たと思ったら、駐車場だった。そこからまた若干の坂道を上ると、展望台のある披露山公園が見えてくる。園内には展望台のほか小動物や猿を飼育している小屋もあった。先ほどまで前を見通せないほどの草木に囲まれていたので、山頂にある公園の開放感は格別だ。
休憩スペースにあるベンチに座って海側の風景を眺めるが、曇っていたためそれほど遠くまで見渡すことができなかった。うっすらと見えたのは方向的に葉山港だろうか。
この後汗だくでへとへとになりながら、シェアサイクルなどを利用してなんとか逗子・葉山駅まで戻ることができた。土地勘のない地域を自転車で走ると、なんとなく擬似地元民気分を味わえる。帰りに以前TVで見て行きたいと思っていた駅そば『浪子そば』で天ぷらそばを食べて、今回の取材の締めとした。
取材・文・撮影=かつしかけいた
【参考文献・URLなど】
・神社
亀岡八幡宮HP
https://kamegaoka-hachimangu.com/#about
・米軍基地
逗子市公式サイト, 2025年4月,「基地対策」(2025年8月14日参照).
https://www.city.zushi.kanagawa.jp/shisei/keikaku/1005652/1008247/index.html
カナロコ by 神奈川新聞, 2018年8月,「旧軍の弾薬庫から米軍住宅に歴史に沈んだ逗子の村の故郷神奈川の戦争秘話」(2025年8月14日参照).
https://www.kanaloco.jp/news/social/article-751882.html
逗子葉山経済新聞, 2024年9月,「「池子米軍住宅建設反対運動」資料集全7巻 元市長らが逗子市に寄贈」(2025年8月14日参照).
https://zushi-hayama.keizai.biz/headline/882/#
赤星友香, 2022年5月,「【JR逗子】進駐軍の足跡を歩く:池子の森自然公園と旧なぎさホテル」横須賀ぷらから通信(2025年8月14日参照).
https://purakara.com/archives/4735
・文学
逗子市公式サイト, 2024年6月,「逗子ゆかりの文学」(2025年8月14日参照).
https://www.city.zushi.kanagawa.jp/shiminkatsudo/1009632/1009830.html
逗子市・逗子市観光協会, 2023年9月,「太陽の季節記念碑」, 逗子市/観光ワーケーションサイト逗子旅(2025年8月14日参照).
https://www.zushitrip.com/spot/detail_41.html
・景観
逗子市環境都市部まちづくり課, 2010年, 「逗子市の景観計画と歴史的景観保全地区の景観計画(PDF)」, 逗子市公式サイト.
https://www.city.zushi.kanagawa.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/004/903/1-20121205163531.pdf
・関東大震災
蟹江康光 編著, 2016,『関東大震災-未公開空撮写真 = Aerial photographs of the 1923 Great Kanto Earthquake:神奈川は被災地だった』ジオ神奈川.
https://www.pref.kanagawa.jp/docs/j8g/100th/shiryou/81.html
蟹江 由紀・蟹江 康光(ジオ神奈川)・布施憲太郎(三浦半島活断層調査会), 2016,「[講演要旨]関東大震災の地上写真と空撮-逗子町の地盤液状化・津波・がけ崩れ- 」『歴史地農第31号』193(PDF).
http://www.histeq.jp/kaishi_31/HE31_193.pdf
逗子葉山経済新聞, 2021年9月, 「逗子で防災を考えるイベント 関東大震災時の被害もとに説明・展示で」(2025年8月14日参照).
https://zushi-hayama.keizai.biz/headline/514/
Earth Consultants ジオ神奈川 代表 蟹江康光 のホームページ
http://okinaebis.com/
・逗子海岸
逗子市, 2019年7月, 「逗子コニーランド(昭和31年)」, 逗子フォト(2025年8月14日参照).
https://www.zushiphoto.jp/photo_detail.php?serial_no=892
石原良純 , 2024年12月,「冬の某海岸でエーゲ海並みの絶景を発見!」, 日経Gooday 石原良純の「日々是好転!ときどきカラダ予報」(2025年8月14日参照).
https://gooday.nikkei.co.jp/atcl/column/14/091100006/121800127/
福井優子, 2008年5月, 「「狂った果実」─コニーランドの観覧車」, 観覧車通・Kanransha-tsushin(2025年8月14日参照).
http://blog.livedoor.jp/tenbosenkaisha/archives/716668.html







