皆々、息災であるか。前田又左衛門利家である。これよりは前田利家の戦国がたりの刻である! 夏へと移りゆく過ごしやすい今日この頃であるわな。三月、四月と、年度の変わり目から黄金週間にかかる忙しい時季が過ぎてゆるりと息をつける者も多いのではなかろうか。旅行なんぞを楽しむにも誂(あつら)え向きで、皆が活気づくこの春の時季であるが、我らの時代にとってもあることが盛んに行われる時季だったのじゃ。そのあることとは、……戦である!
皆々、息災であるか。前田又左衛門利家である。此度の戦国がたりは、応仁の乱解説の後編である!我らが生きた戦国時代の始まりとなった戦にもかかわらず、詳しく語られることが少ない応仁の乱について話して参るのじゃが、多くの勢力が絡む戦である為に、なかなか説明が難しい戦であるのじゃ。ということで此度は前後編に分けて解説を致しておる次第じゃな!後編となる今回は少しばかり込み入った内容になってまいる。後編を読むにあたって必要となる基礎知識は、前回の戦国がたりにまとめてあるで、まずは入門編である前編を読んでから此度の戦国がたりに挑むがよかろう。それでは応仁の乱解説後編、いざ出陣!!
皆々、息災であるか。前田又左衛門利家である。此度の戦国がたりは、応仁の乱番外編である!前後編では応仁の乱の簡単な流れと、応仁の乱に至るまでの背景を解説して参った。複雑に絡む様々な原因や、権力者たちの思惑を紹介しておって、此度の番外編を読む助けにもなるで確と読んで参るがよかろう。して、此度の戦国がたりでは乱の最中に起きた出来事と、応仁の乱後の日ノ本が戦国時代へと進んで行った理由について話してまいろうと思う。それでは、いざ参らん!!

節目の年を迎える長篠の戦い

して、本年はとある戦が大きな節目を迎える!

日ノ本でも随一の名が知れた戦じゃ。

その戦とは、俗に言う長篠・設楽原の戦いである!

長篠の戦いが起きたのは天正3年(1575)5月21日。

今年で450周年となるのじゃ!

戦の舞台となった愛知県新城市では450年を機にさまざまな催しを致しておるようじゃな。

皆も知る通りこれによって戦の在り方が大いに変わったとも称される戦、此度は450年の節目に改めて長篠・設楽原の戦いについて話を致そうではないか。

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武田軍1万5000と織田軍3万8000が設楽原で相見えた長篠の戦い。

日ノ本でも有数の大規模な野戦であったといえよう。

長篠の戦いについてのくわしき話は以前記しておるで、復習を兼ねて読んで参るが良いぞ!

皆の衆!息災であるか!此度、儂は名古屋を飛び出し、とある場所にきておる!儂が訪れたのは愛知県新城市、長篠・設楽原古戦場じゃ!!写真でわかったものはおるかのう?丁度いま『どうする家康』で焦点が当たっておる長篠の戦い、その舞台となった場所が今も綺麗に整備されておる!!というわけで此度は儂の史跡探訪第二弾、これより長篠・設楽原を紹介して参ろう!いざ参らん!!

此度は長篠の戦いをよりよく知るために長篠で戦った武士たちを紹介いたそう。

久方ぶりの人物紹介の刻である!!

長篠城城主・奥平信昌

此度の主役は奥平貞昌殿。

奥三河・長篠城城主である!

奥平家は元々奥三河を治める山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)が一人で、かつては今川家に属するも、今川家の衰退によって徳川家に与するようになる。

貞昌殿は姉川の戦いに15歳の若さで参陣し功を上げるなど大いに活躍を見せるのじゃが、武田信玄殿による西上作戦が始まると武田軍に飲み込まれる形で武田方に転じておる。

じゃが! その後、信玄殿の死によって武田軍が退却すると再び徳川家に転じて、長篠城を任されることとなるわけじゃ。

ここまでは典型的な国衆の立ち居振る舞いをみせておった奥平家であるが、武田勝頼殿による三河侵攻が始まった折には徳川への従属を貫き、武田の大軍を前に寡兵で籠城戦を展開する。

そもそもこの長篠は、三河から信濃、美濃、遠江と四方をつなぐ交通の要地で、武田家にとっては徳川領の三河と遠江を攻めるにも、織田領の美濃を攻めるにもどうしても落としておきたい場所であった。

しかも武田方にはかつて長篠城を有しておった菅沼家がおったために地理にも明るく、奥平家は苦しい戦を強いられることとなった。

加えて一万五千の武田軍に対して長篠城の兵はおよそ500。

陥落は時間の問題であった。

じゃが! 貞昌殿は城兵の士気を高め、二つの川に囲まれた地の利も大いに生かして粘り続け、ついに織田軍の本体到着まで見事に城を守り切り、その後の戦の行方は皆も知る通りじゃ!

奥平信昌の功績

先にも申した通りこの長篠城は三河を守る上で欠かせぬ城であった。

正に徳川家の分水嶺とも呼べる城であり、もしこの城が落ちていれば日ノ本の歴史は大きく変わっておったことじゃろう。

長篠の戦いで勢いを挫かれその後滅亡への道を進んだ武田家も、この敗戦がなければ徳川を攻め滅ぼすことも現実的となっておったじゃろうし、もしや織田家に肉薄する存在となっておったやもしれん。

少なくとも現世のように徳川殿が天下人となることはなかったであろう。

故に、織田軍の到着まで城を守り抜いた貞昌殿の功績は計り知れぬもので、遠方の国衆にも関わらず、信長様から信の字を賜って信昌と名を改めておる。

信長様が自らの名を下賜するのは珍しく、公家、徳川家、長宗我部家と一部の重臣が賜った他にあまり事例がないことなのじゃ。

信長様が如何にこの戦を重視しておったかがわかるであろう。

信昌殿はさらに徳川殿の長女・亀姫と縁組をして徳川家の一門となって重用されていくこととなった。

信昌殿は数多の戦で功をあげ、小牧長久手の戦いでは猛将・森長可(もりながよし)を相手取って戦を有利に進めるなど、その手腕を見せつけておるぞ!

武田家滅亡後に徳川家が行った武田旧臣の登用や、武田流の戦術や技術の取り入れにも一役買ったであろうと推察されておるし、関ヶ原の戦いでは安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を捕縛するなど功をあげ、10万石を得て、さらに信昌殿の四男・忠明殿は徳川殿の養子となって松平姓と10万石を賜って、奥平家は合計20万石を領するに至ったのじゃ!

 

長篠の戦いは設楽原での決戦が注目されるが、寧ろ長篠城での籠城戦こそが劇的なる戦の見どころであると儂は考えておる!

余談ではあるが奥平松平家は一時は姫路藩18万石を得たこともあって、かの姫路城主でもあったぞ!

終いに

此度の戦国がたりはいかがであったか!!

中々目の届かない良き武士を紹介する我が人物紹介。

おもしろき話が聞けたのではないか?

此度紹介致した奥平信昌殿はあまり描かれることは多くないけれども目立つ経歴をしておる。

調べれば調べるほどにおもしろき御仁であるぞ!

改めてではあるが本年は長篠450年。

この節目に皆も長篠城に訪れてはいかがであろうか!

じゃが、長篠の戦いについての話はこれで終いではない。

此度は織田軍の武将を紹介致したでな、次回の戦国がたりでは武田方の武将を紹介致そう!

長篠の戦い周年月間、もうしばし付き合うが良い!

それでは一旦終いといたそう。

次の戦国がたりも楽しみにしておれ!

さらばじゃ!!

文・写真=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)

皆々、息災であるか前田又左衛門利家である。これよりは我が、「戦国がたり」の時である!!「戦国がたり」では戦国の文化の話や史跡訪問記、人物紹介など歴史にまつわるさまざまな話を皆に伝えておる。本年(2025年)は大河ドラマ『べらぼう』に合わせ、江戸の話も致しておるわな!して、本年度最初の「戦国がたり」となる此度は、ちと難しい話をいたそうと思う。題して「戦国の法律、分国法について」じゃ!皆にもわかり易きようになんとか致すで恐れずについてまいれ。いざ参らん!!
皆々、息災であるか。前田又左衛門利家である。気がつけば弥生、3月であるがまだ寒い日が続くのう。して、先の2月といえば、一年の中で少しばかり特異なる存在の月である。他の月と比べて日数が少ないことや4年に一度の閏(うるう)日があることがその理由じゃ。令和七年は閏日のない平年と呼ばれる年であるがな。無論、我らの時代は現世とは異なる暦を使っておった。じゃが閏年は今とは別の形で存在したのじゃ!!と言った次第で、此度の戦国がたりは我らの時代の暦と閏年について話してまいろうではないか!!