4区・7区(平塚中継所〜小田原中継所)の概要
海から山の麓へ、山の麓から海へと走る4区・7区。特に復路では気温が最も大きく変化する区間といわれている。小田原中継所をスタートする頃は山から吹き降ろす風で冷え込む一方、中盤以降は日が昇って気温が上昇するからだ。
区間距離は往路が20.9Kmで10区間中最短、復路は21.3km。3区後半や8区前半と同様に海沿いをゆくのだが、細かく見ると地味にアップダウンが連続する難しい区間で「準エース区間」と称する声もちらほら。茅ケ崎〜平塚のあたりがいかに平坦な道だったかが地形図を見るとよくわかる。
このアップダウンの正体は一体なんなのかといえば、大磯丘陵。丹沢山地の南に位置し、相模湾との間に広がる丘陵地帯の凸凹が、実際に歩くとなかなかの高低差なのだ。
【平塚中継所〜旧吉田茂邸】趣ある大磯の松並木をゆく
平塚中継所を出発したあとは、それまでとよく似た松林の道が1kmほど。そのまま直進する海岸沿いの西湘バイパスには別れを告げて右手に折れ、すこし離れて並行する国道1号に合流する。さて、この道に見覚えはないだろうか? いや、本シリーズ初登場の場所なのだから見覚えあるわけはないのだが、実際に歩くと「おや」と感じるものがあった。そう、前回藤沢で別れた旧東海道である。
ここからはほぼ、駅伝ルート=国道1号。3区・8区では大半が旧東海道と全く別の道だったが、今回の4区・7区は常につかずはなれずといった具合で進む。早速現れるのが、日本橋から数えて8番目の宿場町・大磯宿だ。
大磯宿は伝馬制が布かれる前から宿場が形成されていた歴史ある宿場町。旅人は前後の平塚宿・小田原宿に泊まることが多く規模はそれほど大きくなかったようだが、湊もあって名所の多い場所だった。明治時代以降には別荘地として人気を博し、大隈重信、伊藤博文、吉田茂、島崎藤村など、各界の偉人がこぞって別荘を建てたとか。
なぜそんなに人気なのかといえば、風光明媚な松並木があり、海水浴ができて、冬は暖かく夏は涼しい気候で……とリゾート地としての魅力があれこれあるからなのだが、それらを生み出した要因のひとつが大磯丘陵という地形。丘(山)が北風を遮ることも温暖な気候につながっているといわれているのだ。山が見えたり海が見えたり起伏ある風景というのもやはり、ペタンコ地形にはない魅力である(平地の悪口ではないので悪しからず)。
しかし、地形の起伏は景色として風情があっても、ランナーにとっては当然アップダウンという障害になる。旧吉田茂邸のそばで旧東海道が山側へしばし迂回するのだが、切り通したと思しき国道1号の坂は名所として名付けたくなるような勾配だった。
【国府本郷の一里塚〜押切坂】谷を越え、坂を下る
不動川を渡って少しすると、国府本郷の一里塚があった場所を通る。前回の遊行寺坂のところでも触れた、街道の両脇に盛土して榎や松を植えた道標である。先ほど一度別れた旧東海道と再び合流するのがここだ。
葛川を渡り、二宮をひたすら南西へ。海岸からは数百m離れているけれど、若干高台なので時折建物の間から海が見える。
途中、また旧東海道がすこし離れる場所があるが、ここは先ほどの旧吉田茂邸とは逆で谷になっている場所。この谷は梅沢川の流路で、橋の下は暗渠だがこれより下流で開渠になっている。旧東海道は山側へと迂回して谷を越し、国道1号は橋をかけて直進しているというわけだ。
迂回している方の旧東海道沿いには、町の天然記念物でもある古い藤の木が有名な等覚院がある。通称・藤巻寺だ。
こんな具合に、4区・7区には国道1号と旧東海道が一時離れる場所がちらほらとあり、それがそのまま地理的チェックポイントになっているというのもおもしろい。早速またルートが別れるところがやってくるわけだが、今回はちゃんと名前のついた名所である。その名も押切坂。
ここは中村川に向かって丘を下るところで、例によって国道1号が切り通しになっていて先に下っていく。
一方、海側をいく旧東海道は、坂を下るより前に松屋本陣の跡なる場所がある。宿場町じゃないのに本陣とは何のこっちゃと思えば、付近は大磯宿と次の小田原宿の中間あたり。この先に坂や川が控えているので、間の宿(あいのしゅく)として「梅沢の立場」、つまりは休憩所が設けられていたのだ。3区・8区では遊行寺坂の前に「影取立場」があったことに触れたのだが、覚えているだろうか? まさにアレと同じだ。
旧東海道の押切坂は最後にワッと下るもんだから、そりゃもうとんでもない勾配。こちらを走って下ろうもんなら膝を痛めてしまいそうだ。
【押切橋〜小田原中継所】難所の川、そして東海道随一の宿場町
押切坂を下ったら、中村川にかかる押切橋を渡り、山と海を左右に見ながら相変わらずアップダウンが続く道をゆく。
国府津駅前を通り過ぎ、森戸川を渡ると、低地になってアップダウンも落ち着いてくる。しかし、これは嵐の前の静けさ。平たい低地があるということは、そこが大きな川の流域であるという可能性が高いということ。ここでも例によって大きな黒幕が現れる。それが、酒匂川だ。
この酒匂橋、勾配という面では1区・10区の六郷橋や3区・8区の湘南トラスト大橋ほどのインパクトはないのだが、広い河川敷で一気に視界が開けて風が吹きつけるのは大きな橋ならでは。そして、旧東海道ではこれまでの川を凌ぐ難所でもある。なんでも、江戸時代には防衛のために船渡しが禁止されていたそうで、川越し人足なる人に肩車してもらったり、台に乗って担いでもらったり、馬で渡ったりしていたとか。大雨で増水すれば当然渡れなくなって足止めを食うこともままあり、多摩川や相模川よりもずっと渡るのが大変な川だっただろう。
酒匂川のあと、さらに山王川を越えると、小田原市街がじわじわと始まる。往路なら正面に小田原城の天守閣が小さく見えてくる頃だ。
小田原城の手前で2度角を曲がり、城の南側をさらに西へ。9つ目の宿場町・小田原宿はまさにこのあたり。城下町であり、箱根越えを控えた場所ということもあって、その規模は東海道随一。90軒前後の旅籠があったそうだ。
小田原中継所となる『鈴廣かまぼこの里』付近まではここからまだ数kmあるのだが、過去82~92回大会はこのあたり(小田原城の南)が中継所で、2017年の93回大会から『鈴廣』付近に戻った。
市街地を通り過ぎて東海道本線の線路をくぐると、海の気配が消え、一気に山が始まる雰囲気になる。早川を左手に、箱根登山線を右手に見ながら、じわじわとのぼりはじめる。
いきなり迫りくる山の迫力に気圧されながら風祭駅近くまで来ればゴール。『鈴廣かまぼこの里』の前が小田原中継所だ。
同じ“相模湾沿い”でも全く違う地形と景色
3区の後半と、4区の前半。駅伝ルートの紹介マップでは、ぱっと見はどちらも「海沿いを走る」ように見える。でも実際は、海風香る防砂林沿いの平坦な道と、山あり谷ありの趣ある街道、全く違う景色が広がっている。4区はテレビ中継を見ている限りだとあまり海を感じられないかもしれないが、実際には常に左手にその気配があって時折見下ろすこともできる。似て非なるどころか、対照的といってもいいほどの違いがあるのが、相模湾沿いのルートのおもしろさだ。
今回は行く手に箱根の山々が見え始め、走って登るわけではない筆者も思わず武者震いした。これは、電車や車で小田原を訪れても感じない、大手町からの道を肌で感じてきたからこそなのかもしれない。駅伝の選手たち、そして東海道をゆく旅人たちは、あの山容を前にして何を思ったのだろう。
次回はいよいよラストの箱根越え。5区・6区(小田原中継所~箱根芦ノ湖)編へ、つづく。
取材・文・撮影=中村こより
参考文献=『箱根駅伝「今昔物語」』(文藝春秋)、『箱根駅伝ガイド決定版2024』(読売新聞東京本社)、『地形がわかる東海道五十三次』(朝日新聞出版)、『箱根駅伝70年史』(関東学生陸上競技連盟)