2区・9区(鶴見中継所〜戸塚中継所)の概要
距離は往復ともに23.1kmと最も長い2区(往路)・9区(復路)は、鶴見中継所から戸塚中継所までの区間で、途中で横浜駅を通過する。特に往路はよく「花の2区」なんて言われる。1区であまり差がつかない状態で襷が渡り、順位が大きく入れ替わったり何人もの選手を一気に追い越す「ごぼう抜き」が見られたりと、レースとしてオイシイ区間なのである。
しかし「花」である一番の理由は、この区間の難しさゆえに各校のエースが出揃うから。体力はもちろんのこと精神力や駆け引きも必要で、公道を走るスポーツならではの障害がぎゅっと詰まった区間なのだ。走るのが難しいということはすなわち、地理的におもしろいということ。ここで地形図を見てみよう。
1区から海沿いの平坦な地を進んでいたコースは、横浜駅前を通過したあと海に別れを告げて丘陵地に分け入ることになる。この丘の正体は多摩丘陵で、そのまま南に下れば三浦丘陵につながる。俯瞰して見ればなんのことはない、三浦半島の付け根に差し掛かったというわけだ。
旧東海道では、ここが日本橋を出て最初の難関と言われることも多い。それは、この丘を越えるために急坂を上る必要があるからだ。ずっと海岸沿いを行けばそこまで高低差なく進めるはずだが、あまりに遠回りだから多少の山は越えるっきゃない。さらに先に待ち受けている伊豆半島の付け根・箱根にも同じことが言える。
【鶴見中継所〜横浜駅前】神奈川湊と横浜市街を走り抜ける
鶴見中継所を出た後も、鶴見川を渡る橋で若干の勾配はあるものの、地形としては平坦な道がしばらく続く。
このあたりの旧東海道はといえば、駅伝コースと厳密に同じではないもののつかず離れずといった具合。途中、生麦事件の碑がある鶴見区生麦1丁目あたりからしばし重なり、横浜駅周辺のにぎわいの気配が現れてきた青木町周辺で内陸側へ。なぜ旧東海道が内陸側をまわるのかといえば、なんのことはない、横浜駅周辺はもともと海(入り江)だったから。埋め立てられ開発されたおかげで、駅伝コースは今の道を保土ケ谷方面へ進むことができるのだ。
そのため駅伝コースからは離れてしまうが、横浜駅西口付近にあったのが3番目の宿場町である神奈川宿。言わずもがな県名の由来になった地で、陸運・海運両方を兼ね備える神奈川湊があった。
幕末期、諸外国から開港するように言われていたのはこの神奈川湊だったが、幕府は東海道沿いの港を開港するのを嫌がった。交通の肝である街道へ、入港した外国人がドンドコ流れ込むとなれば穏やかには済まないだろうというわけだ。そこで幕府は「横浜港でいいでしょ、一応神奈川湊の一部だし」と屁理屈をこね、東海道からは少し離れた横浜(現在の大さん橋のあたり)を開港することになったそうだ。
よりみちスポット JR鶴見線国道駅
お散歩目線でいえば、JRの鶴見駅・京急本線の京急鶴見駅を通り過ぎて少ししたところにある国道駅が外せない。今進んでいる国道15号とJR鶴見線が交わる場所にある高架駅で、ネーミングもそのままこの国道15号が由来。昭和5年(1930)開業当時の雰囲気が残っており、なんとも渋い様相を呈しているとあって鉄道ファンからの人気も高い場所だ。
【高島町〜権太坂】勝負の時は来たり! 今も昔も難所の権太坂
横浜駅前を通り過ぎ、高島町のカーブを越えればコースは再び直線になる。
保土ケ谷まで、国道1号をひたすら南西へ。途中東海道本線もそばに見えて一見穏やかな道のりなのだが、これは嵐の前の静けさ。うっすらと上り坂になり、保土ヶ谷橋の交差点に差し掛かると、うっ、道の先に丘がそびえている……!
コースは交差点を右に折れるのでこの丘を直登するわけではないのだが、標高でいえばこれからあの高さまで上ることには違いないのである。いよいよ来たな、と身が引き締まる。
交差点を曲がると、ここでまた旧東海道と合流。そして、このあたりが4番目の宿場町・保土ケ谷宿だ。
日本橋を出発した旅人たちが最初に泊まるのはひとつ先の戸塚宿が多かったようだが、足腰の弱いお年寄りや女性はこの保土ケ谷宿に泊まったらしい。保土ケ谷宿と戸塚宿は客の取り合いをしていたとかで、その様子が『東海道中膝栗毛』にも出てくるほど。
「お兄さん、いい宿ありますよ。この先は急坂なんで超キツいっす。保土ケ谷で泊まっていった方がいいっすよ」とキャッチが駅伝選手を客引きする妄想をしてみたが、もちろん選手は宿など求めていない。ただ挑むのみだ。何に挑むかって? かの有名な難所であり勝負所の急坂、権太坂である。
狩場ICを過ぎたあたりから、“分け入っていく”感が満載のゆるくクネクネとカーブが続く道は、なるほど足に堪える長さ。坂の終わりが見えないので、いつまでがんばればいいのかわからないのもメンタルにくる。途中「権太坂上」という交差点があるが、その先もまだ上りが続くので勝手に騙された気分になってしまう。
ちなみにこの道が権太坂と呼ばれているが、旧東海道はその手前で分かれ、国道1号よりも少し北を進む。同じ丘を越えるため、坂を面で捉えるならば権太坂には違いないのだが、坂を線(道)で捉えるならばここは本来の権太坂ではないということになる。じゃあ本物はどうかというと、住宅地と高校の間を上ってゆく、こちらの道。
国道1号は丘陵のなかの谷を走っていて切り通しもあるのだが、旧東海道の方は尾根道。坂を上り切った峠はかなり高台で気持ちがいい。実際、かつてはここから富士山や神奈川の海も見えたそうだ。
箱根駅伝のコースが旧東海道をベースにしているのは冒頭でも触れたが、当初は現在よりもずっと旧東海道に沿ったルートだった。大正9年(1920)の第1回大会の時は権太坂も“本来の方”を通っていて、昭和12年(1937)の第18回大会から現在の新道に移ったとされている。
【不動坂〜戸塚中継所】戸塚の「壁」って一体なんだ?
さて、国道1号の方に戻ろう。権太坂を上り切ったかと思えば早速下りがあり、上った分の標高の半分以上を下ることになる。
かすかなアップダウンが続き、柏尾川を渡る赤関橋を越え、「不動坂」という信号の分岐に至る。ここで駅伝コースは国道1号のバイパスに入るのだが、歩道がなく交通量も多めで危険なので、今回は戸塚中継所まで別ルートを行くことにする。同じく国道1号で、戸塚駅を通る道だ。
しかし、この別ルートが「撮影の都合上、仕方がない代替案」かといえばそうではない。現在の駅伝コースであるバイパス「戸塚道路」は1955年に開通したもので、バイパスができるまでは駅伝も戸塚駅のそばを通るこちらの道を走っていたのだ。
この旧コースには致命的な欠点があった。それが、前回(1区・10区)でもちらりと触れた「戸塚大踏切」である。戸塚駅の北側を通るこの道は、東海道本線などの線路と交わることになる。交通の要同士がぶつかるのだから必然的に開かずの踏切となり、駅伝のレースにも大いに影響が出た。踏切で足止めを食らっている間に後続選手に追いつかれ、戸塚中継所でデッドヒート……なんて場面もあったとか。
駅伝コースがバイパスに移ったことで踏切という心配ごとは解消したわけだが、その代わりに現れたのが凸凹地形を上り下りすることで繰り返されるアップダウンだ。特に近年よく言われる表現が「戸塚の壁」。「壁」って一体なんだよ!? と思うが、戸塚中継所の直前に待ち受ける勾配、つまりは「坂」だ。じゃあなぜ「坂」と呼ばず「壁」なのかと言えば、権太坂よりも急であり、20km走ってきた選手の前にドカンと立ちはだかる絶望感があるからなのだろう。
また、バイパスによる勾配なので権太坂のようにもとの名前がないことも、駅伝独自の呼び名がついた要因かもしれない。
そうして、ラストでヒイヒイ言ってからようやくたどりつけるのが戸塚中継所。走ってもないくせに古谷商事前で倒れ込みたくなった……というと駅伝選手に叱られそうだが、厳しい「花の2区」を少なくとも数%は実感できたように思う。
ランナーでなくとも“難所”を実感する区間
港をかすめて丘陵地に入ってゆく2区、激しいアップダウンから始まって港へ下りていく9区。道が海沿いを離れるだけで、一気に勾配が増えて道も曲がりくねるコースだ。東海道をゆく旅人にとって難所だった場所は、駅伝の選手にとってもやはり難所。さらには、交通インフラにとっても難所だった歴史も垣間見えた。
ところで、大雨に見舞われ凍え切った前回(1区・10区)とは対照的に、今回は最高気温36度の猛暑日に撮影と実踏調査を敢行。戸塚中継所にたどり着いた頃には、汗が目に入って視界がにじんでいた。この記事を見て「同じように駅伝コースを歩いてみたい!」と思われた奇特な方がいらっしゃるのであれば、夏季のおでかけは断固避けることを強くおすすめする。
次回、3区・8区(戸塚中継所~平塚中継所)編へ、つづく。
取材・文・撮影=中村こより
参考文献=『箱根駅伝「今昔物語」』(文藝春秋)、『箱根駅伝ガイド決定版2024』(読売新聞東京本社)、『地形がわかる東海道五十三次』(朝日新聞出版)、『箱根駅伝70年史』(関東学生陸上競技連盟)