そもそもなんで箱根を走るの?
駅伝ファンでもなければ陸上部だったわけでもないそこのアナタは、「なんでまた好き好んでこんな山道を走んねん……」とお思いでしょう。筆者もかつては思っていた。しかし、なにも彼らがマゾヒストなわけではなく、日本のマラソンのレベルアップのために創設されたというのがその理由だ。
発案したのは日本人初のオリンピック選手・金栗四三。明治45年(1912)のストックホルム大会にマラソン代表として出場したものの途中棄権、世界の力を思い知り、日本のマラソンの技を磨くために考えたのがリレー方式の駅伝競走だった。じゃあどこを走ろうかと考えるなかでアメリカ横断(!)という案もあったそうだから恐れ入る。最終的に、ロッキー山脈には及ばないものの、足を鍛えるのにもってこいの地として選ばれたのが天下の険・箱根。世界を見据えていたからこそ、わざわざ険しい道を選んでいるというわけなのだ。
ちなみに、箱根駅伝がスタートする3年前には「東海道駅伝徒歩競走」なるものも開催された。関東組と関西組の2チームに分かれ、京都・三条大橋から東京・上野の不忍池まで516kmを23区間に分け44時間かけて襷をつないだというなんとも勇ましい企画。ざっくり東海道を走るという点では、箱根駅伝の原点ともいうべき大会だったといえる。
そんなこんなで、東京から東海道を走り箱根・芦ノ湖まで行って帰ってくるという箱根駅伝が誕生したのが大正9年(1920)。当時は中継地点のほかには審判などおらず、もちろん中継車の並走もないので、箱根の山にどんな近道があるかと各校は秘策を練ったとか。さらに、第1回大会ではスタートが13時で、箱根の山を登る頃にはあたりは真っ暗。同級生が懐中電灯を持って選手と一緒に走り、行く先を照らしたそうだ。いやはや、さぞかし過酷なレースだったことだろう。
1区・10区(東京・大手町〜鶴見中継所)の概要
ほかの区間に比べると起伏が少なく直線の道がほとんどで、比較的走りやすいと言われているのがこの1区・10区、東京大手町~鶴見中継所の区間。読売新聞ビルから日比谷通りを下って国道15号、いわゆる第一京浜に入り、鶴見中継所までそのまま南下する。品川駅のすぐ南にある新八ツ山橋と、多摩川を越えて神奈川県に入る際の六郷橋が、この区間内で際立って目立つ起伏だ。特に往路の六郷橋は1区終盤に待ち構える急勾配なので、区間一番の勝負ポイントでもある。
また復路は往路とコースが異なり、日比谷通りを北上する途中で東に折れ、東京駅の八重洲側を回り日本橋を渡ってスタートと同じ向きでゴールする。往路は21.3km、復路は23.0kmだ。
【大手町・読売新聞ビル前〜品川駅前】往復で異なる見どころ満載
スタート地点でありゴール地点でもあるのが、この大手町・読売新聞ビル前。
第1回大会は有楽町の報知新聞社前、第2・3回大会は日比谷公園内の音楽堂前……と発着点は過去何度か変わっていて、第二次世界大戦中の昭和18年(1943)には靖国神社の大鳥居前が発着点になったこともあったとか。ちなみに復路が前述の日本橋経由になったのは1999年からで、それを機に発着点が読売新聞社南側のこの場所になって今に至る。
あ、ちなみに「1区・10区」と書いてますが、この記事では基本的に往路(1区)の向きでコースをたどりますんでご了承くださいね。
日比谷通りに出て南下して行くと、西側には皇居外苑、日比谷公園、増上寺、芝公園とその向こうに東京タワー……と続々目印が登場。どことなく「はとバス」気分も味わいながら歩ける。
【新八ツ山橋〜鈴ケ森】東海道の名残が次々に
国道15号に入り、品川駅を通り過ぎたあたりでやって来るのが区間No.2の勾配ポイント・新八ツ山橋だ。
この勾配は、八ツ「山」だから……というよりは、大きな「橋」だからという方が正しいのだが、とはいえすぐ脇は「山」でもある。かつて品川の海に突き出す岬が8つあったというのが「八ツ山」という地名の由来で、地形を見ればなるほど「岬」であり「山」であることがよくわかる。
新八ツ山橋の手前(北側)には八ツ山橋もかかっており、日本初の鉄道が新橋~横浜間に開業した明治5年(1872)に架けられたもの(その後、何度か架け替えられている)。当時はまだまだ品川駅が海岸きわきわにあったことを実感できる。ちなみに、八ツ山橋は映画『ゴジラ』(1954)で東京湾から上陸したゴジラが最初に壊す橋としても知られている。
話も物理的にも横道に逸れるが、ここで東海道に注目してみよう。国道15号に入ってから合流していた旧東海道はここで駅伝コースと分かれ、八ツ山橋を渡って北品川商店街の方へと下ってゆく。京急本線の北品川駅から青物横丁駅あたりまでの旧東海道沿いが、東海道五十三次の最初の宿場町・品川宿のエリアだ。
品川宿はいわば江戸の出入り口、全長2.4kmに1600戸もの家や店が軒を連ねていたといわれている。花街としてもにぎわい、「北の吉原、南の品川」と称されるほど。駅伝の第1回大会の頃は遊廓も残っていたという。
同じく第1回大会の頃の風景として「鈴ケ森を越えたあたりには杉並木が残っていた」という証言もある。東海道沿いにあった鈴ケ森刑場の遺跡が国道15号沿いの大経寺境内にあり、京急の高架をくぐった先、鈴ケ森交差点付近には供養碑も立っている。
また、そこから少し南に下った平和島駅のあたりで国道15号がうっすらと西に折れる。このあたりはちょうど、海沿いを通っていた東海道が海岸線を離れ内陸に入っていくところだ。駅伝コースはそもそもあまり海の気配を感じられないけれど、ここからしばし東京湾に別れを告げることになる。
よりみちスポット『せんべい処 あきおか』
品川宿に立ち寄るならぜひとも買って帰りたいのが、明治28年(1895)創業『せんべい処 あきおか』の品川巻。細長いあられに海苔を巻いた、いわゆる海苔巻きせんべい。かつて品川といえば海苔だったという歴史がそのまませんべいの名前に残っているわけだ。この店の品川巻は比較的あられが細めで海苔が厚い。筆者はこれが大好物で、まだまだ先が長いのにいくつも買い込んでしまった。
【京急蒲田駅前〜鶴見中継所】いつの時代も川を渡るのは大変
往路でいうとスタートから約15km地点に現れるのが、北品川からずっと並走していた京急本線の京急蒲田駅。駅伝好きにはもはや説明するまでもない話だが、この駅前には2012年に高架化するまで京急空港線の踏切があった。遮断機に阻まれて足止めを食ったり、線路に足をとられて転倒したりと、箱根の山とは角度の違う“難所”だったのだ。
ちなみに最も最近まであった踏切がここなのでおそらく一番有名なのだが、1955年にバイパスが開通するまでは戸塚の踏切も駅伝コースに立ちはだかっていた。詳しくは2区・9区の記事で書きたいと思う。
蒲田を過ぎ、六郷に入ると今までにない直線の道が続く。多摩川が大きく蛇行する部分の内側にあたるこのエリアは、江戸時代には六郷用水なる水路が網目のように張り巡らされていた場所。今はそのほとんどが埋め立てられてしまっているが、散策路が整備されているところもあって一部は跡地をたどることができる。
長い直線の先に現れるのが、多摩川にかかる六郷橋。この区間で一番の起伏があるポイントだ。歴史をたどると、初めてここに橋が架けられたのは江戸時代、東海道を整備した徳川家康の命によってのこと。しかし、川の氾濫で何度も流されてしまったという。こりゃやってられんとなったのか、まあ関所代わりにちょうどいいやとなったのかは諸説あるようだが、しばらくは橋がなく渡し舟で越えるしかない期間も長かった。橋が復活したのは明治時代に入ってからだ。
現在の橋は1984年に完成したもので、全長約440mあるうえに勾配もなかなかキツい。現代においても、やっぱり川を渡るというのはひと苦労である……。
六郷橋を渡り切ると、東海道五十三次ふたつめの宿場・川崎宿に入る。東海道の制定から22年遅れて仲間入りした宿場町で、品川宿と神奈川宿の間が長かったために後から追加で制定された。
このあたりは多摩川と鶴見川の氾濫原で、そのなかでも若干の微高地である自然堤防に沿って東海道が通っている。
川崎を過ぎればまもなく鶴見中継所。この前後から国道15号には側道が現れ、中継でおなじみの景色になってくる。復路(10区)では繰り上げスタートになる場面も多く、筆者の新年初泣きがたいてい毎年1月3日のテレビ前なのはそのせいだ。
変化に富む、かつて海岸だった道のり
東京都心から始まり、品川で武蔵野台地の先端をかすめ、多摩川低地を突っ切って東京都から神奈川県へ。起伏は少ないものの、景色は大きく変わるのが1区・10区の道のりだ。
現在はあまり海を感じられない場所も、かつて海沿いの道だったと知って歩けば一味違う。電車や車で何気なく渡っていた多摩川も、自分の足で渡るとその川幅に圧倒される。
余談だが、撮影と実踏調査に出かけた日の夕方、バケツをひっくり返したような大雨に見舞われた。傘も持たず、雨宿りできる場所もないタイミングで、見事に全身びしょ濡れ。暖かな初夏の日だったが雨のあとはぐっと気温が下がり、ガタガタ震える筆者の前に無情にのびる長い道……。こんな時でも進んでいたであろう駅伝の選手たち、そして東海道を歩いた旅人たちに、思いをはせずにはいられなかった。次回の箱根駅伝は、いろいろな意味で涙なしには観られないかもしれない。
次回、2区・9区(鶴見中継所~戸塚中継所)編へ、つづく。
取材・文・撮影=中村こより
参考文献=『箱根駅伝「今昔物語」』(文藝春秋)、『箱根駅伝ガイド決定版2024』(読売新聞東京本社)、『地形がわかる東海道五十三次』(朝日新聞出版)