皆々、息災であるか!前田又左衛門利家である。此度の戦国がたりは久方ぶりの史跡探訪である!!此度訪れたは今、大いに盛り上がっておる関ヶ原古戦場じゃ!大河ドラマ『どうする家康』にてこの地で起こった大戦が描かれている。世界三大古戦場にも数えられ、世界に轟くこの地は訪れたものを楽しませるよう様々に整備がなされておる。早速紹介致そうではないか!
皆々、息災であるか前田又左衛門利家である。 ついに、『どうする家康』にて秀吉がくたばった。これにより天下の情勢は誰にも読めなくなって参ったわな。秀吉の後継である秀頼様はまだ幼く、誰が実権を握るのか強欲なる諸大名は舌舐めずりを始めた頃合いである。そんな此度は秀吉死後の天下の趨勢や起こった問題について話して参ろうではないか。そして、秀吉の死後の混乱を収めるべく奔走し力尽きた儂(わし)、前田利家の最期の大戦についても記して参ろう。では、いざ参らん!!

秀吉の死後。徳川の時代へ

皆は我が室である芳春院、まつのことは知っておろうか。

儂とまつは戦国において実に仲の良かった夫婦として現世にも伝わっておると聞く。

戦国がたりにおいては始めの頃に少し触れたまま、それ以降は紹介致さんかったが、我が生涯を誠に献身的に支え続けてくれておったのじゃ。

まつは気丈で気遣いができ、淑やかさの中に芯の強さがあるおなごで、信長様にも秀吉にも、そして徳川殿にも一目置かれる存在で儂の自慢の妻であった。

 

何故急にまつの自慢話を始めたかと申せば、儂の死後、徳川殿の時代になってからまつにとっての大戦があったから、である。

話の経緯から順に語ると致そう。

前田家が居ぬ間に起こった、徳川殿のクーデター

儂は秀吉の死からわずか一年でこの世を去った。

その後を継いだのは嫡男・利長であった。

若くして徳川殿の他、老獪な五大老と渡り合ってはおったが、徳川殿の強い勧めもあって領国の加賀に戻らざるを得なくなる。

何か領国の問題に対処する必要があってのことであろうが、儂の死による混乱のためやもしれぬな。

 

ここで問題となるのが、前田が大阪城、徳川が伏見城で政務を行う権力の分散の仕組みが崩れたことじゃ。

これを好機と思った徳川殿は伏見から大阪城に入る。三万の軍を従え入城したのじゃ。これは徳川が天下を治めると宣言するに等しい行いであり、政変即ち現世のクーデターともいえる暴挙であった。

この行為により正式に徳川殿は大阪城で政務を取り仕切ることとなったのじゃが、無論これには納得できぬ者も出て参った。

これは秀吉の遺言に背くものであり、『どうする家康』でも三成が憤る様子が描かれておったわな。

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利長も無論これについては思うところがあったであろう。

辛うじて繋いできた分権の制度を自らの居らぬうちに大阪城と共に奪われたのじゃ。

更に徳川殿は利長や加藤清正といった不満をもちそうな諸将に対し、「上洛は不要である」旨の手紙を出しておったのじゃ。

上洛すれば叛意と捉えられかねんでな、苦言を呈しに上洛しようとした者を抑えて専横を始めたのであった。

利長も上洛すべきか悩んでおったが、まだ徳川殿と良好な関係であった石田三成と大谷吉継が徳川殿の命によって加賀との国境に兵を配備し前田家は動きを封じられてしもうた。

 

話し合いを求めておった利長はこれにより、徳川殿と敵対するか従属するかの二択を迫られることとなる。

まつの決断と戦い

前田家中の意見は抗戦派が多く、面目を潰された利長自身も、儂の顔を立てる意味でも戦わねばならぬと思うておったようじゃ。

じゃが、この家中の憤りを収めたのが、まつであった。

家の存続を第一に考えたまつは自らを人質として徳川殿に差し出すことで、両家の不和を解消し、前田家を守ろうと考えたのじゃ。

 

危ない橋を渡るのではなく、徳川殿に降ってでも家を残す。儂と共に戦国をかけた荒武者たちでは思いついても言い出せぬ決断であった。

母の意図を汲んだ利長によって徳川殿に使者が送られ、まつは江戸へと降ることとなったのじゃ。

 

まつの判断が家を救ったのは関ヶ原の時も同様であった。当時まつは江戸におった。

前田家は関ヶ原の戦いで東軍方として畿内の西軍に睨みを効かせる役割を担っており、この功が認められ、大きく領土を加増されて百万石の大大名となることが叶ったのじゃ!

まつが江戸におったからこそ前田家は断固として徳川方を貫くことができたのであり、これがなければ前田家の親類である宇喜多家の要請に従って西軍方になっておったやもしれんわな。

 

皆は前田が西軍となった関ヶ原も見てみたいであろうが、やはりこれも前田家を残す意味では良き判断であったと言えよう。

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まつは徳川殿から不便なく落ち着いた暮らしができるように取り図られておったが、江戸に降ってから十五年、一度も加賀に戻ることは許されず、病を拗らせ京で静養しておった折にも立ち寄りが叶わず、長きに渡る人質生活を送った。

大坂の陣の直前に利長の死をもって金沢に帰ることが叶うが、多くの子たちは先立っておってその後も生涯を終えるまで寂しく暮らしたと聞いておる。

自らの身を切って家を守った、まさに武士の模範となるべき姿を主として誇らしく思うと共に、大いに苦労させてしもうたことはまつに申し訳なく思う。

 

じゃが、加藤や福島、池田などの大大名たちが幕府の怒りを買って改易や減封の憂き目に合う中で領国を減らされることなく幕末まで続き、現世でも家が続いておることに礼を申した方がまつは喜ぶのであろうなと儂は思うておる。

大河ドラマにおける我が嫡男・利長について申す

此度は長々と嫁自慢をしてしもうたが、戦わぬという大戦をやってのけたまつのことを皆が知ってくれたらば誠にうれしく思う。

最後に蛇足となるのじゃが、『どうする家康』において我が嫡男・利長がちと小物に描かれておった。

徳川殿に怯えたり、関ヶ原では金に目を眩ませておったわな。

じゃが決してそんなことはないと儂から申しておく!

老獪で3倍以上の石高を持つ徳川殿に怯まず対峙し、和平の交渉をしながらも万が一の戦に備えて軍備をしかと整え、従属に際してもまつの江戸行き以外の不利な条件を排して徳川殿との関係を改善したのじゃ。

作中で徳川殿暗殺計画の首謀者のような描かれ方もしておったが、あれは脚色であって話し合いでことを為そうとしておったと聞く。

金に目を眩ませたのはきっとケチ大名で有名じゃった儂の話をなぞったのであろう。

ただ戦国の時代では日和ったと嫌われ、関ヶ原で西軍に味方し浪人となった立花宗茂殿を重臣として迎え入れようとした時には「臆病者の下にはつかぬ」と断られたと聞くで人気はなかったのであろうな。

じゃが、己の誇りを傷つけられても家のために鉾を収めた判断は、現世を生きる皆々は難しく、そして正しい判断であったと感じるのではないかのう。

もしそうであればうれしく思うわな。

終いに

いずれにしても、まつと共に家を守った利長も皆に知ってほしい思いである。

さて、この大河ドラマ『どうする家康』を語ってきた戦国がたりにおいて我が前田家の話をするのは最後であろう。

徳川殿と深く関わった我が前田の家について皆が知る良ききっかけとなったならばうれしく思うぞ!

じゃが、『どうする家康』はまだ続くで、次は久方ぶりの人物紹介の巻でも記して参ろうかと思うておる!

 

それでは此度の戦国がたりはこれにて終い。

また会おう、さらばじゃ!!

文・写真=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)