秀吉死す、次なる天下人は誰じゃ

秀吉がこの世を去って先ず問題となるのが、「誰が秀頼様を支えるのか」であった。

誰が天下を奪い取るのか、ではなかったわけじゃ。

 

日ノ本の歴史を紐解いてみれば大きな政治争いの多くが、主君ではなく、それを支え操ることができる二番目の立場をめぐって起きておる。摂関政治や執権政治が代表的であるな。

秀吉も信長様亡き後、後継者に幼い三法師様を据えることで三法師様に代わって政を己の都合の良きように進めていくことができた。

古き権威を駆逐して新たな支配体制を築くのは中々骨が折れる作業である。

既存の支配体制に則った形で政治を進めればその苦労なしに覇権を握ることが叶うわけじゃな。

秀吉はこの補佐を装った主権の簒奪を恐れて、秀頼様が政治を担えるようになるまで合議制による支配制度を定めた。

これがいわゆる『五大老・五奉行』の制度じゃ。

五大老が徳川家康殿、儂・前田利家、毛利輝元殿、宇喜多秀家、上杉景勝殿の大大名による合議制により政治の判断をする役割。

五奉行が石田三成、浅野長政、前田玄以殿、増田長盛殿、長束正家殿、それぞれ秀吉の下で政務を実行してきた面々が五大老により定められた政策を実行していく役割であった。

 

五大老・五奉行と、大大名

この制度について正しい例えかはわからぬが、五大老が大臣、五奉行が官僚と考えればわかりやすいであろう!五大老の一人が反乱を起こそうとしても残る4人で抑えることができるな。

更に秀吉は、儂を秀頼様の傅役(もりやく)即ち後見役に定め、徳川殿には政治のまとめ役としての立場を与えた。

儂は大坂城にて秀頼様を養育し、徳川殿は伏見城にて政務を執り行うこととなったのじゃ。

これには二大派閥であった儂と徳川殿が領国に返り戦の準備をすることができぬよう、大坂に留めおく為の仕組みでもあった。

大大名が互いを牽制し合うこの制度に加え、大名同士が勝手に婚姻関係を結ぶことを禁じるなど多くの対策を講じたのじゃった。

じゃがそんな努力も虚しく、秀吉亡き後我こそが優位に立とうと徳川殿が動き始めるのじゃ。

徳川殿は五奉行の面々と折り合いが悪かった武断派(ぶだんは)の武将と婚姻関係を結び始める。武断派ちゅうのは政よりも戦を得意とした福島正則や蜂須賀家政、加藤清正たちのことじゃな。

徳川殿が独断で婚姻関係を結んだのは

・福島正則
・伊達政宗
・加藤清正
・蜂須賀家政
・黒田長政

秀吉に可愛がられ、五大老に次ぐ勢力を誇る者たちを取り込み発言力を増すための工作であろう。

そしてこのほかにも露骨に他の大名と懇意になろうと工作を繰り返す徳川殿に反感を持つ大名たちは、徳川殿に対抗しうる儂との関係を強めるべく動き出す。

水面下での勢力争いが繰り広げられることとなったのじゃ。

前田家の使者を恫喝! 徳川殿の水面下の動き

このままでは豊臣政権が瓦解しかねない、そう思うた儂は徳川殿の目に余る動きを諫める為に徳川の屋敷に使いをやった。

いかなる返答が来るのかと思うたら、あろうことか徳川殿はこの使者を恫喝し、追い返したのじゃった。

そしてこの騒動を聞きつけた多くの大名は徳川と前田がそれぞれ治める伏見と大坂の城に詰めかけたのであった。

悲しきことに秀吉から寵愛を受けていた面々は徳川殿に懐柔されておった故に、福島らは徳川殿のもとへと集まった。これには誠に苦々しい思いであったな。

 

一触即発の状況の中、細川忠興や加藤清正が両陣営の間で戦にならぬように奔走したことでこの場はおさまった。

清正や忠興は儂とも徳川殿とも懇意の間柄であった為、我らが争うことは不都合であったんじゃな。

 

後日、改めて徳川殿を除いた四大老と五奉行が連名にて弾劾し、徳川殿が以後約束を違えぬ誓紙を書いたことで一応の収束をみた。

この問題の芽は必ず摘まねばならぬと思うたのじゃが、度重なる問題を解決すべく老体に鞭打ったツケが回って参った。

秀吉死後の多忙による過労にて持病が悪化し、儂に残された時間は極めて短かったのじゃ。

 

限られた時間で、儂が豊臣政権のために為したことは、徳川殿と親睦を深めることであった。

前田利家、最期のとき

儂が長く豊臣を支えることができない以上、今ある不和を解消するほかこの先の安寧はないと思うたからじゃ。

徳川殿と戦うこととなった時、唯一対抗しうるのは一枚岩となった豊臣恩顧の大名たちである。

儂が徳川殿と敵対する姿勢を貫けば、家臣団は二つに割れ団結することは難しかろう。徳川殿とともに手を取り秀頼様を支える姿勢を世に見せることで、皆が個人の禍根を忘れて秀頼様のもと同じ方向に進めるのではなかろうか。

そう思うた儂は一度こじれた徳川殿と関係を修復し深める為、自ら徳川殿のいる伏見城へと足を運んだのであった。

じゃが、徳川殿にとって儂は邪魔な存在。

儂を手打ちにすれば豊臣の結束はなくなり、徳川殿の専制が叶うであろう。

家臣や儂の嫡男利長からは身が危ういと諫められたが、ここは覚悟を決めるところと単身伏見城へと赴いたのであった。

無論、徳川殿は我が命を奪うことはなく儂は確(しか)と出迎えを受けて、政やこれからも秀頼様を盛り立てていくことを約束いたし円満に終えることがかなった。

その後の徳川殿は怪しい動きを見せることなく、政務に勤しまれたのじゃ。

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そしていよいよ儂に死が近づき、床に伏せるようになると今度は徳川殿から我が屋敷を訪ねて参られた。

儂が果たすべき政務も満足に行えない中、多忙であったにもかかわらず我が屋敷に来てくれたのはうれしい思いであったな。

儂は改めて豊臣の世を託すと共に、儂の息子利長をよろしゅうと徳川殿に言い含めて最期の二大老筆頭としての話をおえたのじゃ。

前田家が滅びることなく徳川の世を生き残ることができたのは、もしや徳川殿がこの時の約束を覚えていて、守ってくれたのではないかと儂は考えておる。

 

……まあ、儂の方はいつでも徳川殿を暗殺できるように準備をしておったんじゃけどな!!!!

 

徳川殿と一対一の場が作れる儂の寝所では布団の下に太刀を仕込んでおいたわ!

 

もし徳川殿が儂が聞きたい答えを申されなかったら成敗しておったかもしれぬ。その上で儂は徳川殿に託すことと決めたわけじゃ。

 

結果論で申せば豊臣家臣の中は修復されなかった。

儂が死んだ直後には武断派の諸将によって三成が襲われて隠居に追い込まれ、徳川殿の専横を進めることとなり最終的に豊臣家は滅びることとなった。

儂が別の手を打つことができれば未来は変わっておったのか、それとも如何なる道でも徳川が天下をとっていたのか。

今となってはわからぬ話じゃな。

終いに

皆々、此度の戦国がたりはいかがであったか!!

先の『どうする家康』にて儂は役目を終え、話は関ヶ原へと向かっておる。

此度の大河で儂と徳川殿が決して単に敵対していたわけではないことが確と描かれておったな!

徳川殿とは秀吉のもとで様々な問題を共に乗り越えて参った間柄。故にただ敵対しておったわけではないと、それが皆に伝わったならば何よりである。

無論、本能寺の変の後に織田家の領土を簒奪したことや、結果、豊臣を滅ぼしたこと、思うところがあるのもこれまた事実である。

 

好きや嫌いやと、簡単に語れないのも儂と徳川殿の関係性を見る上での一つ見所と言えるであろうな!

 

これにて、儂と徳川殿の関係についての話は終いにしたいところなんじゃが。

 

実は儂の死後に一悶着起こっておるのじゃ。

 

それについてもまたこの戦国がたりにて記して参ろうではないか!!

 

それでは此度の戦国がたりはこれにて終い。

また会おう、さらばじゃ!!

文・撮影=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)