頼朝の挙兵を影で支えた三浦氏。三浦一族の長老
源頼朝が打倒平家に立ち上がった頃の東国と言えば駿河国、伊豆国、相模国、武蔵国の4カ国が中心であった。その中の相模国三浦半島を勢力下に収めていたのが三浦一族である。三浦氏は坂東八平氏のひとつで、前九年の役、後三年の役で活躍した源義家の頃から源氏に仕えていた。
治承4年(1180)に頼朝が挙兵した際、当主の三浦義澄は石橋山に向かうも荒天に阻まれ戦場に到着できなかった。そして頼朝軍の敗北を知り、本拠の衣笠城に戻ると、平家方の畠山重忠らの大軍との間で衣笠合戦が起こる。この戦いでは三浦一族の長老で、義澄の父・三浦大介義明が、みなを逃すためにひとり衣笠城に残り、討死してしまう。この時、義明は89歳という老齢であった。
そんな悲劇の舞台となった衣笠城へ向かうには、まずJR横須賀線の衣笠駅から徒歩30分ほどの大善寺を目指す。この寺の始まりは天平元年(728)、行基がこの山に金峯蔵王権現と不動明王を祀り、その別当として建てられたものと伝えられている。
横浜横須賀道路の衣笠インターからすぐの場所にある太田街道入口の交差点を、太田方面に向かうとすぐに衣笠城址入口の看板が目に入る。舗装された急坂を登りきった場所が、目指す大善寺の門前なのだ。この寺の裏山一帯が、衣笠城址となっている。
平安から鎌倉時代にかけての山城なので、石垣や建物などの遺構は残されていない。鎌倉時代の後期になると、北条一族と対抗するために大改修されたので、平家方との戦いが起こった時は、どのような城であったかは定かではないのだ。現在見られる遺構は、鎌倉時代後期のものとされる。
また一説によると、三浦大介義明は衣笠城と運命をともにしたのではなく、城から逃れると祖先の霊が眠る円通寺(現在は海上自衛隊の敷地)を望むことができた地にあった松の大樹の下で、割腹したとも伝えられている。そこは現在、児童公園となっていて、一画には碑が建てられている。その公園の名前は「腹切松公園」という、何ともストレートなもの。だが近所の子どもたちが遊具に興じながら歓声を挙げている様子は、絵に描いたような平和な光景であった。
本堂の裏手にある宝物殿や義明墓所は必見
腹切松公園の近くには、三浦義明が開基したとされている満昌寺もある。断定できないのは、創建された年は建久5年(1194)なので、義明はとっくに亡くなっていたから。実際には源頼朝が創建し、武家政権樹立の礎となってくれた老将の菩提を弔うべく、義明を開基としたのであろう。
満昌寺の縁起では、頼朝が義明の供養のためにここを訪れた際、自らツツジを手植えしていったと伝えている。現在も境内の一画に、そのツツジが枝を伸ばしている。
そして本堂の奥にある急な石段を登った先には、満昌寺所蔵の寺宝が収められている宝物殿が建っている。ここは土日祝日ならば予約なしで拝観可能。国指定重要文化財「木造 三浦義明坐像」をはじめ、中興開山に迎えられた「天岸慧広 木造坐像」、本尊の「木造宝冠釈迦如来坐像」などが拝観できる。
この宝物殿を回り込んでさらに少し登ると、義明の首塚と伝えられている宝篋印塔が、瓦塀に囲まれた場所に建てられている。三浦義明廟所とされている場所で、宝篋印塔を中心に右側に五輪塔、左側に板碑(観音種子)の三基が並んでいる。五輪塔は義明の妻の供養塔と考えられている。
義村が開基の寺院には愛用の鞍と鐙が残されている
満昌寺や腹切松公園まで来たら、そのまま京急久里浜線の北久里浜駅まで歩き、終点の三崎口駅のひとつ手前、三浦海岸駅で下車。劍崎方面行きのバスに乗り換え岩浦(いわぶ)バス停で下車すると、三浦義明の孫で義澄の子、義村を開基として建立された、福寿寺が徒歩5分ほどの場所に建っている。
開基は正治2年(1200)3月なので、頼朝が亡くなった翌年ということになる。さらに13人の評議衆に名を連ねていた三浦氏の当主義澄もこの年に亡くなっている。義村は父が亡くなった後は三浦氏を率い、幕府の重責を担い最有力御家人となっていた北条義時と上手に歩調を合わせている。
この頃、幕府内では熾烈な権力争いが勃発していた。そして、その中心にはつねに義村の姿があったようだ。最初に起こった梶原景時を追い落とすための工作に関しても、義村が率先して弾劾状作りを進めている。
次いで元久2年(1205)に起こった畠山重忠の乱でも、義村は重要な役割を果たす。重忠の嫡子、重保を由比ヶ浜で討ち取ったのは、義村の命を受けた佐久間太郎らであった。そして重忠の軍が武蔵から鎌倉を目指し進軍してきた際、義村も討伐軍に参加。
極めつけは従兄弟の和田義盛が北条氏と対立し、挙兵に及んだ和田合戦の時であろう。一度は義盛に同心する旨の起請文を認めながら、途中で裏切り北条方に寝返っている。そのため「三浦の犬は友をくらう」とまで評された。三代将軍源実朝を暗殺した公暁が義村を頼ってきた際も、その所在を義時に告げたうえ、その命に従い公暁を亡き者にする。
福寿寺には、そんな鎌倉きってのくせ者である義村が愛用したと伝えられる鞍(くら)と鐙(あぶみ)が、本堂の一画に置かれたガラスケース内に収められている。寺の方に声をかければ、見せて頂くことができるのだ。ケース越しに見ても、その保在状態の良さには、驚かされるばかり。
福寿寺から岩浦バス停に続く道では、昔ながらの雰囲気を残す石塀が見られる。バス通りに出たら、金田漁港入口の交差点角から港を望む小高い地に登ろう。そこには三浦義村の墓が残されている。三浦一族の中でもとくに隆盛を極めた時代を築いた義村は、自身が開基となった福寿寺に近いこの地に、墓所を置くことを望んだのだという。関東大震災の折に墓石が崖下まで落ちてしまったが、地元の人たちの尽力で再建されたのだ。
頼朝の心の中で生き続けた「三浦大介百六つ」
ここまで触れてきた三浦氏ゆかりの地は、すべて三浦半島にあるものであったが、鎌倉周辺でも三浦一族の足跡を見ることができる。鎌倉に2つある来迎寺のうちの、材木座にある寺院がそれだ。ここも建久5年(1194)に源頼朝が開基となり、衣笠城合戦で討死した三浦義明を弔うために創建。最初は真言宗の能蔵寺であった。建武2年(1335)になり、音阿上人が時宗に帰依したことにより転宗し、寺名も来迎寺に改称された。
本尊の阿弥陀三尊像は、義明の守護仏と伝えられている。さらに本堂の並びには義明と、その一族で衣笠城の戦いの前に行われた畠山重忠との戦いで討死した多々良三郎重春の墓が建っている。800年以上の時が経っているにもかかわらず、墓前は今でも綺麗に清められ、生花が手向けられている。
頼朝は義明の忠義を生涯忘れず、衣笠の満昌寺で義明十七回忌法要を行なった際、「三浦大介義明はまだ自分の中で生きていて、守ってくれている」という意味で「三浦大介百六つ」と呼んだという。それは享年の89に17を足したものだ。江戸時代には縁起の良い言葉として『鶴は千年、亀は万年、三浦の大介百六つ』というものがあったとか。
さらに来迎寺は本堂の裏手に回ると、義明の家来衆の墓とされる五輪塔がズラリと並んでいる。名もなき家来たちの墓とはいえ、こちらも綺麗な状態が保たれている様子を見ると、心が温まる思いがこみ上げてくる。
大きな力を持ちすぎたことで北条氏に警戒されてしまう三浦氏
承久3年(1221)に起こった承久の乱で義村は、検非違使として在京していた弟の胤義からの「上皇軍として参戦するように」という誘いを断り、幕府軍として上洛し、弟を討ち果たしている。元仁元年(1224)、盟友だった義時が病没すると、後家の伊賀氏から陰謀に加担することを求められたが、北条泰時を支持している。そのため、義村の時代に三浦氏は栄華を極めている。
反面、北条氏からその勢力が危険視され、三浦半島から鎌倉へ通じる名越切通は、後に三浦氏から鎌倉を守るために防衛線としての役割が大きくなっていったようだ。
そんな義村は延応元年(1239)まで在命。長く幕府宿老として、北条氏に次ぐ地位を占めている。
取材・文・撮影=野田伊豆守