太宰婚を遂げた夫婦は、一念発起してゆかりの地三鷹で古書店を開業
三鷹駅南口から徒歩30分弱。三鷹市役所のほど近く桜並木のふもとに一軒の煉瓦造りのビルが立つ。道端には「季節のメッセージ」とともに、ずらりと段ボールに入った古本が並ぶ。窓辺にこぢんまりとした黒いテントを装い、古本カフェ『フォスフォレッセンス(通称:フォス)』は今日も開店している。
店主である駄場みゆきさんは自身が大の“太宰愛好家“。元は京都で書店員をしていたが、忙しなく日常に追われながら接客をしていることにもどかしさを感じていた。
ある日ニューヨークを訪れた時、「コーヒーを飲みながらゆっくりと本を読まれている人々の姿」を店のガラス越しから眺め、鮮烈な印象を受ける。そのことが忘れられず、「いつしか自分もゆっくりとお茶をいただきながらゆっくりと本を嗜み語らう、そんなお店作りや仕事をしたい」と夢を抱くように。
同じく太宰好きのご主人と結婚をし、ゆかりの地「三鷹」で憧れだったブックカフェを開くべく、一念発起して夫婦共に仕事を退職。京都から上京、そして紆余曲折を経て開店したのだという。
当時インターネットやSNSも未成熟、情報を得るのに決して便利とは言えない中でその「夢」にかける夫婦の熱意は驚かされるものがある。
「若さと勢いでしたよね。ずいぶん周りにも反対されましたし。でも夫は全然反対しなかったんです(笑)。それにやっぱりこの三鷹という場所でやりたかったんですよね」とふわりと笑う駄場さん。穏やかで、はにかむ姿が可愛らしくもあるが、うちに秘めた本への情熱は並々ならぬものだと感じる。
書籍コーナーで手にした貴重な本とともに過ごすティータイム
10坪にも満たない店内には、上から下までところ狭しと古本が並び尽くす。もちろん太宰作品をはじめとした歴史ある文学作品があり、一方で現代小説やマンガ、エッセイ本なども並ぶ。
店を開店した時は夫婦の蔵書でスタートしたが、その後訪れる客からの買取によって店は営業を続けている。
店内中央でひときわ目につくのは、通称「太宰棚」。全て太宰関連本で構成される。さらには貴重な初版本の数々も。限定500部の『晩年』、限定300部の『駈込み訴へ』など通常は触れることない展示品として扱われる、手にするのも恐れ多い重厚な書籍たちが、誰でも手に取ることができる。
これぞ店主の広い心と愛ゆえ、『フォス』ならではだろう。幅広い世代の人が古書の魅力にアクセスできることがただありがたい。
ひしめく本の中で、わずか4席ほどの客席が並ぶ。窓辺からは穏やかな日差しと、心地よい人や車両の流れを望む。するするとほどけるかのように時は過ぎていく。
「春になるとここから眺める桜並木が本当に美しくて。ここでその風景を眺める時間が至福なんです」と教えてくれる駄場さん。
その風景を眺めながら、客席でいただく食事やコーヒー、手にする本を読むことは、何にも代えがたい時間なのだろう。
『フォス』に訪れたのならば必ず注文したいのは「太宰ラテ」。注文を受けてから店主が丁寧に豆を挽き、太宰の顔をラテアートにて描きあげる。ひとつひとつがハンドメイドなので、その時々で表情が少しずつ変化をしているのも味がある。頬杖をついたあの表情もなんだか愛おしく感じてしまうのだから不思議だ。
ラテのお供には、フレンチトーストを。たっぷりと浸されたトースト、しっかりと感じられるシナモンの味わいを、添えられた生クリームがやさしく包み込み。甘くスパイシーな香りが漂う、豊かなティータイムだ。
『フォス』があるからこそ「太宰ファン」は還ってくる
『フォス』を訪れる人のお楽しみといえば、季節に1度行われる太宰作品の読書会だ。また、散歩道が豊かな三鷹市内をめぐる、太宰作品に因んだ文学散歩も名物だ。
「多くのゆかりの地を訪れたけれど、三鷹は文学散歩をするのにコンパクトでちょうど良いんです。道も整っているし疲れすぎず、でも充実して巡ることができるので最適」
こうした読書会や文学散歩は、全国から多くの人が足を運ぶ。かつて店主夫婦と同じように。
そして年に1度、太宰の没日である6月19日「桜桃忌」には、みなでその日を慈しむのだ。
こうしたイベントもまた世の流れが日常と戻った時、再び皆が寄り合い始めるのだろうか。その時のためにも、ここ『フォスフォレッセンス』が店を開き続けていることが、太宰ファンの心の支えとなっているのだろう。
取材・文・撮影=永見薫