アラサーで隠居した、最後の将軍の弟
20代半ばに一橋慶喜の家臣となって3年後、栄一はヨーロッパ行きを命じられる。「パリ万博使節団」に伴うこの使節団派遣にあたり、将軍名代となったのが徳川昭武だった。一行はヨーロッパ滞在中フランスだけでなく、スイス、オランダ、イタリア、イギリスなどを歴訪。往復の移動も含めると約2年間。この時の知見が栄一の後半生、「実業家・渋沢栄一」の素地になったのは想像に難くない。
このタイミングでの渡欧が、栄一の運命を変えた理由がもうひとつある。出発が慶応3年(1867)1月、帰国が明治元年11月(1868年12月)。渡欧中に明治維新が起こっていた。
もし、栄一が国内にとどまっていたら──。
従兄弟の渋沢喜作や渋沢平九郎とともに彰義隊や振武軍に加わり、新政府軍と戦っていた可能性も高い。そして平九郎のように、そこで人生を終えていたかもしれない。
今回の主役である徳川昭武は、徳川斉昭の18男(子沢山!)。嘉永6年(1853)生まれなので、慶喜とは16歳離れている(ちなみに慶喜は7男)。渡欧時は14歳、帰ってきたら幕府がない。将軍だった兄は謹慎中……。
昭武はその後、最後の水戸藩主、陸軍戸山学校の教官を経て、明治9年(1876)に訪米、さらにフランスへと留学。ドイツやオーストリアへの旅行、半年間のロンドン滞在ののち、明治14(1881)年に帰国している。
だが2年後、明治16年(1883)には家督を譲り隠居。まだアラサーなのに……。妻・盛子が出産後に死去してしまったことも影響したのかも。そして隠居後、生涯の住まいとしたのが、松戸にある戸定邸だった。
西洋の美を取り入れた独創的な庭園
松戸駅から南へ10分ばかり歩くと、小高い丘が見えてくる。坂道をしばらく登ると、石段の向こうに茅葺き屋根の門が見えてきた。
門をくぐると、緑豊かな戸定が丘歴史公園が広がっている。約2万3000㎡と広大だが、これでもかつての敷地の1/3とか。幕府はなくなったとしても、将軍の弟。名家中の名家であることに変わりはない。
ところで、松戸と水戸は直線距離でも60km以上離れている。「水戸藩主がなぜ松戸に隠居?」と疑問に思っていたが、江戸初期から水戸藩の鷹狩り場があった。黄門様こと第2代水戸藩主の徳川光圀も、何度も足を運んでいたのだった。
昭武自身も、明治8年(1875)に狩猟で訪れて以来、たびたび松戸を訪れていることが、彼自身の日記によって明らかになっている。
隠居後の昭武は、園芸にも造詣が深かった。当然、庭園の作庭や木々の形にも昭武の手が加わっている。木々に目をやると、枝ぶりが独創的だ。
もしや、二度のパリ留学で身につけたアートなセンスが活かされている? いや、それは考え過ぎか。
歴史公園の奥まった場所まで足を運ぶと、庭園越しに戸定邸の邸宅が見える。
この庭園は明らかに「西洋文化の影響あり」といっていい。地面は一面の芝生。石灯籠や池はない。遊歩道を戻り、戸定邸の中へ。客間の縁側から眺めてみる。
飛石や松の木など、和の要素も。派手な紅葉ではなく、常緑樹も混在する上品な雰囲気。空間の広がりは、和というより洋。オリジナリティあふれる庭だというのは、洋邦問わず庭園の知識は全くの素人レベルの自分でもわかる。明治初期に作庭に関わった職人たちがどう感じたのか、もし記録が残っているなら読んでみたい。
庭園の中で一際どっしりした巨木は、昭武の生前の姿とは大きくその形を変えているのだろう。
昭武の生前の息吹を感じる姿のまま現存
さて、戸定邸である。明治15年(1882)着工、明治17年(1884)落成。明治に入ってからの建築物だが、大名屋敷の構造を今に伝える貴重な現存建造物だ。増築も経て、最終的に現在は9棟、23部屋。これでも将軍時代からすれば相当に小規模だとか。
迷路のように張り巡らされた廊下で繋がっており、先ほど見た芝生の庭園とは別に、純和風の中庭もある。湯殿や台所まで残っているので、昭武自身になったつもりで、探訪すると楽しい。
玄関そばの内蔵には、こんなものも。
長持の手前に見える大ぶりの陶器鉢は、昭武ゆかりの一品。元々は中庭に置かれていて、金魚や睡蓮を育てていたのでは? と推測されている。兄・慶喜に似て趣味人だった昭武なら、さもありなんな気がする。
隠居の直前に愛妻を亡くした昭武だが、後に側女中の一人、八重を後妻に迎える。八重は昭武との間に、三男三女をもうけることになった。
その御寝所として使われていたのが奥座敷棟。八畳の座敷と、六畳の控えの間の二間のみのシンプルな造り。
戸定邸を後にし、目の前の戸定歴史館へ。小さなミュージアムだが、昭武の日記『戸定邸日誌』の原本や家族写真など、昭武と一族にまつわる展示が充実している。
展示替えは数カ月ごと。パリ万博や兄・慶喜に関連する資料が展示されることもある。
写真家・昭武の見たまんまの風景を探しに
一般に、松戸で昭武ゆかりの地として紹介されるのは、大抵がこの戸定邸と歴史公園のみだ。「もう少し、昭武にまつわるスポットはないのかな?」と、歴史館のスタッフの方に尋ねてみると、まさに「待ってました」と言わんばかりの情報を教えてもらった。
狩猟や園芸とともに、昭武の趣味として広く知られているのが写真撮影。兄・慶喜も同好の士で、なんと一緒に『華影』という写真同人誌に参加している。華族の写真愛好家グループが同人で、明治38年(1905)頃には、洋画家・黒田清輝など芸術家に講評を求めたりもしていた。
そんな「写真家・昭武」の撮影した松戸の名所を2カ所、訪ねてみることに。まずは松戸神社。ここは戸定邸から徒歩5分ほど。徳川光圀奉納の弓矢が見られる。
光圀が境内で白鳥を射ようとしたところ、弓手が動かなくなり、弓も折れてしまう。御神前での無礼を光圀は悟り、頭を下げ、弓矢を奉納して帰路についたという。
現在の拝殿は幕末、文久2年(1863)築。光圀時代とは異なるが、昭武時代のものとは同一。当時撮影されたと思しきあたりで撮影してみた。
子供たちが並ぶ石の柵部分がなくなっているが、ほぼ同じと言っていい。屋根の手前に枝が伸びる感じも、それほど変わっていない。100年前とほぼ同じ風景をカメラに収められるとは、なかなかに貴重な体験といえる。それにしても、昭武の使用していたカメラはどんなものだったのだろう。
昭武視点で見られるもうひとつの撮影スポット
戸定邸と松戸神社を訪ねてから半年後。2021年6月に入ってから、もうひとつの撮影スポットへと足を運んだ。
半年寝かせたのには理由がある。目的地の本土寺は、あじさいと菖蒲の名所。梅雨時が旬なのだ。昭武自身があじさいを鑑賞しに来たことがあるかは定かではないが……。
北小金駅から北へしばらく歩くと、松や杉の居並ぶ並木道が見えてくる。団子や野菜を売る店も出て、なかなかのにぎわい。一直線の道を約500mほど進むと、木立に覆われた朱塗りの立派な山門が現れた。
日蓮宗の名刹、長谷山本土寺。山門は慶安年間(1648~1651)の建造と伝わる。階上には、金色の千体仏が納められているという。
こちらも、昭武とほぼ同じアングルで撮影してみる。
山門手前左手の大木は、昭武時代のものとは、樹形からして異なるようだ。植え替えられたのだろうか。季節が6月と緑が生い茂る季節のため、山門自体がどうしても枝葉で隠れてしまう。これはこれで、雰囲気があるともいえるが……。
昭武撮影のカットをよく見ると、仁王門の間にかすかに、本堂らしき建物の影が見える。現在より屋根が高く、茅葺きのようにも見えるが、ぼんやりしていて精確にはわからない。
参道が山門をくぐり、その先に本堂まで、一直線のイメージ。左手前にグイッとややカーブしながら伸びる根が、そのイメージを補っている。昭武撮影のカットは、なかなか写真の構図としても優れていると思う。
この写真と同じカット、今でも押さえられるのだろうか。いずれ昭武撮影の真冬に再訪して、確かめてみたい。そんなことを思いながら、あじさいと花菖蒲で華やぐ境内を、小一時間ほどかけてゆっくりと巡る。本土寺で、花を撮るには最適の季節。カメラを構える人々で境内はどこも賑わっていた。
取材・文・撮影=今泉慎一
(取材協力:松戸市戸定歴史館/松戸市広報広聴課/共同ピーアール)