旧中山道で幕末の揺籃期をたどる

岡部藩があったのは、現在の埼玉県深谷市岡部一帯。栄一が生まれた江戸末期の藩の政務をになっていた岡部藩陣屋跡を目指す。JR高崎線の岡部駅から、住宅と農地が入り交じった一帯を西へ歩くこと20分ほど。木々が密集する場所が見えてきた。

左奥の木立の部分が岡部藩陣屋跡。

近くまで歩いて来てみたが、陣屋跡といっても、遺構は何も残っていない。畑の端っこに石碑が立っているだけだ。あの藪のあたりに屋敷があったのだろうか。

陣屋の目の前の道は旧中山道。

17歳の栄一が、藩の役人から500両の供出を申し付けられ、上から目線の役人の態度に憤りを覚えたのがこの場所。後年、政府を離れ一民間人の立場を貫いた、その原点がここにあり、だ。

●岡部藩屋敷跡:埼玉県深谷市岡部1211、JR高崎線岡部駅から徒歩20分、見学自由。

 

陣屋を後にし、旧中山道と思われる道を「なんとなく」たどりながら東へ。やがて岡部駅から北へ延びる道に出て、さらに国道17号を超えたら直ぐに左へ。ふたたび旧道らしき町並。東へと延びる道をてくてく進んでいくと、Y字の分岐に。

石碑には「馬頭尊」の文字。

やはり中山道で合っていた。現在の道はY字を右に下る道が広くなっているが、どうやら中山道は左の小道らしい。ゆるやかな上り道を少しゆくと、今度は左へ直角に折れる。

民家の柵に「旧中山道 → 上州方面へ」の文字。

いったん上って、一気に下る。この坂を下りきると、街道は利根川の支流・小山川に出るのだが、その手前に小さな神社が見えてきた。

石造の鳥居を構えた八坂神社。

この神社、街道側の脇の斜面がすごいことになっている。庚申塔や仏が彫られた石だらけ。「百庚申」が造立されたのは万延元年(1860)。桜田門外の変が起きた年。世情の不穏な空気をなんとか鎮めてほしいという、当地の岡村の人々の切なる願いが、こうして今もひっそりとだが残っている。それにしてもとてつもない数。

●百庚申(八坂神社):埼玉県深谷市岡、JR高崎線岡部駅から徒歩25分、見学自由。

 

墓石のような石に仏様が彫られたものもある。

22歳となった渋沢栄一が江戸に出るのが、その翌年。岡村は渋沢家のあった血洗島村は、川を挟んで向かいの隣村にあたる。あるいはこの場所に立ち、江戸へと思いを馳せたこともあったのかもしれない。

この旧中山道をたどってゆけば、距離にして江戸の半分ほどで高崎へたどりつく。尊皇攘夷思想に感化された24歳の栄一は、仲間とともに実力行動に出ようとする。その計画は、まず高崎城を乗っ取り、さらに横浜へと進軍し外国人を討つ、というものだった。幕末、現地農民の神仏にすがる思いと、血気盛んな青年の思いが、中山道で交錯している。

中山道を東へと少し引き返し、「道の駅」で腹ごしらえをしてから、血洗島村へと乗り込むことにした。深谷といえばねぎ。深谷ねぎを全国的に知られるブランド野菜となるのに、一役買ったのが渋沢治太郎。栄一の妹の次男、つまり甥っ子だ。

名産の深谷ねぎのそばとかき揚げ丼のセット。

栄一は深谷ねぎと幅広の麺で作る煮ぼうとうが好物だったという。

●道の駅おかべ:埼玉県深谷市岡688-1、JR高崎線岡部駅から徒歩20分、8:00~19:00(そば蔵は~18:00)。

そしていよいよ「血洗島」へ

小山川は、支流とはいえなかなかの川幅。両岸に広がる平地には、今も田畑が広がっている。平野のかなたには赤城山。ということはほぼ上州(群馬県)だ。埼玉の北の端まで来ていることを改めて実感する。

川を渡っていよいよ、血洗島村へと足を踏み入れる。

緩やかに蛇行しながら流れる小山川。

それにしても、一度聞いたら忘れられない地名だ。「手計」で「てばか」と読む地名もあるが、武士が合戦で切り落とされた片腕を洗い「血洗い」、それを土地の人が葬り「手墓」と呼ぶようになった、という説に個人的には最も惹かれる。

血洗島交差点。『セブンイレブン深谷血洗島店』もすぐそばに。

交差点から脇道にそれ少し歩くと、ネギ畑の向こうに鎮守の杜が見えてきた。

諏訪神社を遠望。

諏訪神社は血洗島村の鎮守社だ。少年時代の栄一は、お祭りで獅子舞を舞うこともあったとか。現在の拝殿は後年、栄一が寄進したものだ。栄一は帰郷の折には必ず、まず諏訪神社を訪れて手を合わせていたとか。

鳥居の奥に見えるのが拝殿。大正5年(1916)竣工。

ちなみに参道入り口にはこんな石碑が立っている。

澁澤父子遺徳顕彰碑。

ここでいう「父子」には、栄一は含まれていない。妹ていの婿・市郎、その長男・元治、次男の治太郎の三名だ。いずれも栄一の生家の当主を務めた人物。その功績が讃えられている。栄一のみならず、澁澤家全体として、地元の名士の名に恥じぬよう、地域に貢献してきたことがよくわかる。

●諏訪神社:埼玉県深谷市血洗島117、JR高崎線深谷駅からバス25分「渋沢栄一記念館」下車徒歩15分、見学自由、入館無料。

生家の裏にある少年時代の風景

諏訪神社から生家まではものの数分。子供でも迷わずたどり着けるほどの距離感。近隣に屋敷を構える同名の親戚と区別するため「中の家(なかんち)」と呼ばれていた。どっしりした構えの正門が出迎えてくれる。

扉はケヤキの巨木から切り出した一枚板。
現在の主屋は明治28年(1895)築のもの。

屋根の中央を高くし「煙出し」という天窓を設けた、養蚕農家の造り。他にも敷地内には土蔵や福屋など数々の建物が点在するのだが、これらの探訪はまたの機会に。

今回のテーマは「幼少期の栄一」だ。かつて栄一少年が目にした風景を探して、生家の裏へと回り込んでみると、そこには小川が流れていた。

川沿いには遊歩道が整備されている。

護岸工事もしっかり施されているが、川の流れ自体は当時とそれほど変わっていないのではないだろうか。

ちょうど日が傾く夕暮れ時。うっすら茜色に染まる青空を川面が映し出していた。栄一の雅号は「青淵」。その由来となった場所がこの場所だという。

川べりに立つ「青淵由来之跡の碑」。揮毫は大正末期に総理大臣も務めた清浦奎吾。

少年・栄一が幾度となく目のあたりにしたであろう夕暮れ。やがて、功成り名遂げてから帰郷の折にも、たびたび、この光景を目にしていたのは想像に難くない。

自身の「大志」の原点を記す碑が、生家の裏にひっそりと立つ。そのロケーションが、いかにも渋沢栄一らしい気がしてならなかった。

●中の家:埼玉県深谷市血洗島247-1、深谷駅北口からバス25分「渋沢栄一記念館」下車徒歩12分、9:00~17:00。

取材・文・撮影=今泉慎一(風来堂)

2021年、大河ドラマや新一万円札で話題の渋沢栄一。激動の幕末期を走り抜けた故郷 ・ 深谷と、 晩年を過ごした王子2つの街で、近代日本の発展に多大なる功績を残した巨人の軌跡とその面影を巡ろう。