ルーツは東京の下町。高度経済成長前夜から街とともに歩んで早60年以上
店があるのは、周囲に昭和の面影を残した建物も散見される飯能銀座商店街。「うちは町中華も兼ねた大衆そば屋といったところかな。ルーツは東京の浅草、両国界隈にあった『長寿庵』。そこで修行したうちの親父が昭和35年、大層景気が良かった飯能に同じ店名の店を開いたわけです」と店の若旦那、矢代和久さんは語る。
時は戦後の復興期から高度経済成長への転換期。和久さんに言わせれば、当時のにぎわいはいまの比ではなかったという。西川材に代表される江戸時代からのお家芸である林業はまだまだ活況。街には材木商が立ち並び、料亭も芸者衆もと相当な勢いがあったそうな。
いたずら小僧時代の思い出を交えて振り返るには、「通りに爆竹をまいとくと、そこかしこでバン、バン、バン、バン。それだけこの商店街も人通りが多かった」ということ。「もちろん、良い子はまねしちゃいけないよ」。ともかく、いまでは昭和の味として人気のオムライスも、当時は東京を象徴するハイカラなメニューだったのだろう。
大量の野菜で麺が見えない「野菜3倍 肉汁せいろ」に込められた飯能っ子の想い
メニュー冊子をめくった1ページ目に、その1ページをまるまる使って紹介されているのが「野菜3倍 肉汁せいろ」。説明書きは「うどん又はそばをお選び下さい」、「野菜の種類は日々異なります」、「飯能で採れた在来固定種の野菜を使用しています」。
「『深谷と言えばネギ』というような、誰もが知る特産野菜がないのが飯能の残念なところ」と和久さん。そこで知人の種苗屋と若い農家が「どう地域性を打ち出すか?」と考え抜いた末に、この在来種と固定種に取り組むことになったという。
和久さんの説明をあくまでざっくりとまとめると、在来種とは、その地域で昔から栽培されていた野菜のこと。固定種とは、代々種を取っては植えてを繰り返しても安定して育つ野菜のことらしい。いわゆる普通の野菜だと育ったらその一代で終わり、言い換えればその種を取って植えても育たないのだ。
驚いたのは野菜のボリューム。その日は大根にズッキーニ3種類、ニンジン、カブ、ラディッシュ、小玉ねぎ、カリフラワー、さらにはサヤエンドウとスナップエンドウ、小松菜にほうれん草にケール、聞き慣れないスイスチャードとコモンマロウ。さらには天ぷらが5種類。つけ汁に入った長ネギと三つ葉も加えると、なんと全23品目。
「野菜の旬は季節とともに移ろいますし、一つの野菜をとってみても、時期によって色合いも味わいも変わります。言うなれば、山道の『散歩』と同じです」。和久さん、なかなかの詩人だ。
「昔のこのあたりの農家さんでは、『かてうどん』といって野菜と一緒にうどんをつけ汁につけて食べる習慣があったんです。発想はそこから」。しっかりと濃い汁が、茹で野菜からにじみ出る水分とほどよく中和され、次から次へと箸が進む。
大衆食堂としての矜持を胸に今日も昭和の風情をいまに伝えるのだ
「うちは大衆店だから、めちゃくちゃそばにこだわっているかといったらそうでもないですよ」と言ってのける和久さん。でも、「例えばお米は新潟産のすごくいいものを特別に仕入れてるんです。うちの一家の出が新潟の米どころっていう理由もあるけど、お米はお客様に毎日食べてもらうもの。そこは譲れません」と。
また「ほうれん草は、わざと茎の赤い部分を入れている」とも言っていた。理由は「尿結石持ちにとってほうれん草は天敵だから、ひと目でそれとわかってもらうため」。そして、こうした野菜は有機ないしは無農薬を前提に仕入れているというのだ。
ざっくばらんで親しみやすく、どこか人を楽しませたいムードが伝わってくる和久さん。その人柄を別の何かに例えるとしたら、まさに「大衆食堂」こそがふさわしいのではないか。あくまでも普通の人が気取らずにお腹いっぱい、おいしいものを食べてもらうための店であるべきだという矜持。そして、昭和の人情と地元愛。これからも変わらずこの場所で愛されてゆくだろう。
構成=フリート 取材・⽂・撮影=木村雄大