「あゝ上野駅」の舞台を歩く(1964年)
集団就職列車で上京した人々の”心の応援歌”
山手線ホームからの人の流れは、階段を降りたところで大きく右に曲って改札口に向かう。なんか、不自然な感じだ。その反対側、左手の方角には広々としたコンコースがある。そちらへ足を向ける人はおらず、薄暗い照明が寂しげに灯る。コンコースの先には櫛形ホームが数本並んでいた。終着駅だった頃の名残。
かつて東北本線の起点として多くの列車が発着した13番ホームの前には、
ふるさとの 訛なつかし
停車場の 人ごみの中に
そを 聴きにゆくと、書かれた石川啄木の句碑がある。このホームからの動線は、不自然に曲がることなく真っ直ぐ改札口に通じていた。
ひと昔前まで上野駅を通過するのは、山手線などごく一部。各地からの列車は、ほとんどここが終点だった。駅もそのように設計されている。が、近年は都心に直通する路線が増え、そのためのホームが次々に新設される。櫛形ホームを避けて設置した高架式ホームからだと、改札口への動線は不自然なものになる。増改築を繰り返して迷路みたいになった温泉旅館のようなものか?
『あゝ上野駅』の作詞家・関口義明氏は、夜行列車に乗る必要のない東京近郊の出身。歌詞は石川啄木の短歌にインスパイアされたものか? しかし、これが琴線に触れる人々は多かった。
昭和29年(1954)から、毎年春になると「集団就職列車」の別名で呼ばれた臨時列車の運行が開始されるようになった。中学校を卒業して都会に就職する者たちは、この列車に乗って故郷をあとにする。
上野駅に到着した列車からは、大きな荷物をかかえた学生服姿がぞろぞろ降りてくる。不安と好奇心が入り混じった目をキョロキョロさせながら、改札口を出て中央広場へ。いまはアトレ上野の店舗になっているあたりに、当時は広い待合所があった。そこには就職先の世話役が、工場や会社名を書いた旗を手にして彼らを待っている。半世紀ほど昔、上野駅でよく見られた春の風物だった。
田舎で知る東京の情報は限られている。当時の地方出身者にとっての都会は、外国へ行くのと同じくらい緊張を強いられる場所だ。また、上京したばかりの彼らと東京人とでは、言葉や服装はあきらかに違う。中国人やベトナム人の技能実習生よりも、よっぽど簡単に見分けがつく。
上野駅構内の治安は悪かった。広場や待合所には怪しい輩もウロついているだけに、無事に就職先の人と出会えてホッとひと安心。上京初日から緊張を強いられる……この先も慣れない都会には、嫌な思いをして苦労させられるだろう。『あゝ上野駅』は、そんな彼らの“心の応援歌”と呼ばれていた。
じつはこの歌の発売当時、集団就職列車の運行は減少しつつあった。運行開始時は3人に2人が中卒で就職した時代だったが、その後10年ほどで高校進学者は急増、この年の高校進学率70%に達している。集団就職列車の旅客が激減するのは当然か。
しかしこの歌は流行った。
就職列車は無くなろうとしていたが、東京に住む大半の者たちは、そこに懐かしさを感じたはず。終戦直後、東京の人口は約500万人。それがこの年には1000万人を突破した。東京在住者の過半数が、地方出身者の一世で占められていたということだ。集団就職に限らず、大学進学などで上京した者も、異世界・東京に馴染むのに苦労する。「くじけちゃならない」と、自分を鼓舞して歌いたくなる。誰もが味わった心境。若い頃の懐かしい思いが蘇ってくる。
『津軽海峡・冬景色』(1975年)
上野発の夜行列車で北へ向かう人はどれぐらいいたか?
集団就職列車の運行は昭和50年(1975)に終了したが、その後も上野駅は東北地方へ向かう列車の起点として機能しつづけた。改札口を通って列車に乗り込もうとする人々の頭上には、猪熊弦一郎作の「自由」と題された壁画が掲げられている。昭和26年(1951)に進駐軍からペンキを提供されて製作したものだという。猟師や農民、スキーヤーなど東北地方の情景が描かれ、いかにも北国への玄関口といった感じだ。
東北地方出身の一世たちも、やっと東京の生活に馴染んできた昭和時代の終わりの頃。上野駅は上京した者たちの出発点というよりは「北国に向かう列車の始発駅」。と、そのイメージのほうが強くなっていた。それは、昭和52年(1977)1月に発売された『津軽海峡・冬景色』のヒットも影響しているようだ。この歌の歌詞は、上野発の夜行列車から始まっている。
この翌年あたりから、鉄道ファンの間で夜行寝台列車のブルートレインの旅がブームになった。こちらも歌の影響だろうか? しかし、70年代には北海道への旅行はすでに旅客機が主流。夜行列車に揺られ青函連絡船に乗換えるなんてことするのは、よっぽど旅好きの酔狂者だろう。
流行歌はいつも後ろ向き。過ぎ去ろうとする時代への未練なのか、人々はそこに惹かれる。北国へ向かう夜汽車の情景も、やがて二度と見ることのできない過去。この頃になると誰にもそれが分かっていた。だから上野発の夜行列車に名残を惜しむように、皆がこの歌に耳を傾けた。
『津軽海峡・冬景色』が発売された昭和52年は、上野駅に東北・上越新幹線の駅建設が決定した年でもある。駅地下に新幹線ホームが建設され、昭和60年(1985)には大宮−上野間が延長開業された。それと同時に、集団就職の臨時列車が発着していた18番をはじめ19番、20番のホームが廃止されている。
中央改札口を入って、コンコースを真っ直ぐに突き抜ける。かつてそこには現在の倍の数になる櫛形ホームが並んでいた。壮大な眺めだったろう。新幹線開業で多くの在来線特急が廃止され、始発・終着駅の機能は縮小された。その後は新幹線の東京駅延長、さらに、平成27年(2015)には上野東京ラインの開業によって東北本線や高崎線、常磐線もすべて東京駅まで直結するようになる。
上野駅は通過駅となってしまった。そのうち「北国への玄関口」「終着駅」というイメージも風化して消える。いや、新幹線の開業以前、すでにその兆候はあったのではないか。
70年代頃には、テレビや雑誌から東京の情報を簡単に入手できるようになっていた。夜行列車で上野駅に到着した旅人たちは、改札口に向かうことなく山手線に乗り換える。あらかじめ入手した情報と地図を頼りに、新宿や渋谷へと向かう。大きな荷物をかかえながら不安顔で立ちすくむ者などもういない。
『暦の上ではディセンバー』(2013年)
終着駅・上野。その残り香は意外としぶとく漂っている
さて、駅を出て上野の街を歩いてみよう。広小路口には、ひと昔前まで旅館案内所があった。スマホで簡単にホテルの予約ができるいまとは違って、昔の旅人は宿探しも苦労する。昭和37年(1962)の地図を見ると、駅前の浅草通りから一歩路地に入ると旅館が軒をつらねている。当時この街は、北国の人々が常宿とする旅人街。故郷へ向かう列車の汽笛が聞こえる界隈は、慣れない都会に不安を感じる者たちが安心してくつろげる場所だった。
そういえば上野公園の隣につい最近まであった「聚楽台」も、店内では東北弁のお国訛りがよく聞かれたものだ。上野公園を囲むようにしてあるL字型の巨大建造物は、よく目立つうえに上野駅も目と鼻の先。待ち合わせや列車待ちにはちょうどよく、いつも旅人でにぎわっていた。豚の角煮や薩摩揚など、鹿児島県の郷土料理が多いのは、上野山の西郷隆盛にちなんだものか? 昔の北国からの旅人には、珍しいエスニック料理と映ったかもしれない。
「聚楽台」の前から上野公園を通り過ぎ、広小路を南下する。昭和37年の地図を見ると、通り沿いには玩具屋や土産品店が多くある。集団就職や出稼ぎから帰郷する人々が、列車の発車時間を気にしながら東京土産を物色する。そんな光景が目に浮かぶ。
広小路から一本路地に入ったアメ横では、地図に記された店名を現在も多く見かける。しかし、この界隈のランドマークとなっているアメ横センタービルは昭和57年(1982)の完成というから意外に新しい。かつてはここに国鉄変電所があったという。
アメ横センタービルを目にして……朝ドラ『あまちゃん』の劇中歌『暦の上ではディセンバー』のメロディーラインが、ふと脳裏をよぎる。このドラマのなかでアメ横センタービルは、アイドルグループのアメ横女学園が根城とする東京DMOシアターという設定だった。そのライヴのシーンで、この曲がよく歌われていた。
主人公のあまちゃんも、アメ横女学園の妹分として結成されたGMT47に所属することになり上京してきた。全国の地元アイドルを選抜してつくられたこのグループは、地方出身の女のコだらけ。みんな慣れない都会に四苦八苦しながら、東京DMOシアターの舞台に立つことを夢見て奮闘する。
終着駅ではなくなって久しいが、上野はいまも上京してきた者たちの夢物語には最良の舞台なのか。集団就職列車をリアルタイムで知らない世代、上野を素通りして山手線に乗り新宿や渋谷をめざすような世代にも、地方出身者の東京は上野から始まる……といった『あゝ上野駅』のイメージはまだあるのだろうか? 残り香って、そう簡単には消えてなくならないのだな。
取材・文・撮影=青山 誠