音楽の記事一覧

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中華街から広がるレゲエバイブス~横浜発・世界一のレゲエサウンドが語る~
レゲエの音のバトル「サウンドクラッシュ」で世界一に輝く一方、地元密着の活動も続けるMIGHTY CROWN。祖父母の実家があり、近くに通った学校もあった山下町周辺を歩きながら、その思い出を語ってもらった。
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「マグカル開放区」が青空の下に帰ってきた!~日曜日は、音楽に誘われて日本大通りへ~
プロ・アマを問わず、ジャンルの垣根も越えた表現の場・マグカル開放区。「マグネット・カルチャー」は文化芸術の魅力で人を引きつけ、地域のにぎわいを作り出す。パフォーマンスに魅せられた老若男女が笑顔で手拍子を打つ。さあ、ご一緒に!
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街に流れる空気も人々の感覚も、他の日本の街とは違う。外国同然……確かに。~BORO『大阪で生まれた女』、村田英雄『王将』、ウルフルズ『大阪ストラット』【街の歌が聴こえる/大阪編】
70年代末の大阪を歌った名曲『大阪で生まれた女』って、じつは18番まであるとっても長い曲。フルバージョンで唄うと30分以上にもなるのだが、1979年にレコード化されたのは4番と6番、16番だけ。最初に4番の歌詞をもってきたのは、当時の若者たちが共感しやすい「ディスコ」という言葉が入っていたからだという。
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なぜ狭山稲荷山公園でハイドパーク・ミュージック・フェスティバルが行われるのか?~狭山に「アメリカ村」があった頃
4月28日、狭山稲荷山公園にて、いよいよ17年ぶりに開催される「ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル」。なぜこのフェスがここで開催されるのか、その理由をご存じだろうか? かつてこの公園周辺には「アメリカ村」とよばれた米軍ハウス集落があった。多くのアーティストが移り住み、はっぴいえんどが『風街ロマン』の撮影で訪れ、その後細野晴臣が移住した、一大コミューンである。その記憶を当事者たちの記憶からひも解いた記事を、散歩の達人のバックナンバーからお届けしよう。散歩の達人2017年2月号より転載
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オトナになった渋谷……だけど、大人を困惑させたりもする~鈴木雅之・菊池桃子『渋谷で5時』、広末涼子『MajiでKoiする5秒前』、欅坂46『サイレントマジョリティー』【街の歌が聴こえる/渋谷編】
「渋谷がオトナになる日」というキャッチコピーで『渋谷マークシティ』が開業したのが、20世紀最末の西暦2000年。ここから渋谷の変貌は始まった。
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横浜はご当地ソングの宝庫。歌の舞台は、海と港だけじゃない~青江三奈『伊勢佐木町ブルース』、淡谷のり子『別れのブルース』、荒井由実『海を見ていた午後』【街の歌が聴こえる/横浜編】
歌謡曲や民謡などで、横浜を歌った楽曲の数は1000を超えるという。おそらく日本で最も多くの“ご当地ソング”を生んできた街なのだが、そのなかでも、「横浜のご当地ソングといえば?」というアンケート調査を地元のヨコハマ経済新聞が実施し、1位になったのが『伊勢佐木町ブルース』。得票数1925票は、過半数の53.97%を占める圧倒的な数字である(※)。
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ザ・ストリート・スライダーズ 解散23回忌~2000年10月29日、日本のローリング・ストーンズが終わった~
中学生のとき、テレビの深夜番組で「Back To Back」のMVを観て、初めてザ・ストリート・スライダーズの存在を知った。サウンドはそれまでの荒削りなものから、佐久間正英プロデュースにより洗練された仕上がりになった。バンドは5枚目のアルバム『天使たち』をリリースして上り調子にあった。スライダーズの音楽をものすごくわかりやすく一言で例えると、「日本版ローリング・ストーンズ」。ブルースを基調とした「ロックの王道」と呼べるものを80年代の日本で展開していた。スタンディングホールもフェスもない時代に、どれだけ特異なことをやっていたか、わかってもらえるだろうか。僕はスライダーズに引き込まれていった。特に好きな曲は「のら犬にさえなれない」。最後のコインは 何に使うのさ最後のコインで 何が買えるのさ遊びすぎた夜はいつも 誰かを想ってるBaby,のら犬にさえなれないぜ(中略)空は晴れてるのに 雨が降ってるのさBaby,baby教えてくれ こんなことってあるのかい?疲れたシャツ着て 通りをぶらついて人混みの中で 水たまり飛びこして誰もいない夜はそうさ 寝ぐらへ帰るだけBaby,のら犬にさえなれないぜどうですか、「疲れたシャツ着て」ですよ? 文学性の高い歌詞。ボーカルの‶ハリー”こと村越弘明が初めて作った曲だそうです。天才すぎるでしょ。
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歌詞の虚実。時が経てば、同じ眺めも違って見える!?~広瀬香美『ロマンスの神様』、たま『まちあわせ』、さだまさし『檸檬』【街の歌が聴こえる/神保町・小川町編】
地下鉄新宿線・小川町駅のB7出口をでると、頭上には坊主頭の顔が現れる。これを見て『まちあわせ』の歌詞が思い浮かぶ人は多いと思う。顔の看板を掲げた建物は、かなり年季が入っている。周囲を高層のビルに囲まれた小さな木造モルタルは、そこだけ陥没しているように見える。建物のサイズからすると巨大すぎる顔の看板が、なおさら目立って存在感を放っていた。
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路上のミュージシャンたちは毎夜なにを歌っているのか。音楽と高円寺は仲良しなんです!
つくづく思う――。高円寺ほど駅周辺に数多くの路上ミュージシャンが集まる街はないんじゃないか。今回は、彼らがどんな曲にどんな歌詞を乗せてメッセージを発信しているのかを聞いてきた。
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アルプス化粧室ってなによ?~狩人『あずさ2号』、猫『地下鉄にのって』、神聖かまってちゃん『新宿駅』の情景【街の歌が聴こえる/新宿編】
電車の中には大勢の人がいるのに、誰も会話をしていない。外国人観光客の間ではこの静かな車内が、渋谷スクランブル交差点の人流とならぶ東京観光の目玉になっているとか。「車内での会話はお控えください」と繰り返しアナウンスされるコロナ過の昨今は、さらにそれが顕著になっている。しかし、昔からそうだったのか?
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名門ジャズクラブ『新宿PIT INN』。日本のジャズの歴史が日々刻まれる聖地
日本を代表する数多くのジャズ・ミュージシャンがホームグラウンドとし、日本のジャズ・シーンをリードし続ける老舗ジャズクラブ『新宿PIT INN』。国内外のビッグ・ネームが演奏し、今なお若きジャズ・ミュージシャンがここで演奏することに憧れるジャズクラブの名店中の名店だ。その始まりは、新宿通り裏手の路地に弱冠20歳の大学生が開いた喫茶店だった。1965年のクリスマス・イヴのことだ。
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まだ見ぬ宝物は見つかるか?わざわざ行きたいマイナー駅
ターミナル駅では1日数十万人が乗降する東京。一方で利用客が極端に少ない“マイナー駅”も存在する。そこにはいったい何があるのだろう?普段はわざわざ降りぬ3つの駅を探索してみた!
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野口五郎『私鉄沿線』いきものがかり『SAKURA』の面影を求めて小田急線を歩く【街の歌が聴こえる/本厚木~千歳船橋編】
厚木駅を発車した列車は、まもなく相模川に架かる鉄橋を渡る。右手には相模大橋が見えてきた。いきものがかりの『SAKURA』で唄われた情景だが……あいにく、訪れた時はまだ秋。桜の花はない。川畔には見えるのは枯れ木だけ、寂しい眺めだった。
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番組終了から8年……ああ忘れまじ、『 笑っていいとも!』脳内傑作選
ふと思い出したんですけど『笑っていいとも!』が終了して今年で8年になるんですね。時の流れは速い。今から僕の記憶の中から『いいとも!』傑作選をお蔵出ししていきます。すっかり忘却されて誰もネットには記していないでしょう。ひょっとしたら僕の記憶違いかもしれない。でもどうか好意的に受け止めて下さい。これはテレビが大好きだった(過去完了形)元男の子によるメモリー開陳です。それではランダムにしたためていきます。 「テレフォンショッキング」ってあったじゃないですか?  ゲストがお友達に電話をかけて翌日の同トークコーナーに出演してもらう。あれって途中から番宣とかパブメインで使われていきますけど、そのきっかけとなった番組は何か覚えていますか? もったいぶらずに答えを言います。『ふぞろいの林檎たちII』なんですよ。そう、TBSのドラマ。あれで中井貴一、時任三郎、石原真理子、手塚理美といったメインどころが週をまたいであのコーナーを活用したんです。よく覚えているのが、タモリが石原か手塚に「いつ最終回なの?」と訊いて、「来週です(再来週だったかな)」と答えると、客席からやらせではない「えーっ!」って声が上がりました。『いいとも!』の観覧客=一般人は自分が気になるドラマがいつ最終回か知らないのがわりと当たり前でした。今みたいにネットで検索できないし。大方の視聴者も、えっ、『ふぞろいII』そろそろ終わっちゃうんだ⁉︎ って同じ気持ちだったんです。誰が仕掛けたのかは謎ですが、『ふぞろい』キャストによるテレフォンショッキングジャックは予想以上の反響を招きます。その証拠に全13回中、11回目の視聴率が17.5%だったのに、12回目は20.4%。最終回は20.0%。見事に有終の美を飾りました。今調べたら『ふぞろいII』の最終回は1985年の6月7日。ようやく家庭にVTRが導入されつつあったとはいえ見逃したら終わりの時代。もちろん『ふぞろい』以前、フジテレビの番宣のためにゲスト出演したケースもあったでしょうが、あそこまでひとつの番組の出演者が連続して登場し、数字に結び付く活用の仕方をしたことはそれまではなかった。フジテレビの誰よりも、他局のスタッフのほうが「いいともは番宣に使えるぞ」と見抜いていた。そして『ふぞろい』の後、ようやくフジテレビも『いいとも!』の影響力を認識します。テレフォンショッキング以外のコーナーにも番宣ゲストを登場させるなどして。一方、テレフォンショッキングの間違った使い方と言えばA・Y。女性週刊誌に表紙からデカデカと「真っ昼間男の家に行って髪型が変わって出てきた」と書かれた。いくら週刊誌が売れている時代とはいえ、世間のほとんどがそんなことは知らない。なのにAさん、当該週刊誌を取り出して「噓ばっかり!」と反論した。しかしこれが逆宣伝となり、売り上げ急増に貢献してしまったそうです。
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青山通りはアビーロードに似ているだろうか~かぐや姫『アビーロードの街』『マキシーのために』、尾崎豊『十七歳の地図』の舞台を歩く【街の歌が聴こえる/青山通り編】
ハンガリーから贈られた「街の音楽」という像が青山通りにある。道化師のような紳士が気持ちよさそうにバイオリンを弾いている像だ。今回の舞台は青山通り。かぐや姫と尾崎豊の名曲の時代を想像しながら歩くことにしよう。
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8月6日が来るたびに思い出す。 浜田省吾と名盤『J.BOY』。 ハマショーはなぜ怒っていたのか。
1986年――。それは日本のミュージシャンのアルバム当たり年だった。3月、BOØWYの『JUST A HERO』。4月、山下達郎の『POCKET MUSIC』。6月、松田聖子自身最大のセールスを記録する『SUPREME』。7月、渡辺美里が大ブレイクする2枚組『Lovin’ you』と、KUWATA BAND唯一のオリジナルアルバム『NIPPON NO ROCK BAND』。10月、バービーボーイズの『3rd BREAK』。11月、大江千里の『AVEC』と、BOØWYの『BEAT EMOTION』。12月、オフコースに在籍しながら小田和正のファーストソロアルバム『K.ODA』と、佐野元春の『Café Bohemia』。何これ。書き連ねていくうち怖くなってきた。大半がオリコン1位。全部持ってた。1986年は世代も性別も音楽性も異なるミュージシャンがキャリア最高傑作と呼ぶにふさわしいアルバムが発表された。そしてその中でも9月に発売された、浜田省吾の『J.BOY』は圧巻だった。オリジナルアルバム2枚組。当時33歳の浜省が半生を振り返り、余すところなくすべてを詰め込んだ集大成が『J.BOY』だった。メッセージ性の強い歌詞で綴られる、珠玉の物語集。これは読んでもらわないとわからないので「AMERICA」、「八月の歌」、「J.BOY」の歌詞を見てください。
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YouTubeで成功した後輩たちに会って感じた、青春の光と影
私が通っていた早稲田大学には当時数十もの音楽サークルがあったが、私がいたサークルは“オリジナル曲中心”を標榜していた点で他とは少し違った。ヒップホップ、ブラック・ミュージック、レゲエなどジャンルによって区別されているサークルが大半の中、実力はさておき、とにかく自分の音楽を作り、ひいてはその音楽で世に打って出たいという野心を持つ者が数多く属していたように思う。とはいえ、ごく一部の例外を除きその活動が世間に評価されることはない。サークル員たちはバンドを組み下北沢や新宿のライブハウスに毎月出演していたが、全く芽の出る気配のない数年を経た後も音楽を諦めきれず、またはサークル内の退廃的な空気に流され1年か2年留年した後、結局は普通に就職してそのうちバンドをやめてしまうパターンが大半だ。就活に力を入れて来たわけではないため有名な大企業に入社できるような者はほとんどおらず、大体は適当な中小企業に就職する。私も音楽で世に出るという野望を隠し持ってサークルに入ったクチではあるが、やはり1年留年して卒業する時期になっても音楽で食っていく道は全く開けていなかった。才能はなくともバンドを諦めて実家に帰るのはどうしても受け入れがたく、東京に残る口実として仕方なく小さなIT企業に就職したものの、全く適性がなく1年半で離職。その後、バイトを転々としながらのらりくらりとバンド活動を続け、今に至る。あの頃はバンドをやめて就職することが人生の敗北を意味するようにさえ感じていたものだが、30代も半ばになるとそんな熱っぽい考えも消えた。音楽家として生きていくことと、会社に就職して生きていくことの間にそこまで大きな隔たりがあるようにも今は思えない。もっとも、それは私が人一倍長い時間バンドにしがみつき、こうして媒体で時々自分の思うところを書かせてもらったりしているおかげで、表現欲や承認欲求といったものが多少は満たされているせいかもしれない。だが収入面でいえば、あの頃サークルにいた面々の中で現在の私は最下層になるのだろう。私の知る限り最も経済的に成功しているのは、「SUSURU TV.」というYouTubeチャンネルの運営会社の代表をつとめる矢崎という男だ。
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葉山の海岸に毎夏現れる『海の家OASIS』。こつこつ造って40ウン年、この夏も待ってる!
葉山の森戸海岸に毎夏現れる『海の家OASIS』。竹でできたゆる~い空間から漏れてくるレゲエサウンド、ジャークチキンの匂いに誘われ、地元から、遠方からOASIS好きが集いだす。代表の朝山さんが、OASIS誕生の物語や葉山愛を語ってくれた。
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都電荒川線・王子~大塚さんぽコース! 五感を磨いて探せ曲者物件たち
あれも無くなった、これも消えた……いくら再開発の手が入ろうと、屈指の底力を持つ王子と大塚に挟まれた都電沿線は、歴史も文化も風景も多様なごった煮ルート。持てる感覚を総動員し、アンテナ張って歩こう。
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老舗飲み屋に行って「おすすめ」を聞くと大変なことになった。
以前、友人と2人でとある温泉地へ旅行したときのこと。夕食後、せっかくなので地方のスナックに行ってみたいねという話になった。地元の同級生がいつもスナックで飲んでいるという話を聞き、私も大人の嗜みとしてスナックを経験しておきたいと思ったのだ。店前に着いた。が、重厚な木製の扉で中の様子は全く見えない。勇気を出して開くと、カウンターに二人組が座っている以外に客はいなかった。よかった、空いていたと胸を撫でおろし、店員に「今から2人いけますか?」と尋ねたところ、彼女はなぜか気まずそうな顔で「……ちょっと確認しますね」と言い、店の奥の女性と小声でやりとりした末、「すいません、今日予約でいっぱいなんです」と私に告げたのである。店員間の不自然なやりとりの様子から、嘘の理由をつけて断られたのだとわかった。本当に予約がいっぱいならば、尋ねる前から把握していたはずだ。なぜ入店を断られたのかわからず不満だったが、ともかく入れないのなら仕方ない。気を取り直して2軒、3軒とスナックをまわったが、どの店でも似たような態度で断られ、結局その日スナックに行くのは諦めた。帰り道、一体何が原因だったのかと話し合った。もしかしたら私たちが旅館の浴衣を着ていたのがいけなかったのかもしれない。店にいた客はみんな普段どおりの服装をしており、観光客ではない現地の人のように見えた。スナックにもそれなりのドレスコードがあるのか。それとも浮かれた観光客は鬱陶しいので入店させないようにしているのだろうか。はっきりした理由はわからずとも、私たちが知らぬ間に暗黙の了解を侵していたのは確かなようだった。そういった暗黙の了解は、スナック以外にも、ちょっと敷居の高い飲食店に行けばしばしば遭遇する。食べ終わったラーメンの器をカウンターの上段に上げるべきか否か。食べながらスマホをいじっていると怒られやしないか。注意書きでも書いておいてくれればいいが何の説明もない場合もある。やがて店員があからさまに愛想が悪くなったのを見て、何かやってしまったようだと察する。あとで店のしきたりをネットで調べ、確かに自分が知らず知らずのうちに無粋な行動をとっていたのだと反省することもあるが、何度思い返しても納得のいかないこともある。数年前のある日。左右というバンドをやっている友人の花池君、デイリーポータルZでライターをしている大北さんと千葉で取材した帰り、せっかくだから下町の老舗居酒屋に寄って帰ろうということになった。電車の中で大北さんが検索して見つけたその居酒屋は、決して高級店ではなく、値段は安いが味は確かで、いつも常連客で賑わっていると評判の、いかにも私たちが好きそうな店だった。暖簾をくぐると店内は老舗感にあふれていた。私は床が油でベトベトだとか天井が炭で真っ黒だとか、そういった古い店の汚さは気にならない質だ。ただ、奥の座敷へ通された時、観光みやげのペナントや将棋の駒の置物などが壁際に雑然と並んでおり、その「他人の家っぽさ」を少し苦手に感じた。
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