一日目
ということでまず参ったのは中国大返しはじまりの地・備中高松城である。
本年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』ではあまり描かれなかったが、備中高松城の水攻めは毛利家と織田家双方の大軍が睨み合う重要な局面であった。
此れについて詳しく話してしまうとそれだけで一本書き上がってしまうでな、此度は割愛致すが、忠臣・清水宗治殿をはじめ実に語ることの多い戦じゃ。
山に囲まれる低地に立っておるこの城を攻略するべく、周りの山々に陣を築いた。
秀吉の陣跡へは歩いて15分ほどである。
この辺りには秀吉が築いた堤防跡もあって、いかなる仕組みで築かれておるのかもわかりやすくなっておる。
ここからはかつての中国交通の要・山陽道を通って山崎へと向かって参る。
備中から備前に入り、見えて参ったのは日ノ本三大庭園を持つ岡山城じゃ!
我が娘婿・宇喜多秀家が築いた城で、安土城を模したと伝わる台形の天守が美しい城じゃ。
今ではこの岡山城と城下町が備前の中心地で県名の由来にもなっておるが、中国大返しの頃は斯様な大きな城郭はなかったのじゃ。
岡山城からさらに3時間ほど進み、見えて参ったのは沼城跡である。
秀吉は大返しの初日にこの城を宿としたと伝わっておる。
この沼城の主は先にも申した宇喜多家で、秀吉の中国攻めの肝とも言える存在であった。
毛利家の影響力が強い地からひとまず離れることができたというわけじゃ。
ちなみに儂は五日で終わらせねばならぬ関係で、沼城を越えてさらに進んで参った。
秀吉達が渡ったと伝わる吉井川や、日ノ本随一の刀の聖地「備中長船の里」を越えて、日生(ひなせ)港へ宿をとることとなった。
秀吉達は山沿いを進んだのじゃが、宿が取れなかったで一旦進路を海沿いに変えた次第である。
二日目
二日目早朝に宿を発ち、中国大返し最大の難所へと進んで参った。
早速の余談であるが、日生港からは鹿久居(かくい)島を含め瀬戸内海に浮かぶ島々が美しい景色を作り出しておった。
さて、歩くこと約4時間。
儂がやって参ったのは、船坂峠である。
この船坂峠こそが中国大返し最大の難所である。
備前と播磨の境の山中に位置するこの地は勾配が厳しく、越えるのに骨が折れたそうじゃが、現世では随分と道も整備されて、それどころか車道とは別に歩道があってな、全く危険のない通りとなっておったわ!!
何やら近代に入って峠が下げられて勾配が緩やかになったそうじゃな。
この船坂峠は岡山県と兵庫県の境界になっておって、これ以西は中国地方、以東は近畿地方、方言や文化の境の地にもなっておるそうじゃ。
この辺りは有年山城や龍野城など室町時代に活躍した大名家の城が数多ある。
京都から山陽に抜ける交通の要所として古くから栄えておった場所じゃ。
そして道中にはかつて聖徳太子様が築かれた斑鳩寺がある。この辺りは今でも太子町と申して、日本史屈指の有名人である聖徳太子様を大切にしておるのじゃ。
太子町を越えるといよいよ姫路である。
一日目は48km、二日目が62km、なんとか秀吉達と同じく二日で姫路までたどり着いたぞ!!
5〜10日かかったと伝わる大返し。
総距離約230kmのうちの約100km、実に4割以上の距離を初めの二日で進んで参ったわけじゃ。
何故ここまで急いだかと申すと、終着地である姫路城が関係しておるわけじゃ。
姫路城といえば世界遺産かつ国宝で、重要文化財をあわせれば82棟の現存建築を持つお城の王様である。
今の城は江戸時代の初めに池田家が築いたものが原型となっておるけれども、かつてからこの地に丈夫で大きな城郭があったのじゃ。
先にも申した通り、秀吉は、和睦をしたとはいえ毛利家とは依然敵対関係であるわな。
そんな中で毛利家の影響力の強い地で追撃を受ければ窮地に陥りかねない。
ひとまず無理にでも大軍をうまく休ませられる、安全なところまで引き返しておきたかったのであろうな。
この二日で姫路に到着したことに関しては、騎馬隊のみが二日目に到着して他の兵はその後、順次到着したとも伝わっておる。
三日目
二日目までは山中を進むことが多かったのじゃが、姫路以降は都市部を歩くこととなる。
現世においては長距離の疲労を除けば誰でも問題なく進める道ばかりじゃ。
して、三日目は黒田官兵衛にゆかりがあり、官兵衛の両親の廟所がある御着城や、加古川城を訪れた。
この加古川城は秀吉が毛利攻めを任された折に軍議を開いたとも伝わる城である。
大河ドラマでも描かれた、別所家が織田家を裏切る前に秀吉と顔を合わせたのがこの城である。
三日目に宿を取ったのは明石焼きで有名な明石の地、この地には無論100名城が一つ明石城が立っておる。
明石は九州や山陽地方と京を結ぶ山陽道と、北上して但馬や山陰へ続く街道、さらには瀬戸内海の海路をも見通し、四国から京への通り道ともなる日ノ本でも有数の交通の要所である。
明石城は江戸時代の初めに天下普請で築かれ、西国への備えとして重視された城である。
四日目
秀吉はこの明石の地にて軍を二つに分け、別働隊を淡路島に進ませた。
淡路島は織田家の領土であったが、本能寺の変の混乱に乗じて長宗我部家に与した。
前回の戦国がたりでも話したが、長宗我部家は明智家とつながりが深いために放っておくと背後を突かれる恐れがあったのじゃ。
故に兵を割いてでも盤石にしておきたかったのであろう。
明石から4時間歩くと神戸の港が見えて参る!!
この地は平清盛様が開かれた港で日ノ本の経済を担う地、我らからすれば武士の原初とも言える重要な場所じゃ。
全くの余談なのじゃが、ここは8時間労働発祥の地であるらしく碑が立っておったわ!!
南京町や芦屋を越えて神戸から6時間ばかり進むと見えて参ったのは尼崎城じゃ!!
此度あるあるじゃけれども、尼崎城も江戸時代初期に築かれた城で中国大返しの折にはなかったものじゃ。
じゃが、秀吉はこの尼崎に陣を張って、この地から織田家臣に手紙を送ったと伝わっておる。
しばしば、戦は手紙で決まると申すけれども、秀吉が尼崎まで帰ってきたことが大々的に知れ渡れば、味方を鼓舞し明智軍を動揺させられる。
どころか日和見の勢力達が明智方に与するのを防ぐこともできたであろう。
斯様な意味でも尼崎の地はこの大返しにおいては重要な地であったといえよう。
して、これは逸話であろうが、尼崎の地で秀吉は明智軍と遭遇し窮地に陥ったが咄嗟に味噌坊主の変装をして敵の目を欺き、事なきを得たと伝わっておる。
真偽のほどはさておき、斯様な話が残るまでに京へ近づいてきたということを示す話であるわな。
この日はさらに足を延ばし兵庫を越えて大阪に入ったのじゃが、一日中雨に打たれての進軍であった。
特に尼崎を越えてからは激しく雨が降ってな、旅の邪魔になるで雨具なぞ一切持ち合わせておらんかったで誠に厳しい行軍となった。
誠の中国大返しの時期も梅雨の頃であってな大雨に打たれながらの行軍であったと聞いておるから、確と原作再現ができて満足である。
五日目
さて、五日目は淀川沿い進軍いたし、高槻城や茨木城を訪れた。
高槻城は高山右近、
茨木城は中川清秀、どちらも摂津有力国衆である。
この二人は荒木村重殿の家臣として大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場しておるわな! 先に放送された山崎の合戦の前の軍議にてつかみ合いをしておった者達じゃ。
この二人は織田軍からすれば外様の存在で、明智軍からかなり近い位置に領土を持っておった。
そんな両家の二人が明智家に付かず、反明智の勢力に与したことは山崎の戦いを有利に進められた大きな要因である。
高槻城を治めた高山右近はのちに我が前田家の客将となり、特に築城の分野で大いに貢献してくれたわな。
高槻から山崎まではおおよそ2時間ばかし、対明智の最前線とも言える場所じゃ。
さて、ついに到着したは山崎の地である。
陣跡や決戦地に参る前に余談であるが、山崎駅の向かいに妙喜庵ともうす寺院がある。
なんとここには、かの千利休が築いた茶室・待庵が現存しておるのじゃ!!
利休が築いた茶室としては唯一の現存で、国宝三茶室の一つに数えられておる。
そしてこの茶室は山崎古戦場を見下ろすために作られたとも言われておる。
山崎の戦いのおりに秀吉が布陣したのは天王山、山崎に広がる平野を見下ろせる陣を張るのにあつらえ向きな場所である。
かつてはこの天王山の取り合いに秀吉が勝利したことが、山崎の戦いの勝敗を決定づけたと語られることが多かったそうじゃな。
ここから転じて運命を左右する重要な局面を天王山と表すようになったわけじゃ。
じゃが、近年は山崎の戦いを決したのは秀吉のみの功績にあらず、織田信孝様の指揮のもと池田恒興殿や丹羽長秀様、先に申した高山右近、中川清秀らの摂津衆の活躍によるところが大きかったそうじゃ。
(先から全て伝聞口調で悪いのう……)。
これは『豊臣兄弟!』でも同じように描かれておって、秀吉の山崎の活躍が華々しく描かれがちな中でかなり新しい切り口の物語であったといえよう。
天王寺から30分ほど歩くと両軍がぶつかった山崎の戦い決戦地がある。
これにて儂の中国大返しも以上となった。
終いに
此度の戦国がたりはいかがであったか!!
普段は歴史語りをしておるけれども、たまには散歩の達人らしいことができてうれしい限りである。
距離にして約240km、歩数にすると約32万歩であった。
現世では嘘か誠かといろいろ申される中国大返しであるが、実際に歩きて儂が結論を出すとれば、
『理論上は可能!』
儂からは以上である。
文・写真=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)







