光秀と長宗我部家
本年の大河でも登場した長宗我部元親殿。
若き頃はその嫋(たお)やかさから「姫若子」と呼ばれるも、逞しく成長し土佐を統一し「鬼若子」と呼ばれるようになったという、戦国屈指の格好いい異名を持つ武士である。
ちなみに元親殿は「鳥なき島の蝙蝠」(強者がいない四国で栄えただけ、という意味じゃ)という不名誉ながらも聞こえは抜群に格好いい異名を持っておったりもいたす。
さて、土佐を統一した長宗我部家はすでに天下人となられておった信長様とも親交を持ち、土佐支配を認められておった。
そして四国の切り取りを許されると、四国を統一するべくさらに版図を広げていったのじゃ。
この時の長宗我部家との取次を務めたのが明智光秀殿である。
長宗我部家は織田家との関係を重視し、光秀殿を通して鷹十六羽と砂糖三千斤(約1600kg)を献上した記録も残っておる。
じゃが、長宗我部家が讃岐(香川県)や阿波(徳島県)を攻めておる間に織田家の事情が変わってしまった。
秀吉による中国攻めの一環として、三好家に阿波を任せることとしたのじゃ。
これは話が違うと長宗我部家は大激怒、この様子は大河でも描かれたわな。
そしてこれは取次を務めた光秀殿の名を損ねる出来事でもあったのじゃ。
長宗我部家からしたら、光秀殿が嘘をついたかの如く映るからのう。
この長宗我部家問題は信長様の悪行として語られることが実に多い。
じゃが信長様としても四国を長宗我部家に任せきりにできぬ事情もあったのじゃ。
これよりはその事情について話して参ろう。
四国を取り巻く情勢
長く織田家と敵対し信長様最大の敵でもあった石山本願寺が降伏したことで、毛利家との戦が本格化し始めたのじゃ。
そして、織田家との戦に備えるべく毛利家が四国に侵攻を始めたことにより、信長様は自ら四国へも兵を動かさねばならぬようになった。
精鋭の水軍を持つ毛利家とすれば、四国を手にして磐石なる瀬戸内海支配を目指したのであろうが、織田家としてはこれを見過ごすわけにはいかぬ。
もはや長宗我部家の四国平定を待つ余地がなかったと言えるのではなかろうか。
阿波の支配を任されたのは先に申したとおり三好家である。
これまでも「戦国がたり」にて触れてきておるが、三好家は信長様の前に畿内を掌握し天下を治めておった一族で、その三好家の本拠地であったのが阿波国である。
故に対毛利家を考えても、地の利がある三好家に阿波の地を任せるのが最も安全であろう。
現世で申すところの至極合理的な経営判断である。
無論、長く付き合いがあり一時は四国を任せようとしておった長宗我部家との約束を違えたことは事実であれど、もはや信長様は日ノ本の全てを治めんとするお立場となり、義理人情や親交の深さで物事を判断するわけにはいかなかったのじゃ。
と、儂、前田利家は考えておる。
終いに
此度の戦国がたりはいかがであったか。
本能寺の変の真相については数多の説があるけれども、どの説でも必ずと言っても良いほど要素となっておるのが此度紹介した長宗我部家問題である。
皆はどう感じたであろうか。
最後に、長宗我部家問題の顛末について語って此度は以上といたそう。
四国切り取りを反故にされ、土佐一国のみの領有を命じられた長宗我部家は皆も知るとおり信長様に反発、戦の姿勢を見せることとなった。
そして、それを知った信長様は丹羽長秀様や信長様の三男・信孝様を中心とした四国方面軍を組織し四国攻めに取り掛かる。
この四国攻めが始まらんとした時に起こったのが本能寺の変である。
じゃが、時を同じくして光秀殿の元に一通の手紙が運ばれておった。
それが、長宗我部家からの織田家への従属を受け入れる旨の文である。
文には『受け入れ難いことじゃが受け入れる』と元親殿の苦悩が読み取れる内容が記されておった。
この文を元親殿が光秀殿に送り、手に届く直前に本能寺の変が起こってしまったのである。
この文がもうほんの少し早く届いておったらば本能寺の変は起こらなかったのではないか、そう思わせる重大なすれ違いである。
文・写真=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)







