農道に入ると、畑仕事をするおかあさんが「これ?」と、グラスを傾ける仕草を見せ、「楽しんでいってね〜」と、手を振ってくれた。ご近所さんも朗らかに迎え入れるのは、シイタケ農家『入江農園』の庭先にある醸造所『のろし醸造』。週末にタップルームが開かれるのだ。こけしやニポポ人形のハンドルを引いて注ぐビールは、庭のヒノキを麦汁の濾過板に敷いたり、ユズやハッサク、千葉産落花生を使ったり。季節ごとに仕込む味を替え、ゆるゆる杯を重ねる客が入れ替わり立ち替わり訪れる。
タップルームに立つ入江匠さんは、沼津『ベアードブルーイング』、栃木『うしとらブルワリー』でブルワー経験を積んだ人。だが、婿入り先の『入江農園』でかつて夢見た農家に転身した。当時を思い返し、農園主で義父の茂之さんは「彼も、彼の父もうちの裏山を見て、宝の山だと目を輝かせたんですよ。何にもないとこなのにね」と笑った。
匠さんは、「竹林やヒノキ、果樹が実る風景は、現代において本当に貴重な宝。森のまちを謳う場所だからこそ、なくしてはならないと思いました」。そして、暮らすなかで、放置された果実、周辺農家の現状を知り、ブルワーの経験を生かして森を活用するクラフトビール造りを始めることを決意した。
「手入れは面倒だし、お金も人も掛けないと残せない。だからこそ、未来へつなげるための“狼煙(のろし)”を上げました」
農作業のあとにビールで喉を潤す、セゾン文化を実現
とはいえ、次々と生えてくるタケノコや崖に残る倒木などと格闘し、手入れに苦戦した。そんな時に力を貸してくれたのが、常連客たちだった。「特殊伐採を生業とする人がいて、山仕事の道具を持ってきてくれて」。
それを機に『のろし醸造森林倶楽部』を結成し、2カ月に一度ほどのペースで活動を開始した。キャンプブームのおかげで、オノやナタを持っている人は意外にいるそうで、冬の焚き火に用いる薪を割ったり、土壌をふかふかにする竹チップを作って周辺農家に渡したり。体力仕事だが、「ご参加、お待ちしています」と匠さんは力を込める。
また、生活圏の農家と消費者をつなぐ市民活動『connect nagareyama 』と連携した取り組みも始まっている。廃棄果実をなくすための摘果や、畑じまいのときに大量に出る熟れすぎた果実を収穫・加工して、ビールの仕込みに用いている。
そして、どちらのイベントも農作業後の乾杯ビール付きなのがうれしい。実はベルギー発祥のビアスタイル“セゾン”は、繁忙期に農作業をお手伝いした人たちみんなで、農家が造ったビールをゴクゴク飲んで喉を潤した文化が起源。「本当の意味でのセゾン文化をここで体験してもらえれば」と話す。
農作業、森の手入れ、ビールの仕込みと聞けば、目が回る忙しさだが、「うちの企業理念は“ムリをしない”」と、飄々(ひょうひょう)と笑う匠さん。森の息吹をぜいたくに用いて醸したビールは、香りも風味もくっきり際立っている。森の時間とあわせて、のんびりと味わいたい。
『のろし醸造』店舗詳細
取材・文=林さゆり 撮影=山出高士
『散歩の達人』2026年7月号より





