小さな野球場の角を曲がってフェンスに沿って進むと、自転車の並ぶ手前にベンチがある。ベンチといっても長四角の石って感じだけど、座るためにあることはわかる。誰もいないと思ったら、すぐ後ろの喫煙所から先輩がだるそうに出てきた。

野球場の方を向いて並んで腰かけるとき、ふっと煙草の匂いがした。話はいつものように仕事の愚痴から始まった。ずっと天気がよくて休みがないらしい。

「連休なんか、一月末のが最後だよ」

「それって前に会った時でしょ。ってことはひと月半、連休なしですか」

地元で建設系の仕事に就いた先輩は、時々、東京の大学に進学した俺に会いに来る。上野はお互いに都合がよく、とくに何をしようって予定もなく駄弁ってメシ食って、夜には帰るだけの集まりだ。一応今日は花見ってことにはなってるけど、花をつけた木は多くない。ただ公園ではもう桜まつりが始まっていて、屋台が出て人出も多い。

「その、前の時にさ、俺らが見かけた女の子いただろ」

「ああ」姿はすぐに思い浮かんだ。「泣きながら歩いてた」

たぶん俺たちとそう変わらない年だった。先輩は喫煙所から出た時に、俺は公園口を出て東京文化会館の角を曲がるところで、それぞれすれ違った。目は赤かったけど、涙をぬぐう様子もなく歩いていたし、化粧っ気もぜんぜんなかったから、周りの人は意外と気付いていなかったと思う。

「なんか忘れらんなくて、仕事中とか思い出したわ」

「なんだったんすかね、失恋とか?」

「そうかもな」と言ってから、先輩は首をかしげた。「いや、あんまりしっくりこないだろ、失恋は」

「でも、他になんかあります?」

「あるよ。泣く理由なんて、いくらでも。お前、泣いたか? 最近」

「家で映画見てとかはめっちゃあります」

「いやそうじゃなくて、あんな感じで」

「人前で? ないですね。そもそも人生でないかも」

「お前はそうだよな」

あきれたように言うと、先輩は目の前にあるフェンスの奥、がらんとした野球場を見つめた。それから、煙草でも吸ってるみたいに大きく長く、息を吐いた。

「去年——最後の夏だって泣かなかったんだろ、どうせ」

「だから、人生でないって言ってるじゃないすか」

俺は自分のではなく先輩の最後の夏——組み合わせの運もなく一回戦で負けた時のひどい泣き顔を思い出していた。座っているベンチは左中間の後ろにあって、先輩のポジションだったセンターあたりをなんとなく見ながら言う。

「ここ、正岡子規記念球場って言うらしいですよ」

「知ってるよ、書いてあんだろ」

先輩はうるさそうに、レフト側のファウルグラウンドにある入り口の方を指差した。ここからは見えないけど、球場名を一字ずつ記したプレートがアーチ状に並んでいる。

「じゃあ、手前にある説明の看板も読みました?」

「あったか、そんなん?」

「あるんすよ。で、そこに書いてあったんすけど、〈打者〉とか〈走者〉って訳したの、正岡子規らしいです。〈直球〉も」

「なんか聞いたことあるな。だって、〈野球〉もそうなんだろ?」

「いや、〈野球〉は別の人らしいです」

得意げだった先輩の顔が露骨にくもる。

「これも書いてありましたけど、正岡子規はなんか別の言葉に訳してて」

「なんて言葉?」

「わかんないっす」

「なんでだよ、書いてあったんだろ」

「ないんですよ、ふりがな。〈ナントカ球〉ではあるんですけど」

「どんな字?」

「いや……たぶん無理ですよ」

「わかんねえだろ、見てみなきゃ」

「だって俺が読めないのに、無茶っすよ」

「なんだ、無茶って」

「え、じゃあ見に行きます? そんで、ビシッと読んでくださいよ」

「いやだよ。お前が写真撮ってこい」

「なんでですか」

「わざわざ行って読めなかったら——」

それはきついだろと先輩は言った。笑いながら納得して、俺は一人でバックネット裏まで歩いていった。野球ボール型のプレートの下に説明が書いてある。ユニフォーム姿の正岡子規も添えられた文章の中に〈弄球〉という言葉。

LINEで写真を送ってから戻ると、やっぱりいない。いつになく混んでいる喫煙所で、難しい顔でスマホを見ている。しばらくして戻ってくると、先輩はたっぷり間を置いてから言った。

「でも、〈直球〉はやばいな」

読みの期待なんてしていないから、たしかにと返して会話を続ける。

「チョッキュウって速そうだし、響きまでまっすぐだろ。そういうのも考えてんだろうな。さすがの正岡子規は」

知らないくせにと思ったけど、俺も似たようなもんだから黙っていた。耳にまとわりつくように風が吹き続けて、フェンスの向こうにも少し土埃が舞う。それがおさまったタイミングで先輩が言った。

「この先、泣くほどのことってあんのかな?」

マジなモードになると面倒だしつまらないから、茶化す言葉をさがした。

「年取ると涙もろくなるって言うから、大丈夫っすよ」

こういうことを言えるから可愛がられているんだと我ながら思う。先輩はにやついた顔で腕を組んで、俺から距離を取るみたいに背中を反らした。

「まあ、お前には無理か。最後の夏で泣かないようなヤツには」

「最後の夏とか言うから、そういう考えになるんですって」

「最後の夏だろ、あれは。どう考えても」

あれという言葉も、フェンス越しに見るグラウンドも、ぜんぶ遠かった。その後も部活来てたじゃないですかと言っても反応はなく、先輩はポケットから取り出した煙草の箱を、ボールを何度も握り直すみたいに手の中で回し始めた。煙草は吸うなと監督によく言われて、吸ったところでニュースにもならないとみんな笑っていたけど、誰も吸わなかった煙草。去年の夏、ここで初めて会った時に吸うようになっていて、やっぱ働くと金あるんですねと言ったら、ねえよと返された煙草。

「一回しか負けてないのにな」と先輩は言った。

「みんなそうでしょ、優勝したとこ以外」

「そうだよ、そうだけどな」早口で言ったあと、少しの間があった。「何回勝ったかなんだよ、たぶん」

まだマジっぽかったけど、今度は言うことが見つからなかった。どこか退屈そうな先輩の顔の向こうに、咲いていない桜が見えた。

文・写真=乗代雄介
『散歩の達人』2026年5月号より

ホームからの階段を上がって時計を見ると、12時15分。ちょっと遅れたけど、慌てるほどでもない。でも不安になって、新幹線の予約を確認した。上野発、こまち23号、秋田行き、13時26分。