僕に対して言ったとは思わなかった。同じ日本文学専攻だったことがわかって近代文学の話で盛り上がってはいたけど、同期の池内さんが来てからは上手く会話に入れていなかったから。池内さんは、早速に上げられた日程調整アプリのリンクを、まず養田くんに、それから僕に見せて笑っていた。
部署が一緒になるのだって多くて数人だし、勤務地も変わるだろうし、同期の繋がりが大事とも思えないけど、出席率が高くて断る勇気もなかった。苦手は苦手だから昼頃に帰るってことにしていたけど、養田くんが終日参加にしているのはチェックしていた。
場所は上野の森美術館と清水観音堂の間にある広場で、ピンを刺した地図と大きなレジャーシートを広げた写真、「桜には期待しないように!」というメッセージが、当日の朝に上げられていた。行ってみると、確かに桜はほとんど咲いていない。
なんとか合流して宴席のいくつかの輪の一つに加わると、養田くんはああ言いながらも楽しそうに、中心っぽいメンバーの中にいた。会費は飲み物代の千円だけで、食べ物は屋台村にくり出してそれぞれやりくりするスタイルだ。養田くんは何人かと連れ立って屋台村に行き、戻ってきた時には大きなイカの串焼きを頬張っていた。自分も何人かで行って、迷った末に同じのを買った。その姿をちょっとでも見てくれたらと思ったのに、イカの立て付けが悪くて戻るまでに食べきらないといけなくなった。そこにいるみんなは笑ってくれたけど、精一杯おどけながら、自分が気落ちしているのがわかった。
戻ると、養田くんは場所を変えて盛り上がっている。いつか自分の番が来ても、この雰囲気では懇親会の時みたいな会話ができないのは目に見えている。なんだかんだしゃべっているうちにお昼が近づいて望みが薄くなると、今度は養田くんのことばかりちらちら考えている自分が情けなくなってきた。これからこの会社で働こうっていうのに、何をしているんだろうか。
その時、養田くんがどうやらトイレに立った。離れていくのを横目で確認しながら、座を囲んでいる人たちにお暇(いとま)を告げた。
「小野くん、帰りまーす!」
加納さんの高い声でこっちを見たみんなが、拍手や声かけをしてくれる。あとで誰か、養田くんに伝えてくれるだろうかと考えた。
向かっているJR上野駅は養田くんの行ったトイレとは逆の方角なのに、ばったり会ったらどうしようとか考えている自分がいやだ。正岡子規記念球場の横、碑と説明板の前で、明るい髪色をした若い男の子がスマホを構えている。意外に思いながら、尻を突き出したガニ股の後ろ姿に目がいった。通り過ぎてから、じっと見るのも意外に思うのも失礼だったと反省する。きっと、野球が好きなんだろう。
いやそれだって、自分のように文学好きだと思ったっていいはずだ。やさぐれているらしいと自己分析しても収まらず、同期の中であの碑に足をとめた人は誰もいなかったろうなと考えてしまう。いるとしたら、やっぱり養田くんだろうということも。
養田くんと文学の話がしたかった。上野なら、子規とか鷗外とか——と思っていたら、駅と反対、広場に出る方に曲がっていた。そのまま左側通行の規制がされているさくら通りに入って、同期がその奥で宴会をしている清水観音堂を見上げたあと、反対の階段を、不忍池へと下りていく。
森鷗外の『雁』に出てくる、東大の真向かいの下宿に住む岡田という学生には、決まった散歩コースがある。ここからだと対岸にある無縁坂を下りてきて、不忍池を北に回って、上野の山をぶらぶらして、広小路から仲町、湯島天神というのがその一つ。行きや帰りに無縁坂を通る時、ある家の窓辺にいる女が彼に微笑みかける。窓の女、無縁坂の女——周囲から様々な二つ名で呼ばれるその美しい女は、高利貸しの妾のお玉だ。
お玉の素性と強さにも似た諦め、それを翻す決心までが小説の多くを占めるけれど、読者の心に残るのは、互いに懇意になろうとしていた望みが叶わなかった原因だと語り手の「僕」が言う「青魚(さば)の未醤(みそ)煮」かもしれない。
家の人が出払ったある日、お玉は通りがかる岡田と話をしようと門の前で待つ。ところが、岡田は友人と一緒で声をかけられない。その友人が、下宿の夕飯に大嫌いなサバの味噌煮が出たからと外食ついでの散歩に同行した「僕」だ。帰りにはもう一人増えた上にタイトルの雁に関わることで騒いでおり、結局、お玉は再びチャンスを逃す。しかもその日は岡田が洋行のために下宿を立つ前日で、以後、二人は二度と会うことはなかった。サバの味噌煮が下宿の夕飯に出たために。
どうせなら岡田の散歩コースを少しなぞってみようと、弁天島に渡り、ボート場に突き当たったところを左へ折れる。そのまま池の上に造られた小径を行けば無縁坂を下ってきたあたりに出るけど、なんとなく足が重くて、途中のベンチに座った。
ボートの行き交う池を眺めながら物思いにふけってどれくらい経ったろう。いつの間にか隣のベンチに置かれている、総菜のパックに目が引き寄せられた。琥珀色の液体に半分浸った、皮目の青い縞模様。
普段なら考えられないことだけど、なんせやさぐれていたし、花見の無礼講な雰囲気にもあてられたんだろう、僕は座ったまま、惣菜パックと同席しているご婦人二人に話しかけていた。
「すみません」
近い方の相手が、小さなお茶のペットボトルを握りしめたまま僕を見る。
「それって」と指差す。「サバの味噌煮ですか」
「そうだけど」相手は気安く答えたあと、隣と顔を見合わせ、変なことを聞かれたもんだとひとしきり笑い合った。それから、こちらに向き直って言った。「サバの味噌煮がどうしたの?」
確かに、サバの味噌煮がどうしたって言うんだ。戸惑いながらも「僕もちょうど食べたかったんですけど」と口が回る。「どっかの屋台に売ってましたか?」
「屋台にないでしょ、こんなもの」とまた笑って、お茶を自分の肩越しに向けた。「松坂屋の地下で買ってきたの」
「好きなんですか?」
「なんか無性に食べたくなって。今はそうでもないんだけど」
さらに大笑いする二人に礼を言って別れたあと、僕は予定と気分を変えて、松坂屋に行ってサバの味噌煮を買うことにした。岡田とは逆、池の南側を回って、したまちミュージアムのあたりから通りに出ればいい。
公園を出る時、ちょうど池の反対から来て進路がかち合いそうになる歩き姿が視界に入った。警戒しながら目をやったせいで余計に驚いたけど、養田くんだった。
「あれ」と明るい声と顔で養田くんは言った。
平静を装いながら聞くと、用事ができたと言って抜けてきたらしい。
「もう全員としゃべったし、終わった就活の話ばっかしてるし、疲れちゃった」
全員とはしゃべってないよ。そんな僕の心を見透かすように養田くんは続けた。
「小野くんいたら楽しい話もできると思ってたんだけど、いつの間にかいないし」
やっぱり誰も伝えなかったらしい。でも、そんなことはもうどうでもよかった。
「帰り、こっちなんだ?」と僕は訊いた。
「そう、大江戸線なら一本だし。でもせっかく上野来たからちょっとぶらつきたくて、みんなにバレないようにこっち来てみたら——」
養田くんが、見開いた目を僕に向ける。動揺しながら、確かに、このまま行くと上野御徒町駅があると考えた。松坂屋はそのすぐ上だ。
「小野くんこそ何してんの? 帰ったの、けっこう前でしょ」
僕は静かに大きく息を吸った。うまく説明できるか不安だったけど、養田くんなら大丈夫だという気がした。サバの味噌煮を——とまずは心の中で言った。
文・写真=乗代雄介
『散歩の達人』2026年6月号より








