炸裂する「遊園地」という名の昭和文化
「恐ろしいぞぉ、ふっふっふっ…」のセリフに見送られ、私を乗せた車が闇に放り込まれる。でもその先は知らない。目も耳もぎゅっと塞ぎっ放しだったからだ。
ミステリーゾーン…怖かった。
それからサイクロン。ドッドッドッと不気味な静けさで斜面を昇ったかと思うと一気に急降下、キャー!ギェーっ! もう一生乗らないと心に誓った少女のあの日。
浮き輪に乗って流れるプールでようやくのんびりするも、夜のプールサイドで見上げた花火はドーンと上がるや柳のように火花が頭上に降り注ぎ、身をすくませた。
としまえんって、もうどれもこれもブンブン振り回されるかのような刺激で、子どもの頃の私は訪れるたびにいつもクラクラだった。
今回、その思い出の地が閉園してしまうというので取材に訪れた。そしてあの刺激の舞台裏をこの道40年の事業運営部長の内田弘さんにひもといていてもらった。聞けば彼らは全身全霊で次々に度肝を抜くことを考え、それを具現化し続けてきたのだった。それがあの刺激の数々になったのだと、体の芯から納得した。
最初の絶叫系が誕生したのは昭和2年!
そもそもの始まりは大正15年(1926)、実業家の藤田好三郎が自邸を開放し、私財を投じて造り上げた「練馬城址豊島園」だ。
当初は「体育の奨励と園芸趣味の普及を目的として云々」と、穏やかなものだったが昭和2年(1927)の全面開園の頃には元祖絶叫系ともいえるウォーターシュートが登場している。高さ20メートルの流水斜面を小舟で滑り落ち、池に着水すると同時に船頭さんがジャンプ! 明治末期の大阪や上野公園での勧業博覧会で紹介されたものをいち早く取り入れたのだ。
ちょうど私鉄各社が乗客確保のためにこぞって沿線に遊園地を作り始め、警視庁も大正15年に空間的な境界のある営利目的施設を遊園地と定義付ける「遊園地取締規則」を制定した。こうして「遊園地」という文化が大正ロマンの伸びやかな時代の中で芽吹いたのだった。
その後、「豊島園」は戦争で一時は閉園を余儀なくされたものの、戦後メリーゴーラウンドや飛行船といった機械遊具が順調に増えていった。モノレールもここが日本初だ。
持ち主も藤田氏から武蔵野鉄道、そして西武鉄道へと移っていった。ことに西武グループ創始者である堤康次郎は豊島園がお気に入りで、やがて子息の一人が豊島園を担当。ドッカーンと大胆にして独自路線の遊園地作りが始まった。
振り返ってみれば私たち世代は若い頃、大胆で垢抜けた西武&パルコ文化に大いに感化されたものだが、もっと小さな頃から堤一族の掌の上で転げ回っていたのかと気づいた。そういえばとしまえんの広告も奇抜だった。
私がよく訪れたのもこの独自路線を爆走しはじめた昭和40~50年代だ。探してみれば懐かし乗り物が今も現役なのも嬉しい。「おう、久しぶり」と肩を叩きたくなる。
大胆路線の筆頭が昭和46年(1971)にお目見えしたメリーゴーラウンドのカルーセルエルドラドだ。豊島園の目玉となるものをと、探し当てたのは明治40年(1907)にドイツで作られた回転木馬。アメリカで売り手を探していることを聞きつけ買い取った。内田さんは「総工費3億円ですよ。当時のメリーゴーラウンドは500万円から高くても3000万円の時代に」とうれしそうに呆れてみせる。
この回転木馬はアールヌーボー調の繊細な木彫と彩色の丸ごと巨大な芸術作品だ。子ども心に楽しい反面、世紀末っぽい不気味さの戸惑いもあった。だってリアルな豚が舌出して馬車を引いているんだもん。オリジナル曲も華麗にしてどこか切ない。
聞けばサイクロンも昭和40年(1965)に内田さん曰く「座り心地やお尻がふわっと浮く感じなど、こだわりにこだわり抜いて」作られたのだという。今となっては高さ18メートルと小ぶりだが、正統派のジェットコースターとして海外からもファンが訪れる。あ、私はもう乗りませんけどね。
中でも内田さんがひときわ目を輝かせて語るのがアフリカ館だった。
海外旅行がまだ遠い夢の時代、徹底的に「本格派のアフリカ探検」を再現した。
わあ、覚えてる! ジープに乗って館に入ると等身大のアフリカゾウが鼻を揺らして迫り、マサイ族が目玉を動かしてギロッと睨む。「そうそう、吊り橋を渡ると揺れてね」と内田さんも熱がこもる。当時メンテナンスと企画担当だった彼は、大きな制御室に出入りし、縁の下の力持ちとして活躍したのだという。
「まだコンピューターもないから、センサーでスイッチが入ると電気仕掛けで動くんです。音響はオープンリールテープの録音機で切れたテープをつなぎ合わせたりね」と内田さん。しかも合成樹脂もない時代だからゾウなど造形物は皆、硬質ウレタン製だった。私も大学時代に造形工房でアルバイトしていたのでその苦労はよく分かる。ウレタンの塊を造形作家が一つずつナイフで切り出して組み立て、シリコンと着色料を塗るのだ。ゾウの鼻なんてよく壊れました、と、内田さんは笑う。
アフリカ館はダークライドという乗り物に乗ってアトラクションに入っていくジャンルの一種だが、これを日本で最初に造ったのもとしまえん。準備期間3年、総工費3億円もかけて他に類を見ないものを造った。が、あまりにもアナログで大掛かりだったのが仇となりメンテナンスにも限界が生じて20年前に惜しくも閉館。現在トイザらスがある場所がそれだ。
あれ?でもダークライドとしては確かミステリーゾーンの方が数年先にできましたよね。なぜあちらはまだ現役なの?
「おばけを修理する職人はまだいるんですよ。多少壊れていてもお客さんも暗くて気がつきませんし」と内田さんは笑う。確かに。
腰に縄をつけた社員が流されたという世界初のプール
この頃、当園ではプールにも世界的大発明があった。流れるプールだ。
もともと創業当時から大小プールがあり、古くは石神井川から水を引いていた。そこに昭和40年(1965)、「泳げない子も泳げる気分になれたら楽しいのでは」と編み出されたのが、プールで水ごとお客を流してしまう大胆な発想だ。
世界に類を見ないものだから自分たちで実験を重ねた。なんと秋川渓谷で腰にロープをつけた社員を激流や緩やか流れに放しては、「一番心地よい流れ」を研究したのだ。そしてここぞという川面に木の葉を浮かべて測定。1秒間に1メートルと定められた。どこまでのびのびとした職場なのだ、ここは。羨ましいぞ。
他にもナイアガラプールに波のプールと、水遊びにも刺激がちりばめられた。
そして特筆すべきは昭和63年(1988)公開のハイドロポリスだ。
「アメリカやカナダでは、昔からウォーターシュートがプールにはつきものでした」と内田さん。そこで彼自身もアメリカ大陸で滑りまくって生み出されたのが、31本ものパイプが複雑に絡み合う奇々怪々な滑り台。製造を依頼したカナダのメーカー担当者にも「こんな複雑なのは世界中どこにもない」と言わしめたとか。
余談ながらこのハイドロポリスの立つ丘は鎌倉時代末の豪族・豊島氏の城跡だとされている。 『としまえん』の名称の由来でもある。36年前のハイドロポリス建設前に発掘調査を担当した練馬区文化・生涯学習課の都築恵美子さんによれば、「中世の堀どころか、旧石器時代から縄文、古墳時代など、実にたくさんの時代をまたぐ石器や土器が多数見つかった貴重な複合遺跡です」とのこと。大昔から人を惹きつけるエネルギーを持つ土地だったのだろうか。
時代の波を次々に乗り越え、『としまえん』は立ち止まらない
再び時代はぐいっと下る。世の中はバブル時代に突入し絶叫マシン全盛期。「豊島園」も一層の華やかさを増す。とにかく一番大きな船を、と、120人も乗れるフライングパイレーツをドイツのメーカーに作らせた。
ところでここでまた疑問が湧いた。なぜフライングパイレーツなど一部の機械遊具は建物の屋上にあるの?
「この時代、園を拡張しようにも土地買収には坪300万円かかりました。でも2階建てならば建設費は坪100万円と試算が出て、よし、それでいこう!と」と豊島園は考えた。高さが割り増しになる分、空中ブランコもイーグルもスリル倍増のおまけ付きだ。全部2階にして橋でつなぐ予定もあったが、バブル崩壊で断念。
不況に陥り、すべてに見直しを迫られた。絶叫系は若い人がターゲットだったが、彼らは次の刺激を求めてすぐよそへ行ってしまう。気がつけば身長110センチ以上しか乗れない乗り物ばかりになっていた。そりゃあ家族連れは来ないわけだ。
原点に立ち返ってファミリー向けに方向転換を図る。カルーセルエルドラドの不気味な舌出し豚や馬も、ゆるキャラブームに乗って愛嬌のあるエルちゃんカルちゃんというぬいぐるみになった。名称も「としまえん」とひらがなにした。
何気にコスプレィヤーが、そこかしこで撮影しているのもご愛敬だ。
閉園の理由は経営不振じゃありません!
私が再び訪れるようになったのは、2000年代以降だった。
6月のあじさい園を愛でて模型列車とカルーセルエルドラドにチョイ乗り。夏には花火、そして庭の湯の温泉でまったり。大人の楽しみである。何より豊島園駅ホームに降り立つと遥かなる行楽地にさまよい込んだようなワクワクが好きなのだ。
「ここは居心地の良い職場ですよ。何よりお客さんをどんな風に楽しんでいただけるかを考えるのが大好きなんです」と案内してくれた広報担当の宮内さん。
「とにかく自分たちが楽しくなければ」と、誰よりも楽しんでいたに違いない内田さんは語気を強める。彼らが愛してやまないとしまえん。きっと働く人たちにとって、お客さんの笑顔や驚く顔は何より宝物なのだろう。
そんな中、この春に突然の閉園が発表された。でも決して経営不振などではないと内田さんは強調する。「東京都が昭和32年(1957)にここを都市計画公園に指定し、ちょうど今年が明け渡し期限になるのです」。敷地はとしまえんから都が買い上げて防災拠点の「練馬城址公園」に、一部はハリーポッター関連施設になるらしい。
「西武鉄道系列だったから成人式や練馬まつりの場として地元に根強く密着していたけど」と、練馬区民は不安を漏らす。
でもカルーセルエルドラドをはじめ、乗り物のいくつかは系列の西武園ゆうえんちなどに移設される可能性があるという。
どこまでも追って行きたくなった。前向きに考えれば「としまえん」という種子があちこちに飛んで、新たなる遊園地文化の刺激になればいい。
「機械遺産」にも認定されたカルーセルエルドラドの行く手を内田さんは案じる。「行政が単なる乗り物としてだけではなく、芸術性も認めるような使用許可を与えてくれるといいのですが」。
としまえんに戻ろう。戦前から花火や演劇で盛り上がった夜の文化は今も伝えられている。2016年に再開された花火は以前ほどの大玉は打ち上げられないが、内田さんの言う「これでもか、という量のスターマイン」が7分間でも見応えたっぷりのお楽しみだ。日が暮れてステージの歌に酔いしれた後、超至近距離に花火が爆裂。大玉はなくても相変わらず花火玉の紙片が頭上に降り注ぐ迫力に、余韻じんわりだ。
花火が済んで見上げた夜空に半月よりちょっと膨らんだ黄色い月が浮かんでいた。月が次に満月に近づく頃、としまえんはすべての灯火を落とす。カルーセルエルドラドの楽曲とエントランスの不気味に光る巨大な花々に見送られるのは、いつも切ない。
ああ、この夏はいつにも増してキュンとするなあ。
参考文献=「夢の黄金郷「遊園地」〜思い出のメリーゴーランド〜」練馬区立石神井公園ふるさと文化館発行。