一方の西側には、今もなお昭和の面影が色濃く残る。バラック造りの西口商店街はかつての闇市で、戦後からほとんど姿を変えずに街の変遷を見守ってきた。小規模な飲み屋が軒を連ねる飲んべえたちの聖地。こっちこそが溝の口の“A面”と言いたい。
この街の夜は『いろは』がオープンする16時ちょうどに幕を開ける。1967年開業。このあたりでは1963年開業の『かとりや』に次ぐ老舗である。オープンとほぼ同時に入店すると、すでに出来上がっている様子の先輩たちが数名(なぜ?)。
立ち位置を決めるとすぐに「兄貴、何にします?」と3代目の拓巳さん。「たっちゃーん! 生が二丁!」と焼き場を司りながらサポートする親父さんは先代で、拓巳さんの実の父。両者とも目と耳がもう2つずつ付いているとしか思えない気の回りようだ。
焼酎250円をオーダーすると、見慣れぬ小瓶が運ばれてくる。ラベルに書かれているのは『燃える男の酒』。こりゃ、効きそうだぜ。呂律(ろれつ)が怪しくなってきている常連さんからの注釈「それを飲み切る頃にはもうベロベロだよ」も、説得力があってありがたい。
混雑時には常連さんが自分の飲み物を作っていたりして、勘定もほぼ自己申告性。街の酒場らしく、信頼と親切心で成り立っている。
19時ごろから店内は落ち着きを見せ始める。拓巳さんいわく「19時までが僕らからすると“午前の部”。ここでいったんハーフタイムです」。
10分に一度、横の線路をJR南武線が走り去る。轟音に驚いてその様子に目をやると、トンネルのようなアーケードには炭火焼きの煙が充満し、周囲が白んでいた。向こう側はうっすらとしか見えない。ぼんやりと灯る赤ちょうちんが酔客たちのゆるんだ表情を照らす。絵に描いたような昭和。楽園は、ここにある。
取材・文=重竹伸之 撮影=逢坂 聡
『散歩の達人』2025年4月号より