昭和のアーティストたちに愛された1967年創業の小料理店
JR渋谷駅南口から歩道橋を経由して首都高をくぐり、桜丘方面の階段を降りるとすぐ小料理店『しぶや 三漁洞』がある。外観の様子から落ち着いた雰囲気があり、格式の高いお店ではないかと思ったが、店頭に出ているメニュー表を見ると思ったより手頃な値段だ。
店に入って店主で女将の石橋光子さんに話を聞いてみた。
創業は1967年4月8日。尺八の名手・福田蘭童さんによって開かれた店だ。蘭童さんは釣りの名人でもあり料理上手だったため、自分で釣った魚をたびたび友人たちに振る舞っていたそう。そのことが雑誌で紹介されたのをきっかけに、プライベートサロンとして使われていた空間が、開かれた飲食店に様変わりした。調べてみると、井伏鱒二、志賀直哉、谷崎潤一郎、菊池寛といった作家らと交流があったようだ。
「オープンしたときは現在の渋谷サクラステージがある場所の一角に店がありましたが、渋谷の再開発をきっかけに2019年、この場所に引っ越してきたんです。店名は海釣り、川釣り、陸釣りと“3つの漁”に、当時の店舗が地下にあり“洞窟”のような雰囲気だったことから初代の蘭童が『三漁洞』と名付けました」
2代目を引き継いだのが福田蘭童さんの息子・石橋エータローさんだ。石橋さんは昭和を代表するジャズバンド、クレイジーキャッツのピアニスト。その妻が現在3代目を担う光子さんなのだ。
「石橋のお祖父さまは明治の洋画家・青木繁で、父の福田蘭堂、そして彼自身も芸術的な才能に恵まれていました。石橋の本業はピアニストでしたが絵画や書道が堪能でした。そしてやはり釣りも得意でおいしいものが大好き。ミュージシャンの傍ら、料理研究家としても活動していたんですよ」
女将さんは大阪・岸和田生まれで、女優になるため上京。仕事を通じて石橋さんと出会って結婚した。それ以来、この店で働き続けている。2024年現在83歳だが、オープンから閉店まで店に立つお達者ぶり。「大きな病気もせず元気でいられるのは仕事をしているからだと思うの」。澄んだ目で筆者を見つめ、ときおり「うふふ」と笑う。ハツラツな女将さんに元気をもらった。
パッとメニューを見たら家庭的な料理がならんでおり、気兼ねがないのもいい。「ここでは家に帰ってきた時のようにリラックスしておいしいものを食べながらお酒を飲んでいただきたい。私はそれをいちばん大切にしているんです。お客さんたちにとってこの店は実家とか親戚のお家に来たような感じなんじゃないですか」。
そういって笑うとエクボが浮かぶチャーミングな女将さんに、自分の母の姿を重ねてしまった。
四季折々のとれピチお刺し身盛り合わせと、厚切りのぶり大根で冷酒をきゅ〜っといただく
女将さんとの会話が弾んだところで、そろそろ何かいただいてみよう。メニューを見ると、どれもボリュームに対してお値打ち価格だ。
「東京は地方から来てる人も多いじゃないですか。うちはわりと家庭的なメニューも多いので、私のことを“東京の母”なんて、慕ってくれる方もいますね。ちなみに、値段は昔から変わっておりません。石橋が亡くなって30年以上経ちますが、少なくともその当時からは変えていないんです。だから、『意外と安いわね』って言ってくださる方も多いんですよ」
それはありがたい! 店の由来を聞いて魚料理には自信があるはずだと思い、刺身盛り合わせ2750円とぶりと大根の炊き合わせ1320円、お酒は賀茂鶴 吟醸辛口1合660円を注文。見るからに鮮度バツグンのお刺し身たちがキレイに盛り付けられていく。
しばらくして注文していたものが卓上いっぱいに並べられた。うわぁ、超豪華!
格別の晩酌になり心の中で小躍りしながらカンパ〜イ。まずは賀茂鶴 吟醸辛口をひとくち。芳醇な香りで、キリッとした辛口の本醸造だ。「冷やはもちろん、お燗でもおいしいお酒ですよ」。
刺し身を辛口の酒と合わせて食べるのが好きなので、先に刺し身の皿に手を伸ばす。取材当日はマグロの赤身、中トロ、土佐ガツオ、ミズダコ、イイダコ、マダイ、ホタテ、シマアジの8種だが、季節によって魚種や品数が変わる。
ねっとりとして旨味が濃いマグロの赤身、文字通り口に入れた瞬間にとろける中トロ、春の風物詩・やわらか〜いイイダコと磯の香りが強い新わかめなど、ひとつずつ味わってはチビリチビリと酒を飲む。いや〜、やっぱり刺し身には冷酒ですねぇ。刺し身を全種類制覇したところで、次はぶりと大根の炊き合わせだ。
こんなにブリンとしたぶりを食べるのは久しぶり! ほどよく脂がのって日本酒にちょうどいい。スッと箸が入るほどやわらかい大根は、こんなに分厚いのに中まで味が染みていて“さすがプロの技”と唸る。味付けも甘ったるくなく上品だ。ぶり大根は冬のメニューだが、この店ではいつでも味わえるのもいい。これまた酒がすすむ料理で、食べ切るころにはコップはおろか、マスの中の酒もなくなっていた。
商談、恋愛、友人……この店で親密な関係になれるテーブルの距離感
食事に夢中で、完食するまで気が付かなかったが、この店のテーブルのサイズはちょっと個性的だ。
「これは前の店から持ってきたヒノキの一枚板で作ったテーブルで、50年以上使っています。長年親交があった美術デザイナーの伊藤熹朔さんが作ってくれたんです。テレビ番組のセットを評価する『伊藤熹朔賞』っていうのがあるくらい超有名な方なんですけど、伊藤先生の最後の作品がこのテーブルです。『お店に来た人たちが仲良くなれるものを』といって作ってくださいました」
たしかに卓を挟んで手を伸ばせば相手に届くくらいのちょうどいい距離感だ。かといって、パーソナルスペースを侵すほどではない。相性が合う相手なら、お酒の酔いも手伝って心のカギを開けやすくなるのだろう。実際にこの店で出会ったカップルが結婚したり、ここで飲んだ後に仕事がうまくいったりというお客さんの体験談もある。
片想い中の人や同僚、かけがえのない友人。親睦を深めたい人がいるならまずはここで一献飲むことをおすすめしたい。筆者はいつもお世話になっている担当編集さんを誘って、日頃の感謝のキモチを伝えたい。
構成=アート・サプライ 取材・文・撮影=パンチ広沢