“おとなしめキャラ”が気兼ねなく過ごせる店を
『スズメノツノ』という不思議な名前。店名をギリギリまで決めかねていた店主の小見山(こみやま)さんが、偶然ラジオから聞こえてきて耳に残った言葉だ。付き合いのあったデザイナーに「どう思う?」と相談。すると「カタカナにすると全部の文字に左向きのはらいが入って見た目もいい」と、ツノのついたスズメを描いたロゴもデザインしてくれた。なお、”スズメの角”とは恐れるに足りない武器のたとえ。言葉の意味はお店のコンセプトとは関係ないらしい。
小見山さんは、20年ほど服飾業界の会社員としてネクタイのデザインに携わりつつバンド活動を熱心に続けていた人物。定年までは務めることはないだろうと考えていた会社を退職して、自分の店を持つことにしたのは50歳のときだった。
デザイナーでバンドマン。社会とはそれなりに折り合いをつけていたが、どこかなじみきれない感覚をずっと持っていた。だから同じような人が気兼ねなく過ごせる場所を作りたいと考えた。
訪れるのは多くがおひとり様だ。特に常連客は「みんなキャラクターが一緒!」なのだとか。
その“キャラ”とは、年齢はさまざまながら、ひとりでも時間を楽しめる人たち。
それぞれ趣味の本を読んだり、予定を立てたり、絵を描いたりしながら、静かに、でも楽しそうに過ごしている。そのため壁に向かって座る1人席から埋まっていく。
料理担当は研究熱心。人気メニューは2種類のカレーに固めのプリン
カレーは6種類の野菜を煮込んでミキサーにかけたベジピュレがベース。チキンカリーとC.キーマカリーの2種類があって、あいがけも可能だ。
香りのいいチキンカレーはベジピュレが主体でポタージュのような食感になっている。口に入れた瞬間は甘みをいちばんに感じて辛さはわからないほどなのに、最後には舌の上にほんのりスパイシーさが残る。程よく煮込まれた国産鶏もも肉の柔らかさも絶妙。小さく砕かれたカシューナッツが入っていて食感のアクセントにもなっている。
C.キーマカレーは豚と牛をかなり粗い挽肉にして使っていて食べ応えあり。名前のCは中華でよく使うスパイスや調味料が使われていることからチャイニーズのC。麻婆豆腐を思い出すような味わいにハマってしまう。常連客の中には決まってキーマカレーを注文する人もいるそうだ。
調理は小見山さんの妻が担当している。
「飲食店で働いた経験もなかったうちの奥さんは、すごく研究熱心。新しいメニュー候補を試食すると、僕がもうお店に出せると思っても、彼女にとって不十分。最終的にメニューにならないことまであります」
何度も研究した末に生まれたスイーツの中でも、プリンは人気No.1。レトロな器に盛り付けられた佇まいにときめかずにはいられない。この器と出合ったことがプリンをメニューに加えるきっかけになったそうだ。
プリン本体は卵の味が濃く、余計なものが入っていないことはひと口でわかる。スプーンを入れるのが楽しくなるような固さも魅力的だ。
コーヒーは店主の担当。スズメブレンドとツノブレンド、店名に関係あるブレンドが2種類用意されている。スズメブレンドは口当たりがよくスッキリしていて、どこか懐かしいタイプだ。
ツノブレンドはフルーティーな酸味も感じる。店を始めることになって参加した勉強会で、コーヒーの酸味の何たるかを知った店主が酸味のあるコーヒーも飲んでもらいたいと取り入れたのだとか。一杯ずつハンドドリップで淹れている。
コロナ禍にあったちょっといいこと
2019年に店がオープンし、1年後にはコロナ禍に見舞われた。「コロナのとき、店にとっていいこともあったんです」と小見山さんは振り返る。『スズメノツノ』の常連客は、少なくともお店の中ではおとなしい人が多い。それゆえ会計のときにひとことふたこと言葉を交わす程度で、名前を知る機会などなかった。
他に常連客が話しかけてくるのは大抵別れのときだ。「引っ越すので、今日が最後です」と挨拶していく。そのとき初めて、その人が持つ背景を知ったりもする。
それがテイクアウトの注文を電話で受けて受け取りに来た人の顔を見て、ああ、あなたはいつも土曜日にくる人、といったことが何度か起こった。店と常連客とのつながりがそれまで以上に強く感じられるようになった。
小見山さんは元々ステージの真ん中に立ってきた人。一方『スズメノツノ』では、訪れる人が自分の時間を楽しめるように、バックステージの人に徹している。演奏していたのはロックやブルースだったのに、かける音楽さえ訪れる人の雰囲気に合わせて1930年代の落ち着いた曲を主としたネットラジオに変わった。店主がつむぐやさしい時間が流れるお店へ、自分だけの時間を味わいに行きたい。
取材・撮影・文=野崎さおり