天皇の子を産みながら「中宮」の座に就けなかった詮子

まずは詮子の人生をおさらいしよう。

藤原詮子(あきこ/せんし)は、円融天皇とのあいだに懐仁親王(のちの一条天皇)を出産。彼は円融天皇にとって初めての子供だった。当然、詮子は、円融天皇の妻たちのなかで最もえらいポジションに就くことができるだろう……と思いきや。円融天皇が「中宮」の座に置いたのは、詮子ではなく、遵子(のぶこ/じゅんし)だった。

「子供を産んだのに、私を差し置いて、遵子の地位を上にするの!?」

詮子と遵子では同じ藤原家出身ということで地位もほぼ同じ、ふたりとも女御だったからこそ、子がいない女御に子がいる女御が負けた……というのは前代未聞だったのだ。詮子は心底嘆き悲しんだ。

しかし結局、円融天皇が健康上の理由で(といっても『光る君へ』では兼家が毒を盛ったことになっていましたが……)退位。

花山天皇が即位するも、わずか二年で出家。

そうして懐仁親王が即位(一条天皇)。そして初めて、詮子は天皇の母として、皇太后となったのだった。

皇太后は、中宮よりも、地位が上。

――昔の屈辱を晴らすかのような出来事だった。

詮子をモデルにした『源氏物語』の登場人物

さてそんな詮子をモデルにしたであろう人物が『源氏物語』には存在する。それは弘徽殿(こきでん)の女御、と呼ばれる女性だ。

弘徽殿の女御は、右大臣の娘であり、桐壺帝の妻だった。家柄も良くて、なにより天皇との間に子供を出産していた。

しかし桐壺帝は――弘徽殿の女御ではなく、中宮の座に、藤壺を置いたのだった。

……どこかで聞いた話である。

 

七月、藤壺の女御が中宮となった。

源氏の君は、宰相(參議)に昇進した。

桐壺帝はそのうち帝の座を退位するつもりだったので、藤壺の息子を東宮(=皇太子)にしようと思っていた。が、藤壺の実家というのはみんな親王ゆえに政治に関わることができない。そのため将来の有力な後ろ盾がいないのだ。

だからこそ、藤壺を中宮にして地位を高めておくことで、その息子の力になることができるように、と桐壺帝は考えたのだった。

しかしショックを受けたのは、弘徽殿の女御だ。

私の地位は、藤壺よりも下なの? そう思う女御に対して、桐壺帝は

「すぐにあなたの息子が天皇になりますよ……そのときはあなたが皇太后だ。安心してほしい」

と言う。

しかし世間は「皇太子の母であり、入内して20年以上経つのに、弘徽殿の女御を差し置いて藤壺様を中宮にするんだ……なんでそんなことになったんだろうな」と噂し、悪口を言い合うのだった。

〈原文〉

七月にぞ后ゐたまふめりし。源氏の君、宰相になりたまひぬ。帝、下りゐさせたまはむの御心づかひ近うなりて、この若宮を坊に、と思ひきこえさせたまふに、御後見したまふべき人おはせず。御母方の、みな親王たちにて、源氏の公事しりたまふ筋ならねば、母宮をだに動きなきさまにしおきたてまつりて、強りにと思すになむありける。

弘徽殿、いとど御心動きたまふ、ことわりなり。されど、

「春宮の御世、いと近うなりぬれば、疑ひなき御位なり。思ほしのどめよ」

とぞ聞こえさせたまひける。「げに、春宮の御母にて二十余年になりたまへる女御をおきたてまつりては、引き越したてまつりたまひがたきことなりかし」と、例の、やすからず世人も聞こえけり。

(「紅葉賀」『新編 日本古典文学全集21・源氏物語(1)』より原文引用、訳は筆者意訳)

 

これは完全に円融天皇、詮子、遵子の出来事をモデルにして書いたエピソードであろう、と言われている。

史実を知ってから読むと「ああ、この話って元ネタは詮子の……」とにやにやできるかもしれない。実際、『源氏物語』は紫式部が宮中で仕入れたエピソードをもとに綴った政治劇も多かったという。平安時代の人々はある種のゴシップを楽しむようなかたちで『源氏物語』を楽しんでいたのではないか、と言われている。

『源氏物語』を当時の読者の感覚で楽しむ

ちなみに実際に紫式部が『源氏物語』をどのような年代で設定したのかといえば、作者紫式部の活躍していた時期は、一条天皇(在位986年~1011年)の時代だった。

しかし作中の描写を見てみると、それより50~100年前ほどの時代が舞台となっていることがわかっている。

たとえば琴(=七絃琴)がたくさん登場するが、一条天皇の時代にはメジャーな楽器と言えば箏(=十三絃)だった。つまり光源氏の弾く琴は、すでに当時ちょっとレトロな楽器だったのである。

あるいは『源氏物語』にしばしば登場する男踏歌(おとことうか)は、円融天皇の時代以来おこなわれていない(最後の行事は983年)。

ほかにもさまざまな描写があるが、そんなわけで当時の読者からすると「親世代の宮中が描かれている」感覚だったのではないか、と言われている。具体的に言うと、醍醐天皇(在位897年~930年)あたりがモデルになっているようなのだ。

そう考えると、いまでいえばNetflixでエリザベス女王の人生を描いた『ザ・クラウン』が人気であるが、まさに『源氏物語』は現代人にとっての『ザ・クラウン』のようなものだったのではないだろうか。あくまでフィクションであるが、随所にちりばめられる宮中の政治劇などは「ああこのエピソードはあの皇室の方の話がモデルだな」と当時の読者はわかっていたのだろう。

それらを踏まえると、今回の大河ドラマ『光る君へ』で平安時代の政治劇を楽しむことができれば、『源氏物語』をより当時の読者に近い感覚で読めるようになる、その第一歩を歩みだせる……かもしれない。

『源氏物語』はフィクションだが、しかし今の人々が考えるフィクションよりもずっと現実に近かったのだろう。当時は「噂話」と「物語」の境界が、今よりもずっと曖昧だった。なんせ「物語」という古語は、現代語では「雑談」「噂話」という意味なのだ。昔の話や他人から聞いた話と、創作として読む話が、混合していた時代。そんな時代だからこそむしろ『源氏物語』は生まれ得たのだろう。

平安時代の宮中の跡地へ

さて、最後に『源氏物語』の弘徽殿跡地を紹介したい。

なんとこの場所、2021年になって内裏の建物跡が遺構として見つかったのである!

登華殿や弘徽殿の遺構が見つかるというビッグニュースなのだが、すでに埋め戻され、現在は老人ホームが立っているらしい。京都ではしばしばこのような「掘ってたら昔の遺構が見つかっちゃった」というニュースがあるので驚くばかりだが、そんなわけで現在何かの名所になっているというわけではない。ただ「平安宮内裏弘徽殿跡」という石碑がひっそりと立っているばかりである。

ひっそりと立つ「平安宮内裏弘徽殿跡」。
ひっそりと立つ「平安宮内裏弘徽殿跡」。

京都御所からもっと西に進み、二条城の近くのこのあたりは、平安時代の宮中の跡地を示す石碑がとても多い。観光で二条城に立ち寄った際、時間のある方は散歩しながら石碑を巡ってみるのも楽しいかもしれない。御所や二条城といっしょに行ってみることをおすすめしたい。

二条城。周辺の石碑を巡る散歩もおすすめだ。
二条城。周辺の石碑を巡る散歩もおすすめだ。

文=三宅香帆 写真=PIXTA

大河ドラマ『光る君へ』第四話では、「五節の舞」が大きな物語の転換点となっていた。主人公まひろが、三郎の正体――藤原家の三男であり、さらに自分の母を殺した犯人の弟であることを知ってしまうのだ。
紫式部と並び、平安時代の優れた書き手として知られるのが、清少納言。言わずと知れた『枕草子』の作者である。『枕草子』といえば、「春はあけぼの」といったような、季節に関する描写を思い出す人もいるだろう。が、実は清少納言が自分の人間関係や宮中でのエピソードを綴っている部分もたくさんあるのだ。そのなかのひとつに、大河ドラマ『光る君へ』にも登場する藤原公任(きんとう)とのエピソードがある。今回はそれを紹介したい。